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木地屋のはなし

 折口信夫『被差別の民俗学』(河出書房新社)の「木地屋のはなし」には、春日村の米神が登場する。米神とは春日村の小宮神のことである。十数年前に、小宮神の木地屋さんから系図を鑑定してくれと頼まれていた折口が、十数年後にやっと小宮神を訪れるという話だ。「都合がついたら惟喬親王の御陵を見に来てくれ」と頼まれている。

「切り立った崖の狭間に出来ている村落で、そこに猟師村のように家がごちゃごちゃ並んでおり、その中に本家というのが三軒程あるので、惟喬親王の御陵といっているのは、実は、その本家の先祖らしいのです。とにかく、私どもの知識では、何の根拠もないということがはっきり呑みこめましたので、これは「小野宮御陵伝説地」というくらいならよいかもしれないが、それ以上のことをいうのはよくないだろうと申しておきました。尚、ここの木地屋は、この第二図、即ち、金龍寺から出している方を掛けているので、採色をした極新しいものでした。」

 折口は小宮神の木地屋から、系図の鑑定を頼まれ、系図を返すついでに、小宮神を訪れたのである。親王の御陵は本家の先祖らしい、惟喬親王伝説の地くらいならよいかもしれないと言っておいた、とある。
 

木地師は木から器をつくる職業だ。山の木を伐ってつくるため、山から山を渡って歩く定住しない生活が漂白民のようにも考えられ、ノスタルジックに語られることも多い。しかし、折口が「詩的に考えると、大昔から山に居った一種の漂泊民が、まだ、生活を改めないでいたように考えられるのであるが、そこまで考えるのはどうかと思います。とにかく、昔は、幾度も氏子狩り(氏子をつきとめて戸籍に登録)ということを致しております。ちょうど、山に棲む動物を探すように、氏子をつきとめて、戸籍に登録するので、こんな点から考えると、昔の民生もそうだらしのないものではなかったことがわかります。」と述べているように、民生は幾度も氏子狩りをし、山に棲む動物をさがすように戸籍を登録。木地師も氏子であることを利用して、関所を超えた。全国の木地師は二つの神社の氏子となっており、折口の言葉を借りれば、民生が行き届いた証拠であるが、祭神の一つが、小宮神の惟喬親王である。器をつくるのに必要な轆轤を発明されたということで神となった(もう一つの祭神は筒井八幡である)。惟喬親王は清和天皇の兄弟。父は文徳天皇となっている。朝廷の争いから逃れた親王は父文徳天皇が与えた重臣をしたがえて都を離れ、滋賀県で亡くなる。そのような流浪の伝説から、滋賀県の君ケ畑に居を構え、轆轤を発明した神にされた。

 木地師が持っている掛け図には二つの型があるが、筒井八幡から出しているのがほとんどで、君ケ畑の大皇大明神の別当格の金龍寺の出しているものは少ないというが、折口によれば小宮神にあるのは少ない大皇大明神のものということである。

 
「木地師のお墓が小宮神にあるんだって」こんな、質問をしてみた。山口久子さんは、「ああ、あれだ」と二つ返事。しかも、木地師のことなら何でも知っているという、小宮神の藤原重行さんにすぐに電話してくれたのだった。

 藤原の家まで久子さんが案内してくれたが、小宮神は湾曲する川の近くにある。本当に、ごちゃごちゃと並んだ集落の中で、家はひしめき合うように立っており、その路地にりっぱな石碑がある。門は君ガ畑で見たものと同じである。
 
 しかし、惟喬親王の墓とは書いていない。「文徳帝皇子の惟喬親王の臣たる我等の祖」
先祖は惟喬親王の臣であることが、藤原家の墓の側面に彫られている。折口のアドバイスを守ったものだろう。

 藤原重行さんは95歳。系図や、木地師のろくろを見せてくれる。訪問者も多いとのこと。系図は床の間に飾ってある。折口の言うように「彩色をした極新しいもの」である。中心が惟喬親王で、臣である藤原家の先祖藤原定勝は、系図の左下に見えている。

 

 

 藤原さんに先祖が小宮神に行きついた伝説を語ってもらった。朝廷の争いから逃れ、父文徳天皇が与えた重臣をしたがえて都を離れたところから伝説は始まる。
 
 
 「惟喬親王さんが重臣とともに鈴鹿峠へ逃げた。山のてっぺんに大きな池があって、池の端でお椀をつくっていて、のみでかんかんと。こいつはえらい。何か良いこと考えないといけないと4年間かかって親王さんは、轆轤をおつくりになった。
 藤原さんの先祖である石位左衛門(藤原定勝)は年が若かったので、日本中に轆轤を教えに歩いた。

 山を歩いていると、どこに木が生えているかわかる。伊吹山と西と東ではちがうわね。東側は日があたらないね。滋賀県は、楢材や栃、ブナの木でお椀をつくった。

 藤原定勝が笹又(春日村古屋)でなら一代暮らせると思っていると、先住民が来てね。「雪があると、下にいいとこ探せ」と。下へ行ったら、ここだけあいとった。惟喬親王がはじめ落ちていったところと同じような池があった。そこに親王をまつって、先祖さんは館をつくった。

 しかし。小宮神の藤原は威張り過ぎたのだろう。明治維新で土地が住民に分け与えられたのに、小宮神は何ももらえなかった。中央は、水田もないところで、栃の実で生きてきたのに、その栃の木を手当り次第、片っ端から切ってまうでね。恨まれても、恨まれても。今でも小宮神ってところはあわれなもの。

 木地師は木地をやる人と、京都へ運ぶ人とね。1000年も前のこと。親父は炭焼き。自分は満州。昭和14年からだ。引き上げても要領の良い人は、土地がもらえた。進駐軍が引揚者にあげた。小宮神は全くない。満州から引き揚げても手当もなくて、炭焼き、丹波、京都の奥に。それから商社に見込まれてこの土地に工場を建てて経営した。」


 惟喬親王はお上の山だということで、それで生活していた栃の木を伐ってまうんで、村からは恨まれていたーーと言う藤原さん。
 
 「小宮神の下の平だけもらって、一番下に住む人が一番古い。用水がなくてね。上から壁伝いにくる水を使った。上に上がるとええ平でね。ど真ん中に池があった。東の方がやや高く、北の方が落ちていた。落合って書いてね。それがまったいらになったるで、池になってね。それも恨まれて、何年もかかって川から運んだジャリで埋められたと聞いた。昔のこっちゃ。」

 小宮神は明治14年になって初めて自分の寺をもった。この辺りの東本願寺の寺では教如上人を偲ぶ五日講というのがあるが、小宮神は入っていない。


 「小宮神ははじめお寺がなくてね、香六の寺にまいると嫌がられて、雪の降った時も中にいれてもらえなかった。どこかお寺をつくりたいと言ったのに、香六の村長が小宮神を憎んでね。もしつくるなら、長男だけ門徒にして、あとは、香六の門徒にしろとね。できんことの条件出してきた。どうしても建てたいなら、香六に金300円を出せとね。借金でね、親父が兵隊から帰った時の手当でやっと返し終わった。
 寺が出来たのは明治14年。光永寺。ここに文書がある。写したんだ。」

 山から山に渡った木地師が、土着の過程で経験した話だろう。木地師は小宮神の土地を探して下から住みついた。壁から流れる水を使い、他の村のお寺を利用した。栃を使うので憎まれた。

 藤原さんは建立の経緯を文書に残してある(その経緯は別に述べたい)。

 

 これは、満州から送った木彫り。イタヤの木があってね。日本に送った時、前につきだした手が折れていた。
 


 
 
 

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