スキップしてメイン コンテンツに移動

 鉱山について 話者 清尾さん 2023 7 6


北伊吹鉱山に。

線をひいて、おろすところをつくって、中郷にお墓が立っているけど、そこに水車をつくって、長石を粉にする機械があった。臼がまわって、石がごんごろごんごろまわって、ちゃわんにぬる材料。ようけいでないもんでやめてまって。


東谷をのぼって、熊坂から、大平というところがある。起点は大平という、くさわら、いまは木が生えていると思うが、そこに事務所をつくって、そこから山へ弁当持って、通ったりしたんじゃ。

八畳岩、戸棚岩、八滝。全部調査しとるで、あそこらにも脈あって、掘ったりなんかした。あの谷と竹屋谷。

大岩谷に三十トンぐらいの岩があってね、それに、こんな荷をおろす線を生木やらに巻いて、そいつを基礎に下へ引いておりたった。

線は下へ落ちてはおったけれど、まんだいまでもあると思う。川に大きな大きな岩があるじゃ。そいつに、二重か三重に巻いて、とめる。

その当時は竹屋谷の入り口が終点だった。そこまでは、炭を焼いてもセタで持ってきた。そこからは車で出たけどね、その当時は炭屋さんしか車がない時。そこまではオンで、大八でする時代じゃったで。

大岩谷の山の名前は射能山。

その山のふもとまではいかんが、降りてきて、ちょろちょろ流れるところだった。

長石とかあるのは、石がまじって、厚みがあるが、その下は壁だった。掘り下げると壁があるというのが想定じゃったが、なかった。そんで、脈がどういうようにとっているという調査をするとい行っただけじゃでね。初めの7カ月行っただけじゃ。

鉱脈というのは走るじゃ、山へ下りようが登ろうが、まっすぐ行くじゃ。ほんで、掘ってみてあると、ここもあった、ここも出ると。

山超え、谷超えて、脈を探して歩いた。

深いところは、3メーター、4メータって穴掘って。泥上げてみてね。

筋だけはあるんじゃどこでも。本当に、雲つかむような話じゃけど。

鉱山師もおったけど、雲母はかなり含んどるって。

ウランは量産できる量ではないが、入っておると。ウラン花崗岩のなかに入っとるじゃ。

350円もらっただけじゃが、盆から秋までの予算が70何万だったと。千円札をリュックに入れて負わされた記憶がある。ピカピカの銭を。見るだけでも目の保養になった。

田植えを住んでから11月まで雪が降るで、しまって。そのあくる年から線、張った。

美束の人が行ったがみんな亡くなっておらん。中郷に線はる親方おったが、10年前に亡くなって。あそこに仕事にいったのは、いまは、俺だけじゃと思う。

川であらえたところで脈を見つけると、両サイドの山を掘って、掘って、掘っていって頂上まで。頂上が土層が深いの。下手すると3メーターぐらい穴ほることがある。

水晶を見つけたのは、昭和30年代、30いくつであったが、破産手続きをせなならんでって、県事務所の人とか役場の人とかよったりばかり連れていったときだが、30、俺結婚したのが28だったし、それより、2、3年あと。固いことはわからん。





このブログの人気の投稿

木地屋のはなし

 折口信夫『被差別の民俗学』(河出書房新社)の「木地屋のはなし」には、春日村の米神が登場する。米神とは春日村の小宮神のことである。十数年前に、小宮神の木地屋さんから系図を鑑定してくれと頼まれていた折口が、十数年後にやっと小宮神を訪れるという話だ。「都合がついたら 惟喬親王の御陵を見に来てくれ」と頼まれている。 「切り立った崖の狭間に出来ている村落で、そこに猟師村のように家がごちゃごちゃ並んでおり、その中に本家というのが三軒程あるので、惟喬親王の御陵といっているのは、実は、その本家の先祖らしいのです。とにかく、私どもの知識では、何の根拠もないということがはっきり呑みこめましたので、これは「小野宮御陵伝説地」というくらいならよいかもしれないが、それ以上のことをいうのはよくないだろうと申しておきました。尚、ここの木地屋は、この第二図、即ち、金龍寺から出している方を掛けているので、採色をした極新しいものでした。」  折口は小宮神の木地屋から、系図の鑑定を頼まれ、系図を返すついでに、小宮神を訪れたのである。親王の御陵は本家の先祖らしい、 惟喬親王 伝説の地くらいならよいかもしれないと言っておいた、とある。   木地師は木から器をつくる職業だ。山の木を伐ってつくるため、山から山を渡って歩く定住しない生活が漂白民のようにも考えられ、ノスタルジックに語られることも多い。しかし、折口が「詩的に考えると、大昔から山に居った一種の漂泊民が、まだ、生活を改めないでいたように考えられるのであるが、そこまで考えるのはどうかと思います。とにかく、昔は、幾度も氏子狩り(氏子をつきとめて戸籍に登録)ということを致しております。ちょうど、山に棲む動物を探すように、氏子をつきとめて、戸籍に登録するので、こんな点から考えると、昔の民生もそうだらしのないものではなかったことがわかります。」と述べているように、民生は幾度も氏子狩りをし、山に棲む動物をさがすように戸籍を登録。木地師も氏子であることを利用して、関所を超えた。全国の木地師は二つの神社の氏子となっており、折口の言葉を借りれば、民生が行き届いた証拠であるが、祭神の一つが、小宮神の 惟喬親王である。器をつくるのに必要な轆轤を発明されたということで神となった(もう一つの祭神は筒井八幡である)。 惟喬親王は 清和天皇の兄弟。父は...

