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竹屋谷 

尾小屋橋付近の川
貝月山の頂上から谷を眺めたことがあるものの、その谷の一つに思いをはせることはあまりなかったが、曰くありげな谷や滝の名前に人の匂いや獣の匂いを感じるようになった。つい、最近まで、そこには人の営みがあったのである。
 
 竹屋谷は春日の最奥の集落からさらに林道を行く。美束の寺本、尾西は集落だけの景色でも美しい。秋の終わりには2つの集落で太鼓踊りが行われ、金の音とともに鮮やかな衣装や神の依り代が社叢の間から見え隠れする。
太鼓は夜に見ることにして、我々は竹屋谷に向う。尾西の集落を過ぎ、品又、大平林道に道が分かれる。品又は火越峠を越えて坂内に至る道である。

シラキ


谷に向う林道は既に花崗岩帯特有の白い明るい川が平行して走り、紅葉が鮮やかである。終点から谷に入るが、林道があるとは言え、国見、虎子岳、伊吹の山の間に重なる山々を見ると、やはり集落からかなり、遠いところに来たのだと実感する。熊の糞が落ちている。

 山に入ると、ドングリの絨毯ですべるほどである。チシャの木、スイカ、ジシャグラ、クロモジ、ウリノキ、シラキ、ナラボウソウ、コメナラ、ナラホウソウ、クロモジ、テッペツ、チシャの木。
歩きながら山口さんが木や虫の説明をしてくれる。マムシの腐った匂い。ヒルの話を聞く。テッペツは蚕より大きい蛾で栃の実を食べる。その繭は魚釣の糸にした。
 
木の名前は葉ではなく、幹で見る。ネッソの木はねじくると広がり、荷をしばる道具となる。
ウツギはたたくと筆になる。くだ木とも言い、糸をつむぐときに使う。ジシャグラは肌が黒く。シラキは地が白い。ジシャグラからは油をしぼることができる。春の若芽はきれいである。シラキは炭にするとカチンと音がする。炭焼の記憶である。山口さんは20ぐらいまで炭焼きをした。4月に窯をつくりに山にはいり2カ月、5、6月から炭を出した。車に積んで名古屋まで売りにいった。
 
 木を味見させてもらう。クロモジはすっきりとした味わい。スイカは酸っぱい味。

 滝の見どころは主に4カ所。まず、観音滝に。入り口から450メートルの地点である。観音滝の川には谷から川が注ぎ込む。
 



どんぐりのじゅうたん

観音滝



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