スキップしてメイン コンテンツに移動

天龍村 伊那小沢 坂部地区

エプソンの個展のお客様から天龍村を紹介いただいた。案内してくれた本多さん、同行いただいた小高さん、ありがとうございました。

 旅の終わり。夜9時を回ったころ帰途についた。平岡の集落を抜け、418号線で阿南町までの山の中に入り、1時間。152を通り、高速に乗って道が真っすぐになった瞬間、この2日間は本当に24時間×2だけなのかと思った。浦島太郎は大げさだが、少なくても2週間は経過したように感じた。

 人生には60から「二度峠がある。二度超えられれば大丈夫だ。生きられる」。親族が亡くなった年齢を超えている。自分の年齢の前で亡くなった兄弟のことを考えている女性に出会った。

 人間の小さな思いが山と川の中の集落で、まだ、ひそひそとしゃべっている。
  
 昨日は18代、19代と先祖の辿れる村坂部に行った。坂部には熊谷家伝記といって、南北朝時代の1352年から熊谷家の開拓を始めた時からの伝記が残されている(熊谷家については宮本常一の「天竜山中の落人村」(『日本民衆史2 山に生きる人々』未来社)でも詳しいほか、柳田國男が東国古道記で紹介)
 天龍村からさかのぼる急斜面の村だ。先祖を大事にする村だから先祖は死んでも村に生き続け、先祖を祀る祭りがある。

 そういった死生観を怖いと感じるという海外の人の話を聞いた。そう言えば、チベットでは、人は死んだら輪廻すると聞いたことがある。おじいさんは死ぬと、どこかの子供に。悪い行いをすると家畜に生まれかわっている。死んだら戻ってきて村を守るという考えはないだろう。
 
 村には墓石がある。墓石は向こうの山を見ている。先祖を祀る祭りがある。死者は生き続ける。

 

山の中の大河、天龍川を初めて見る。
坂部に行く途中の伊那小沢駅では、水神様のお祭りが行われているところだった。
花吹雪の舞うなかでの餅投げ。お餅は突き立てのやわらか餅。
神主さんが、祝詞を上げていると川から風が上がってくる。穏やかな春の日だ。
伊那小沢地区は百花繚乱、桃源郷。

以下、記録として、坂部地区の関さんの聞き書き。
関さんは柚餅子生産者として44年村起こしに従事した方。(2019・4・6)。 

 私が嫁に来た時は、絣のもんぺや上着を持ってきた。
 この山の一つ向こうの阿南町から。うちの先祖は、関あきのかみの実弟だった。ここにいた熊谷一族と政略結婚だね。熊谷を名乗るのかと思ったら、関を名乗らせてくれるといってね。関のりさとしろざえもんで始まってるんだけど、18代目。

 実家の新野の瑞光院は関の先祖の初代、2代、3代のお墓を守ってきた。イチョウの木が天然記念物。
 私のおじいちゃんが関伝記を読んで、「お前さん、向こうにいって、関様を祀ってきなさい」。
 すごい、山の中で私が来る時は、道路も無くて、船に乗ってきた。嫁様の支度をしたまま、藁草履とちょうちんの迎えでこっちに来た。昭和34年。24の時。
 母親はえらい山の中にやるってことで悲しかったみたいだけど。何かあると逃げることばかり考えていたけど、いまみたいに車でちょっと逃げていくわけにはいかん。私は6人兄弟の長女。

 ここは火王様、大森山、八坂神社と三社あって、そこへ関のおかみとし関様を祀りこんでいる。お祭りのたんびに関様をお祀りしてくれるもんで、三合ばかお祀りしてくださいとお米を持っていく。三合ではなく三丈ずつやったけど。すると、関様祀った分のお下がりくれるわけ。
 
 今月はお節句。18はブサ祭りといって熊谷家の祭りがある。流鏑馬の祭りは、狭いところ(ウワタニ)でやる。

 関家を下の館、熊谷の下へ出たということで下出と言ってはいる。殿様の弟だからと関を名乗らせてくれた。
 ブサ祭りは武士の行事。武士の行事と同時に食文化も一杯付いている。食文化はお祭りと同時に伝承せねばならんのだけど、いままでは取り上げてもらえなんだ。祭りは男性社会、食文化は女性の社会。若い衆にやってもらいたい。