木地師のふるさと 君が畑へ

 春日の小宮神で木地師の掛け軸を見せていただいたのが春の始まりだった。木地師とは、山から山へと木地を求めて移動する人々。しかし、木地師が移動した山にはすでに人の村がある。  「やたら木を伐ってしまうで、恨まれて、恨まれて」    藤原さんは、木地師の祖先が定着する過程であった苦労のことをお聞きした。その一つがお寺の話で、明治まで自分の寺を持つことができなかった人たちは、明治になって、自分の寺を手に入れる。明治の話だから、そう遠いことではない。  祖先は、木地師は惟喬親王に親王にお仕えした藤原定勝ということだ。御存じだとは思うが、惟喬親王は伝説の人物。実際には、 文徳天皇の第一皇子である。 皇太子に弟(清和天皇)が立ったところで、身の危険を感じ京都から逃れ、滋賀県で亡くなっている。伝説では山中にたどりき、轆轤を生み出したことになっているが、それ以前にも、当然に轆轤の技術はあった。  流浪の皇子ということで伝説の題材になったのだろう。 親王との関係を記す掛け軸が藤原家にあるが、集落には石碑もたっている。これは折口信夫が、先祖の墓と言ったぐらいがいいだろうとアドバイスを送っている。  伝説では先祖は、始めは古屋に入る。しかし、そこは雪が深い。小宮神に土地があったので、そこに住み着いたことになっている。 お寺の話は、また後に書くことにしよう。  今回は、木地師の発生の地である君ケ畑に行った。君ケ畑は滋賀県にある。ちなみに春日は岐阜県にあっても滋賀県境の村である。  君ケ畑に向かうのに一冊の本を携えた。君ケ畑について書いてある白洲正子の『近江山河抄』である。君ケ畑は「鈴鹿の流れ星」に出て来る。君ケ畑は白洲の『隠れ里』でも紹介しているが、鈴鹿山脈で十一面観音を追いながら、その帰りに北上し小椋谷の君ケ畑に寄ったのものである。その時の紀行文が自分は好きなのである。 白洲は、木地師の祖 惟喬親王について このように書いている。 「鈴鹿山脈の西側は亀山市で日本武尊の遺跡が至るところに見出されるが、それと呼応するように、近江の側に惟喬伝説が現れるのは、両者の間に何か関係がありそうな気がする」  日本武尊も親王も確かに敗者の話である。貴種が流れる話である。しかし、私の世代では日本武尊や有名なところでは源義経は知っても 惟喬親王は知らない。  全国の...

春日村美束 六社神社 昭和23年 水田をつくるために岩をあけようとした話 

まんじろうさんが岩に穴をあけようとした話 話者 山口さん夫妻  岩に穴をあけて、自分の畑に水を通そうとした人がいた。岩はみたらし渕と言う六社神社のところにある。昭和23年ごろの話。 水田が無かったまんじろうさんは岩に穴をあけることで、畑に水を通したかったのだ。 水田にして米をつくるのだという、まんじろうさんが岩に穴を開けている姿を見たのが子供のころの山口さん夫妻である。  「カンテラを照らしてな、水盛をしていた。」 手伝っている人が一人いたことはある。水路は完成しなかった。 それほど、米がなかった。食べ物がないときは、リョウブの葉を茹でて乾かしたものを食べた。りょうぶ飯である。りょうぶ飯は黒かった。 貧しい食べ物ことについては、駒月作弘さんが記録している「美束の民謡」でも歌われる。   「美束の民謡には生涯無い(しょうがいな)という民謡がある。胡麻柄、えがらが最も古くから唄われ先人達が焼畑を作り、稗・粟・胡麻・えを採り主食としていた頃の哀歌である。 其の一節  しょうがいないしょうがいないと言うたことないが  今年しゃしょうがいないのあたり年しょうがいな(世の中が豊作をよろこんだ歌) 其の二節  胡麻柄えがら三ばからげて四わ炊いた、  三ばからげて四わ炊いた  (年暮れ近く寒くなってからの焼き畑仕事の哀歌と思われる) その後、よそやま(村外の山)へ出稼ぎに行くようになり(大方は炭焼き)、根尾・方面からほっそれ民謡が入り、そして嗚呼盆はなあヨイショ盆は嬉しや別れた人も 晴れてこの世に会いに来る。この歌は、発心寺・善照師匠が京都東本願寺へご奉公お勤めに行かれた時お習いになり、お盆にみんなで盛んに踊ったようである。 それから、年月たち昭和初期教如上人洞窟の発掘教如堂の建立等当時尊重の駒月巌が主体となり美束の有識者が名を連ね広く教如上人を宣伝し小冊子を発刊、全村に配布されたので70年程度を経過して居れど、どこかにお持ちの方があるはずです。 もともと美束は国見峠を越して、江州との交流が盛んであり、その頃すべての文化等も京都・長浜・長岡・そして美束へと経路が考えられるなか、その教如上人を讃える歌や滋賀県小津原にあり美束寺本の民謡や踊りの好きな人達が教如上人の宣伝に加勢したというか、煽られたというか(駒月巌の出版の記...