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大平八滝 美束 津島神社


長者平近くに津島神社がある。ここを過ぎると日坂への峠となる。
集落から1里、歩いて40分ほどの人里離れたところに、なぜ、このような立派な神社があるか不思議に思った。

 ある日、長者平への道を歩いているとスーパーカブにおかもちをくくりつけて、神社にやってきた人にあった。神社に花をあげたり、水をかえたりして帰るところだった。
夕方だった。集落の禰宜さんなのだろうが、山仕事も終わり、夕飯を前に、「ちょっと、行ってくるで」と言って、神社までスーパーカブでやってきたのだと思った。

 禰宜のことはまた、書かねばならないが、この集落の禰宜の仕事はかなりきつい。四つ足を食べない、水垢離は以前ほどではないが、水は定期的にかぶる。そして、神社をきれいにし、村の悩み事を聴く。


 津島神社は地元の人からは、おてんのう(天王)さんと呼ばれている。津島神社の名前は明治からで、その前は牛頭天皇宮。ササを備えて牛に食べさせると治癒すると信じられ、他の村からも参拝があるそうだ。

 春日村史には、次のように述べている。
 「牛の安全を祈って、ススキやカヤなどを結び神先とともに備え、それを頂いてマヤの所へさしておくわけである。新しく牛を購入した場合などにもそれを連れてまいるが、その綱だけでもいいとされている。」

 「春日村史」によれば、この辺りは縄文時代から開けた場所であり、多くの伝説が残されているとし、次のように記す。

「大字美束字長者平津島神社古は牛頭天皇と申奉り、往昔美濃の国主が長国寺ナル大伽藍ヲ建立セシ時、仏堂守護の鎮守社として祀りシモノナリト口碑に伝来リタルモ、旧記ナケレバ時代及ビ国主の氏名も知ルに由ナシ、宮ノ宝物タル石ノカラジシ、石ノ盆ハ古キ珍品也・・・云々」

近世になってからはら、牛の神様なのだが、村史によれば長国寺の鎮守社であった。「長国寺は大伽藍を持っていた。その鎮守社なのである。」との記述を持つ春日村史の記述は所杉弥「西濃春日村古今明細記全」によっている。
現在、我々が見るのは、長国寺は五輪塔を残すのみということ、津島神社が確かに長国寺に隣接していることである。

 長国寺については、「古代春日村の修験と鉄」(⑥伊吹山の山岳信仰(吉田幸平)森の国通信1996・8・12)が、長者平長国寺も、産鉄集団への呪術集団としての修験がその産鉄量を減じて、他に転移していったと書いている。さらに、「古代春日村の修験と鉄」(⑩鉱夫(かねほり)集落の人員と長者平の秦氏)(吉田幸平)では、長者平には鉱山集落として、700~900の人がいたときがあり、「帝釈天は秦氏の祀ったものということである」と書いている。秦氏がこの地にいたことが前提になっている。断言するのはどうなのだろうか。わからないことは何でも書けるのである。
 
 






土さて、地の人は、この長者平一帯については、次のように語ってくれた。

「壬申の乱の敗者大友の皇子が負けた時、大友の皇子の彼女が24将に守られて春日の人が連れてきた。大友皇子の子供を産み、小倉皇子と名付けた。その人を長者と言う。

 源平の戦いが始まる前に熊坂長範(大泥棒)が長者に棲んだ。家来を連れては泥棒を働いた。京都から春日に逃げ込んで来るので、全国的に知られるようになった。」

 津島神社について、いつもお世話になっている山口夫妻が、小学校の時、神社近くで大きな穴で遊んだ話をしてくれた。

 続く。
 
 











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