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駒月さんに聞いた 神社の不思議な話

昭和19年、子どもの時にね、必勝祈願に、毎朝、神さんに行くようにと学校から言われとって、終戦の前の年にわしらが見つけたんじゃが、御殿の付近からお庭に白い皮蛇がどんどこどんやったね。無数に。

蛇は一匹も見なんだ。親達に言うたら、宮の下の近くの人がろうそくともして、それならば、御神体を拝謁しようかということになった。

いまでもケガしてござるが、御神体が爪でひっかれたような血膿が無数にあった。戦争に行って、ケガされたんじゃということになった。

御殿を直す時とか、御神体を移動させるときは、夜中に移動する。
禰宜やってたときは、扉を開けて拝む。神様は六人の人や。

六社神社の御拝殿には、和紙で書いたもんがたくさんあった。平成の2年に。役の連中が、元旦のかがり火で焼いてまった。何て書いてあったかもしれんが、あれがあるとわかるが、あきめくらってやっちゃ。
だから、祢宜をやったときに、先人の書いたのをまとめた。神社庁が検閲してね。鳥居や御殿の建て方から、お宮さんに奉納してある。


六社神社の不思議の話は、駒月巌著「郷土史話」にも収録されている。

 著者駒月巌は県会議員として揖斐町または池田町に居住し居りたる為比の六社神社の不思議を眼に見るを得ざりしも、故駒月留吉氏の実話の中にて信ずるに足るものを左に記述することにする。
其の一、千背負うも追々と進みて大東亜戦争の難戦となるや、六社神社の正面杉の二本の枝に、無数の白蛇の皮が簾の如く垂れ下がって、その数は到底数へられるのほどの多数にて村人達はただ不思議不思議と眼を見張るのみにて、中には神様の御使ひとして比の多数の白蛇が戦地へ出征したるならんと語り合う者もありたり。
其の二、それより少し遅れて、今度は六社神社の御手洗い(ミタラシ)に、これ又無数の白蛇の卵が一面に真になるほど産み落とされて居る有様に村人たちは二度の不思議に惟あきれんばかりなりしと云う。
其の三、当時安土の駒月善吉が禰宜なりしに、戦勝祈願のために毎夜六社神社に参拝したりたるに或夜参り見れば御戸扉が少しく開き居りたるに驚き、之は神様が日本を助けるために戦地へ出征し下されたるものと信じ、村人達に話したりと云ふ。

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