 お祭りごとにその時季に取れたものを神様にお供えするで。また、その時季にとれたものを食べるのが人間の体に良いわけ。冬は根菜で体を温めたり。
 この時期はヨモギ。お雛様にヨモギもちをつくったり。
 お寿司の具は7種類入れる。しいたけ、ちくわ、海のものはコブ。くるみは水に入れて1時間つけておいて、鉄鍋でいるとパッと口があくの。火にかけて、パラパラと混ぜる。 アサリの乾燥したのも入れるけど、具は家によって異なる。

 新野も4月3日がお雛様。新野ではお雛様しょい出して、壊したりして怒られたことがあるけれども、母が作ってくれた酢飯をもって、野に出て、友達たちとお雛様連れ出して外でお寿司を食べたり、サンガツバって言ってたかな。新野の4月3日は寒かった。
 雛飾りは、ここでは、土雛だけ。女の子のお節句はあんまりやらない。男の子のお節句は盛大でね。息子は盛大にやった。
 人形つくって川に流すのは祇園祭りにやるね。7月14日だね。掛踊りは8月14日。

 ヨモギは冬中にたまった邪気を払う。ヨモギ餅は菱形に着る。ヨモギは今年は珍しく大きくなっている。あく抜きして、いまはソーダとかミョウバン。昔はこんにゃくと一緒で藁を焼いてあくをとった。
 野のものはあくが強くても天ぷらにすると食べられる。昔の人の知恵はすごい。
 
 タンパク質は川魚、猪、昔はウサギを飼った。食べるために。鳥は卵。農耕は馬で私が来たときは牛になっていた。山羊の乳を搾った。ウサギ、鳥は肉にした。

 雛祭りが終わると熊谷家のブサ祭り。ムカイバトの紋になっている。ハトが殿様を助けたということで。ハトだから豆とか豆腐とか、コマメもゆでてお供えした。皆さんにおあがりいただくけど、出れる人だけ14人。
 
 お客様が一杯だったから、お祭りも見たことがなかった。娘のうらやすの舞も見たことがない。息子の花の舞だけ見た。

 料理はお姑さんに教わる。団子はお母さまとお米を冷かして石臼でひいて、御粉をはたくっていうんだけど。お豆腐をつくるのも豆を石臼でひいて。時間がかかる。

 はなの舞は盛り上がるから見て欲しい。私たちも着物を着てね、昔はみんな着物着て、小さいお祭りも着物を着た。
 舞う所は神聖なところなので、年間行事はほとんど男性食べる料理も男の人がやった。舞でお嫁さんの支度をするときだけ、女の人が上がることができる。

 料理は大きな窯でたいて、一斗も二斗も。火を見る人がいないからいまはガス。

 83歳で一番の長老になった。お祭りと柚餅子のおかげ。柚餅子は昨年4月にやめた。44年やってきた。もったいないけど、悲しいけど、自分の子供もかえってこないし。 この村はお嫁さんがなかった、14人の人口のうち、女が3人、9人が独身。山の生活ができなくなっている。木を切って植えていくという生活ができなくなっている。うちの息子も帰ってきたが仕事がなく、そのうち、また、会社から呼ばれてしまった。結婚問題が大きい。

 陸の孤島でうちは主人のおかげで柚餅子ができた。主人がお祭りを一生懸命するから、うちは柚餅子をやろうと。
 柚餅子は村の衣食住の展示会の中にあって、初めて知った。真っ黒い、変な塊だなあと思って。薄く切って食べさせてくれたら、すっごい上品な香りで、品の良い、奥の深い味で、感動して、その年がゆずがたくさんなった年もあり、家に帰ってお母さまに言ったら、昔は一杯作ったけど、いろりがあって。でもいまはあんなものつくる人はおらん。
 ほいでも、武士の携帯食だったってことで。関伝記にも熊谷伝記にもそのことは書かれていない。ほいだけど、私の感動がね。ほっといてはもったいないと、そんなことで始めて。
 チーズとキュウリとサンドしながらおあがり頂いた。真っ黒いもの。

