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岩のいわれ  話者 山口 保氏
 美束の地名を記録する。以下、聞き取り。
戸棚岩



こもん岩 
 きくせにあった。安部晴明がみたい  と言った。 みかげ石に黒い紋がついていた。台風で無くなった。

新川屋敷の五輪塔
 月桂院と同じ石の五輪塔である。関ケ原合戦による落人を金のよろいかぶとをきたまま葬ったとの言い伝えがある。木をなぶるとたたりがあると伝えられた。立派な百日紅がある。石垣のつくりも、古いものである。
 新川屋敷というのは、この当たりで唯一、門があった家である。
 関ケ原の武将の敗走路であった。身分が高かったため、金を渡して始末をしてもらったものと思う。

高位神社 
 日坂の高橋さんに感謝して明治に祀った。日坂の高橋さんは、大平、品又800町歩の所有権を滋賀県側と争った時に、水の流れを見て、水の流れを境に当地を美束のものとして裁判の勝訴に尽力してくれたので、祀るものである。
神渡しぶち(みたらし岩 )
 折本地内にあとかえり渕と名のある渕がある。水深3米は楽にある青く澄んだ流れである。対岸は三十米ぐらいの絶壁とその水面近くに高さ4米奥行六米ほどの蛇の穴と云う洞窟がある。いまは釣り人以外は訪れる人影もないが、昭和の時代には多くの子どもから大人まで水泳場としてにぎわったことでした。
 あとかえりと言う名の如く不思議にも水が流れに反て上流に向って流れる時があり、不思議な所でもあり、大人同行でないと固く禁止された時もありました。
 私ども子どもの頃はそんなのおかまいなしで泳いだものでした。又近くの蛇の穴に入り大声をあげ、時には、歌など大勢で歌ったのはありし日の思い出であります。春は、岩陰の中腹あたりに岩つつじがとってもきれいであります。また、フジの花見を対岸の砂場でたたづみ、カメラを向けたい場所であります。

貝原谷の七間岩
 県道春日揖斐川線貝原谷入口より約100米上流。花崗岩の岩盤、谷の流れにそう様に岩肌の上に浮いたような状況であるのが七間岩である。
 ある部落の古老の話によると台風等による増水時は少しずつ下流に流されるとのこと。伊勢湾台風時も礎石流発生時は6米くらい下流に押し出されたということである。
  又、その台風の時、土石流は未曾有であり、県道春日揖斐線須磨地区では、道路3米もある転石が多々あり、土石流に押し流されたものであり、自然の恐ろしさを感じた次第であった。その台風時には七間岩は7米流れたとのことでした。その時を思い出し忘れたころに災害ありとのことわざの意味を痛感した次第であります。防災の面からも砂防対策の必要性を考えるべきと思います。

梨谷のしょうぶ岩
 尾西梨谷の奥深く国見峠のふもと近く西向いの山中腹にポツンと大岩がある。高さ約7米、長さ十米洞窟状の岩であり奥行三米長さ6米くらいはあり、今は杉の植林をして杉林の中である。昔は炭焼き人がよく資材置場として利用した所である。
 その昔、山仕事で入山しておった方が急に産気づき、仕方なくこの岩屋に入りお産したとのこと、その方の名をとりショウブ岩と呼ぶようになったとのこと。花崗岩の一枚岩であり雨露をしのぐには、もってこいの岩であり、今は立ち寄る人もなく大岩だけがその地の守り神の様であるが、たまにはおにぎりあたり持って一休みするのも良きところではないだろうか。今は知る人の案内なしでは行くことは困難と思います。
不動の滝
坂東さんのご両親が修行した滝である。
桃の木のしゃべり岩
 尾西谷奥に××洞と地名がある。そこにも御影石の大岩がある。かなり垂直に近く、石というより、岩石の方が表現的にはあてはまるであろう。昔はその石の付近は茅刈場でもあったため、子どものころ、親に伴われ行き、大声をあげると山彦のようにはね帰る事で、ともに競い合うように大声を上げた事でした。
 その様な岩ですので、しゃべり岩と名が知られてい居ります。国見峠のふもとであります。
 
