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12月, 2017の投稿を表示しています
 駒月さん 「うちら、子どものころにね、お宮で遊んでるとね、こんな幅の脚絆をね、ぐるぐるに巻いてね。ダーン、ダーンとと杖ついてね。何人としらんが、来るんやで。そいで母親に、  「あのおばあさん、これからどこに行くの」と言うとね。「教如さんに参りに行くんや」と言うたわ。  教如さんの岩屋※1があってね、お堂もあったんやね。堰堤の山道の上、そこの横に平があってね、教如堂があった。岩屋の下にあってね。それを、壊してね。お堂壊して持ったんやで。そいで、農業協同組合建てた。組合が美束だけあった。いまのお地蔵さんの横にね。美束農業協同組合※」との話を聞いた。  教如上人史話 「駒月巌 郷土史話より」で、教如堂のことが詳しく載っていた。  「教如上人の春日村に於ける話は僅かに四百年前の史話であるので比較的事実が伝えられていて、教如上人自画像に依る八箇寺の五日講だけは毎月行われて来ている。しかし教如上人の旧蹟である國見岳の鉈ケ窟は村人さえも見に行く人もなく、荒れ果てて何処にあるやら知る人も少ない状態になっていた。昭和十年(1935年)春の頃、時の村長駒月巌は村會議員古田粂之丞(くめのじょう)を案内として、國見岳中腹にある鉈ケ窟の内大鉈ケ岩屋と小鉈ケ岩屋を実地調査した。   上にある大鉈ケ岩屋の中には史実に伝わるお枕石やお机石又、お高座岩などがあって、これこそ眞の鉈ケ窟であると断定した。直ちに小学校の高等科児童を引率し登山して、岩屋の中の土砂を掘り出し周囲を整頓し岩屋の中には駒月巌所有の阿弥陀如来像を佛壇に入れて安置した。古田幹寄附の半鐘を吊るして漸やく鉈ケ岩屋は教如上人の旧跡らしくなった。しかし斯かる深山幽谷では参詣の人も難儀するので、念佛掘りと称して毎月尾西から鉈ケ窟までの参道の改修を行って、女子や子供なども容易に参詣出来る様にした。    揖斐駅から尾西山の鉈ケ窟までの間に約百枚の板札を作って、道端に教如上人岩屋への指導標を吊るして歩き、一方では岐阜日日新聞紙上濃飛十名勝地の投票に参加して、村民も協力して投票を行い遂に四等に当選した。直ちに時の岐阜県知事であった宮脇知事に揮毫してもらって、三河の御影石で『濃飛十名勝地教如上人窟』の十一文字の石柱を作り上げて今も残る尾西の白山神社前に建立した。   次いで駒月巌村長や発心寺住職駒月善照や山田兼太郎、古田幹等が有志団結して、揖斐

案内地図

樋渡瀬と美束散策地図を作ってみた。 樋渡瀬は淀廻から品又へ。蛇行するカーブが目印である。 むつしは焼き畑という意味である。丈畑、むつし、深山という分類があるようである。 勇次郎新田は、勇次郎氏が山の中に開墾した田んぼである。馬も飼い、立派な小屋もあったということであるが、丈畑の中に田んぼを開墾した勇次郎氏の努力やいかに。現在は植林がされているが、それでも5枚ほどの水田跡を見ることができる。 平鍋、鈴谷、火越峠という鉱山を思わせる地名がある。 猪首とは、追い込まれた猪がかならず現れる場所であるとのこと。