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 ポチと熊を追う その1

 昔は狩猟期間は、半年あった。10月15日から4月15日までが狩猟期間。その中で、時期によってとるものがある程度違う。


 春、4月は熊じゃ。熊も30いくつとった。養老のたかぎさん言う人が福井県まで買い集めておったが、その人でも、見たことのない熊やな。 貫文目でいくと37貫500あったんじゃ。 

 熊は、 胆のうが高いんやで。当時は皮も高かった。皮も真ん中に将棋盤をおけるだけの皮やったらものすごう高かった。肉は金せん。油こうて。

 美束の山を越えて一番大きいやつは撃った。国見峠より、北の方。国見峠は岐阜県と滋賀県の境やでね。あれを越したら、県のずっと奥まで、甲津原まで県公造林。そこで、五つばか撃った。熊だと、四人グループ。


  犬が良かった


 熊は犬が悪かったら全然だめだ。わしのもっとった犬は秋田犬をかけた大きな犬じゃ。美束の古い猟師が師匠で一緒に歩いたが、こんな犬は何百も一匹もおらん犬やと。しまいに猪の小さいのくわえとって、名古屋の遊びに来た猟産師が猪を加えてるときに撃つなというのに、撃ってまった。犬の足を。猟師やめようかと思ったわ。45ぐらいの時。

命の次に大事な子やった。いのししなんか、三百メートル向こうでも知っとったでね。


 犬がにおいがするとね


 犬がね、匂いがすると、ふぉっと走るわ。匂いのするほうへ。冬は山の上から風が吹き下ろすんじゃ。匂いがばあと下の方へ来ると犬はふっと頭上げて、匂い嗅いでるわ。「なんか、おるなあ、匂いがきたなあ」と鼻振っとる。そのうちに、方向決めてだあっと行きだすわ。風で匂いが消える時があると、だああっと歩くわ。風の向きで匂いが来るところがあるんだね。すると、走り出す。また 匂いが切れると飛びあがって、ふっと、匂いが来んかと。

 匂いが濃いでね。熊だけは姿見えでも鳴く。猪や鹿は姿見えな、鳴かん。熊だけは匂いがきつうなると泣き出す。鳴き方が違うの。鹿はきゃんきゃんきゃんきゃんと言う。猪はそばにいくとわんわん。熊は初めからわんわんと細かいわずに、わん、わんと切って鳴くわ。

聞き書き 藤原 正身さん 大正7年7月7日生まれ 2020・9・20

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