 柚子も天龍村でとれる。気候が柚子に適している。
 2~3カ月かけて乾かす。もんで乾かす。手を入れないと包丁が入らない。中の味噌と外の皮が一体になるようにもみながら。
 お母さまたちのころは、パラフィン紙に包み、カメに入れて土の中に入れて保存した。
 作る季節は柚子の取れる時季一回きり。1年に1回しかつくれない。
 カビはお味噌の麹なので、焼酎でふいておあがり頂けるけど。
 
 武士の携帯食だから、甘味はなかった。ここは特に陽気の良いところだから、お味噌はしょっぱい。塩分が15~20%。ここは山の上ではないです。標高は400メートル。新野が800.天龍川から登り400メートル。

 食事の支度や洗濯は息抜き。畑仕事が嫁の仕事。回覧板さえ回しにいけなかった。


次の日は、鹿追神事を見た。

このブログの人気の投稿

木地屋のはなし

 折口信夫『被差別の民俗学』(河出書房新社)の「木地屋のはなし」には、春日村の米神が登場する。米神とは春日村の小宮神のことである。十数年前に、小宮神の木地屋さんから系図を鑑定してくれと頼まれていた折口が、十数年後にやっと小宮神を訪れるという話だ。「都合がついたら 惟喬親王の御陵を見に来てくれ」と頼まれている。 「切り立った崖の狭間に出来ている村落で、そこに猟師村のように家がごちゃごちゃ並んでおり、その中に本家というのが三軒程あるので、惟喬親王の御陵といっているのは、実は、その本家の先祖らしいのです。とにかく、私どもの知識では、何の根拠もないということがはっきり呑みこめましたので、これは「小野宮御陵伝説地」というくらいならよいかもしれないが、それ以上のことをいうのはよくないだろうと申しておきました。尚、ここの木地屋は、この第二図、即ち、金龍寺から出している方を掛けているので、採色をした極新しいものでした。」  折口は小宮神の木地屋から、系図の鑑定を頼まれ、系図を返すついでに、小宮神を訪れたのである。親王の御陵は本家の先祖らしい、 惟喬親王 伝説の地くらいならよいかもしれないと言っておいた、とある。   木地師は木から器をつくる職業だ。山の木を伐ってつくるため、山から山を渡って歩く定住しない生活が漂白民のようにも考えられ、ノスタルジックに語られることも多い。しかし、折口が「詩的に考えると、大昔から山に居った一種の漂泊民が、まだ、生活を改めないでいたように考えられるのであるが、そこまで考えるのはどうかと思います。とにかく、昔は、幾度も氏子狩り(氏子をつきとめて戸籍に登録)ということを致しております。ちょうど、山に棲む動物を探すように、氏子をつきとめて、戸籍に登録するので、こんな点から考えると、昔の民生もそうだらしのないものではなかったことがわかります。」と述べているように、民生は幾度も氏子狩りをし、山に棲む動物をさがすように戸籍を登録。木地師も氏子であることを利用して、関所を超えた。全国の木地師は二つの神社の氏子となっており、折口の言葉を借りれば、民生が行き届いた証拠であるが、祭神の一つが、小宮神の 惟喬親王である。器をつくるのに必要な轆轤を発明されたということで神となった(もう一つの祭神は筒井八幡である)。 惟喬親王は 清和天皇の兄弟。父は...

