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百草 2月28日 中山観音寺 

2月28日 中山観音寺 
百草について


さざれ石からちょっと上にいく道にね。百草とってもらったヨネゾウという人の家、これがこっちべたにあったんじゃ。小さい家だけどね、ちゃんと塗り壁でね。登っていくなら地蔵さんが立っとったでね。小宮神の藤原よねぞうって人やよ。小宮神から笹又、行って、笹又に畑があったから。

 昔、伊吹山登ったでね。中学の時に。笹又は小宮神の人や古屋の人の畑があるんだでね。あの人らはずっと住んだ。百草、その人にとってもらってね。ゲンノウショウコやトウキやらドクダミやら。

 お地蔵さん、みちのくろにあった。

 中学の時にね、伊吹山行くのに、みんな、笹又から登ったん。この足で、笹又から行く。夕方いって、朝方、日の出拝む。夜さ方、登った。寒かった。12時、昔、アセチレン灯ってね。灯して、登った。女の先生が弱がって、途中で悪うなって、みんなで負ってきたね。よう覚えとるよ。お地蔵さんの横で倒れてまったね。足はわらぞうり、中学1年の時、一度行く。

 おじいさんの茂一さんは、笹又で百草とって、小宮神でだんさんがなくなって、おばあさんと、私と同じ年の子もおったその家もおじいさんに売ってね、銭とったわね。

 束にしてリヤカーでね大垣の田原町の岡田薬局ってとこにね、リヤカー乗せて百草もってたんやよ。一晩、おじいさんと二人で泊まらせてもらった。岡田薬局の二階に泊まらせてもらった。戻りはね、百草を売ったお金で、醤油とかお米とかね、おじいさんが分けてもらってね。ほいで来たんじゃ。あの時分、そりゃそうだ、戦争に負けてしばらく。私が昭和9年生まれで12、3の時。

 リヤカー積んでいったんじゃ。お父さんは戦死。お父さんの顔知らんで、わしは。お父さんは昭和12年に行って、昭和13年にね戦死。

 茂一さんは苦労しとる。蚕も飼ったん。春に。蚕と百草だった。いつもかも百草。笹又主にじゃよ。あのじぶん、どこのでもとったよ。山じゃでね。そのじぶんはね、百草もね、もりもりのようなさばくとこなかったんで、百草持ってくって、おじいさんが一人じゃったね。だっれもやっとらなんだ。おじいさんが死んでからでもうちの人が来てから車で行った。
 岡田つや子さん、後家さんじゃった。だんなさんが戦死されたのかなんだかおらなんだ。小売りしててどてっぱな倉庫があったもん。
 百草持ってくと、倉庫に卸してね、袋に入れて小売りした。茂一さんも、袋に入れて、小売りした。
 
 押切って言ってね。2階でかますに入れて。藁で編んだやつ。おじいさんは百草、2階で切ったんじゃよ。蚕飼う時、寝るところもなかったって。2階も解雇。百草は秋。10月から11月かけてね。さぶならんな乾かんでね。夏、ゲンノショウコやらとるんでん。それが11月12月にあんばいして出すね。大垣は11月ごろ行ったね。まっと早く行ったこともある。古屋の人は峠超えてね。皆、足やで。古屋までの道路は戦後。

                                 続く

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