白川薬師淵
白川の旧白川橋の下左岸に壁にぶつかる粕川の青く澄んだ水深二米五十程の深みのある淵でありました。昭和三十年くらいまでは夏に子供達の水泳場として地区の子供の楽しむ声が多く聞かされた処であります。また、名の由来は近くに薬師堂があり、永年地元民に崇拝された薬師様であり、現在も毎日のように、花のお供えが途絶える事の無い仏様であり、長い歴史と伝統を何時でも守るべきと思われます。

雨だれ岩
 旧道川合地内に通じる今は門林より峠平林道仏谷すこし下る山肌に、まるで猿の腰掛け椎岩石が重なり数枚つきだしていたその石がまるで旧街道の尾根に疵のようであったちょうど大人の顔あたりより上に重なり、そのしずくはかなりの日照が続いても石の上部よりしたたり落ちる水、容赦なく顔全身を濡らす水、通行人すべてに水を配るがごとくやっかいな水であった。だれが名付けたのやらこの石を雨だれ岩と呼ぶようになったのである。

渡渡瀬 とよわたぜ
 粕川支流東品又谷、樹齢100年程の木の間を花崗岩の岩盤長さ二〇米もある、まるで斜めの滝の様な水しぶきを上げているところである。水音で小鳥の声も聞きづらく感じる所である。林道開設以前は必ずこの渡瀬を越えなければ上流の山仕事は行えない場所であります。
 滝よりも上流は山林面積も多く、世変谷、鷹の巣谷、壁屋谷、西平、東平、峠谷(とうげんたに)と地名あり、峠谷を越える所火越し峠であり坂内地区に通じる山道であります。
 昭和30年代、品又林道開設以来この山道を通る事はなく、夏でも冬でも渡瀬を渡るたび水にぬれて往来したのである。又、時々は足を滑らせ危険をともなう所でした。今は林道下四十米位の所に見る事が出来ますが知る人も少なく、毎日、白いしぶきを上げ白波が誰かを呼んでいるようです。長く世に伝え残したいと思います。自然の営みを。

亀淵 カッパ
 越良谷の畑より見下ろすと青く澄んだ淵が見える名前のごとく亀の群れが大岩に登り所せましとばかり甲干が目に映る中には子亀を背中にのっているのも楽しく思われる。落合橋付近 亀がハエを食べ て生きていた。石を投げていじめたものです。
 少し下流の河太郎淵そこには河童が住むと云われ、子供のころ私達は親より行くなとよく言われたものだ。今は昔、面影はなく、話をする人も少なくなった次第でもあるが、何となくさびしさを感じ、たまに川岸に立ち思い出す程である。
  河太郎渕で藁草履をつくっていたところ、河太郎が蜘蛛に化けて藁草履をつくっている人の足に蜘蛛の糸をかけた。その人が見抜くと、蜘蛛に化けた河太郎が謝って、きゅうりの味噌汁を食べてきた人には悪いことをしないと教えた。きゅうりの味噌汁を食べていけば、危害を与えないことがわかった。
  河太郎とは河童のことである。ア マゴがいて、生け簀のようだった。

山椒淵 面罵淵 ともいう
 人が五人も水に入ればいっぱいになる様な青く澄んだ深さ二米位でありましたが、他人同志仲良く泳ぐことができないようなところでした。人が罵り合うような山椒のような辛い気持ちで人とのふれあいすらできなかったような広さであったことより名付けられたとも言い伝えられた場所でありました。ゆとりなき淵でした。人々との和のとれる様でもない事から面罵淵とも言われた薄情の集まると感じます。

鹿淵
   昔より鹿がよく水遊びをしたと言う伝えのある表川に長さ50米もあろう流れのゆるやかな浅瀬の多い淵である。私どもが幼いころは危険のない絶好な水泳場であった。夏には必ず走って行き水しぶきを上げ、小石に草を巻き付け川底に沈め、それを拾い上げるのを競い合って時の過ぎるのを忘れ唇が紫になるまで泳いだものであった。今は子供の声もなく、さみしげな清き流れのみである。孫の手を引き連れて訪れてみたいと思います。
 
坊主くずれ 大平林道の上
北伊吹鉱山跡 大平
鉈ケ岩
西蔵寺 教如上人が池の鏡に自分をうつし、自画像をかいた寺
戸棚岩 大平



さかしま川 
 大平の滝を上っていくと、最終の滝の上に杉がある。そこから。どちらに水が流れていくかわからないところ。
千疋城跡
石屋
津島神社付近の鉱山跡
津島神社

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