木地師のふるさと 君が畑へ

 春日の小宮神で木地師の掛け軸を見せていただいたのが春の始まりだった。木地師とは、山から山へと木地を求めて移動する人々。しかし、木地師が移動した山にはすでに人の村がある。  「やたら木を伐ってしまうで、恨まれて、恨まれて」    藤原さんは、木地師の祖先が定着する過程であった苦労のことをお聞きした。その一つがお寺の話で、明治まで自分の寺を持つことができなかった人たちは、明治になって、自分の寺を手に入れる。明治の話だから、そう遠いことではない。  祖先は、木地師は惟喬親王に親王にお仕えした藤原定勝ということだ。御存じだとは思うが、惟喬親王は伝説の人物。実際には、 文徳天皇の第一皇子である。 皇太子に弟(清和天皇)が立ったところで、身の危険を感じ京都から逃れ、滋賀県で亡くなっている。伝説では山中にたどりき、轆轤を生み出したことになっているが、それ以前にも、当然に轆轤の技術はあった。  流浪の皇子ということで伝説の題材になったのだろう。 親王との関係を記す掛け軸が藤原家にあるが、集落には石碑もたっている。これは折口信夫が、先祖の墓と言ったぐらいがいいだろうとアドバイスを送っている。  伝説では先祖は、始めは古屋に入る。しかし、そこは雪が深い。小宮神に土地があったので、そこに住み着いたことになっている。 お寺の話は、また後に書くことにしよう。  今回は、木地師の発生の地である君ケ畑に行った。君ケ畑は滋賀県にある。ちなみに春日は岐阜県にあっても滋賀県境の村である。  君ケ畑に向かうのに一冊の本を携えた。君ケ畑について書いてある白洲正子の『近江山河抄』である。君ケ畑は「鈴鹿の流れ星」に出て来る。君ケ畑は白洲の『隠れ里』でも紹介しているが、鈴鹿山脈で十一面観音を追いながら、その帰りに北上し小椋谷の君ケ畑に寄ったのものである。その時の紀行文が自分は好きなのである。 白洲は、木地師の祖 惟喬親王について このように書いている。 「鈴鹿山脈の西側は亀山市で日本武尊の遺跡が至るところに見出されるが、それと呼応するように、近江の側に惟喬伝説が現れるのは、両者の間に何か関係がありそうな気がする」  日本武尊も親王も確かに敗者の話である。貴種が流れる話である。しかし、私の世代では日本武尊や有名なところでは源義経は知っても 惟喬親王は知らない。  全国の...

春日村美束 六社神社 昭和23年 水田をつくるために岩をあけようとした話 

まんじろうさんが岩に穴をあけようとした話 話者 山口さん夫妻  岩に穴をあけて、自分の畑に水を通そうとした人がいた。岩はみたらし渕と言う六社神社のところにある。昭和23年ごろの話。 水田が無かったまんじろうさんは岩に穴をあけることで、畑に水を通したかったのだ。 水田にして米をつくるのだという、まんじろうさんが岩に穴を開けている姿を見たのが子供のころの山口さん夫妻である。  「カンテラを照らしてな、水盛をしていた。」 手伝っている人が一人いたことはある。水路は完成しなかった。 それほど、米がなかった。食べ物がないときは、リョウブの葉を茹でて乾かしたものを食べた。りょうぶ飯である。りょうぶ飯は黒かった。 貧しい食べ物ことについては、駒月作弘さんが記録している「美束の民謡」でも歌われる。   「美束の民謡には生涯無い(しょうがいな)という民謡がある。胡麻柄、えがらが最も古くから唄われ先人達が焼畑を作り、稗・粟・胡麻・えを採り主食としていた頃の哀歌である。 其の一節  しょうがいないしょうがいないと言うたことないが  今年しゃしょうがいないのあたり年しょうがいな(世の中が豊作をよろこんだ歌) 其の二節  胡麻柄えがら三ばからげて四わ炊いた、  三ばからげて四わ炊いた  (年暮れ近く寒くなってからの焼き畑仕事の哀歌と思われる) その後、よそやま(村外の山)へ出稼ぎに行くようになり(大方は炭焼き)、根尾・方面からほっそれ民謡が入り、そして嗚呼盆はなあヨイショ盆は嬉しや別れた人も 晴れてこの世に会いに来る。この歌は、発心寺・善照師匠が京都東本願寺へご奉公お勤めに行かれた時お習いになり、お盆にみんなで盛んに踊ったようである。 それから、年月たち昭和初期教如上人洞窟の発掘教如堂の建立等当時尊重の駒月巌が主体となり美束の有識者が名を連ね広く教如上人を宣伝し小冊子を発刊、全村に配布されたので70年程度を経過して居れど、どこかにお持ちの方があるはずです。 もともと美束は国見峠を越して、江州との交流が盛んであり、その頃すべての文化等も京都・長浜・長岡・そして美束へと経路が考えられるなか、その教如上人を讃える歌や滋賀県小津原にあり美束寺本の民謡や踊りの好きな人達が教如上人の宣伝に加勢したというか、煽られたというか(駒月巌の出版の記...