駒月さん
「うちら、子どものころにね、お宮で遊んでるとね、こんな幅の脚絆をね、ぐるぐるに巻いてね。ダーン、ダーンとと杖ついてね。何人としらんが、来るんやで。そいで母親に、
「あのおばあさん、これからどこに行くの」と言うとね。「教如さんに参りに行くんや」と言うたわ。
教如さんの岩屋※1があってね、お堂もあったんやね。堰堤の山道の上、そこの横に平があってね、教如堂があった。岩屋の下にあってね。それを、壊してね。お堂壊して持ったんやで。そいで、農業協同組合建てた。組合が美束だけあった。いまのお地蔵さんの横にね。美束農業協同組合※」との話を聞いた。
教如上人史話 「駒月巌 郷土史話より」で、教如堂のことが詳しく載っていた。
「教如上人の春日村に於ける話は僅かに四百年前の史話であるので比較的事実が伝えられていて、教如上人自画像に依る八箇寺の五日講だけは毎月行われて来ている。しかし教如上人の旧蹟である國見岳の鉈ケ窟は村人さえも見に行く人もなく、荒れ果てて何処にあるやら知る人も少ない状態になっていた。昭和十年(1935年)春の頃、時の村長駒月巌は村會議員古田粂之丞(くめのじょう)を案内として、國見岳中腹にある鉈ケ窟の内大鉈ケ岩屋と小鉈ケ岩屋を実地調査した。
上にある大鉈ケ岩屋の中には史実に伝わるお枕石やお机石又、お高座岩などがあって、これこそ眞の鉈ケ窟であると断定した。直ちに小学校の高等科児童を引率し登山して、岩屋の中の土砂を掘り出し周囲を整頓し岩屋の中には駒月巌所有の阿弥陀如来像を佛壇に入れて安置した。古田幹寄附の半鐘を吊るして漸やく鉈ケ岩屋は教如上人の旧跡らしくなった。しかし斯かる深山幽谷では参詣の人も難儀するので、念佛掘りと称して毎月尾西から鉈ケ窟までの参道の改修を行って、女子や子供なども容易に参詣出来る様にした。
揖斐駅から尾西山の鉈ケ窟までの間に約百枚の板札を作って、道端に教如上人岩屋への指導標を吊るして歩き、一方では岐阜日日新聞紙上濃飛十名勝地の投票に参加して、村民も協力して投票を行い遂に四等に当選した。直ちに時の岐阜県知事であった宮脇知事に揮毫してもらって、三河の御影石で『濃飛十名勝地教如上人窟』の十一文字の石柱を作り上げて今も残る尾西の白山神社前に建立した。
次いで駒月巌村長や発心寺住職駒月善照や山田兼太郎、古田幹等が有志団結して、揖斐郡、本巣郡、不破郡の三郡下を歩き回って、教如上人伝を演説し教如上人窟を宣伝して寄付金を募集した。尾西と鉈ケ窟までとの中央の地点で古田幹氏所有山林の大谷平を切り開いて、春日村民の有志全員の念佛掘りで敷地を作り、市場矢野鍬太郎請負で教如堂を建立した。
本堂は畳二十四畳敷に硝子戸、雨戸を建て、小座敷は畳六畳敷に床の間、押入れ、便所を附設して落成、続いて八箇寺の住職を招いて教如堂の落慶式の供養を行った。堂守を探し、其の庫裡のために発電所の不要住宅一棟、畳、戸、障子や唐紙など総べて寄付を受けて、寺本兼太郎方まで運搬して保存してあった。しかし堂守の適当な人もなく此の一棟を建設する力もなく其の儘となる間に影も形もなくなって、僅かに屋根のトタン板だけ残って学校に用立てたのみであったのは残念であった。
教如堂の出来たころには、教如上人御旧蹟の名が高くなって、愛知縣や大垣市、不破郡などから団体参拝者もあった程であった。駒月巌は、教如上人御旧蹟御由緒記と云う四十頁に亘る写眞入り冊子を参千冊作って、参拝者に無料贈呈し、名産として教如酒を売り出した程であった。しかし年月を経ると共に参拝者も少なくなり、堂守がいないために教如堂も雪や雨に叩かれて破損し、教如上人窟の鉈ケ岩屋への参道も荒れ果てて、維持の方法もつかぬ有様となった。今では教如堂の本堂や小座敷も寺本六社神社境内へ移築して、農業共同組合の事務所と宿直室となっているのである。(県道寺本尾西間の拡幅工事で、農協の建物も合わせて取り壊されている)
駒月巌氏は、縣会議員や村長など多数の公職を持って非常な多忙の身をも顧みず、教如上人御旧蹟保存会長、教如上人五日講後援会長を熱心に継続して、千疋山に教如スキー場まで作って宣伝に努めたのであったが、年月と共に漸次衰退して今日に至った次第である。
「あのおばあさん、これからどこに行くの」と言うとね。「教如さんに参りに行くんや」と言うたわ。
教如さんの岩屋※1があってね、お堂もあったんやね。堰堤の山道の上、そこの横に平があってね、教如堂があった。岩屋の下にあってね。それを、壊してね。お堂壊して持ったんやで。そいで、農業協同組合建てた。組合が美束だけあった。いまのお地蔵さんの横にね。美束農業協同組合※」との話を聞いた。
教如上人史話 「駒月巌 郷土史話より」で、教如堂のことが詳しく載っていた。
「教如上人の春日村に於ける話は僅かに四百年前の史話であるので比較的事実が伝えられていて、教如上人自画像に依る八箇寺の五日講だけは毎月行われて来ている。しかし教如上人の旧蹟である國見岳の鉈ケ窟は村人さえも見に行く人もなく、荒れ果てて何処にあるやら知る人も少ない状態になっていた。昭和十年(1935年)春の頃、時の村長駒月巌は村會議員古田粂之丞(くめのじょう)を案内として、國見岳中腹にある鉈ケ窟の内大鉈ケ岩屋と小鉈ケ岩屋を実地調査した。
上にある大鉈ケ岩屋の中には史実に伝わるお枕石やお机石又、お高座岩などがあって、これこそ眞の鉈ケ窟であると断定した。直ちに小学校の高等科児童を引率し登山して、岩屋の中の土砂を掘り出し周囲を整頓し岩屋の中には駒月巌所有の阿弥陀如来像を佛壇に入れて安置した。古田幹寄附の半鐘を吊るして漸やく鉈ケ岩屋は教如上人の旧跡らしくなった。しかし斯かる深山幽谷では参詣の人も難儀するので、念佛掘りと称して毎月尾西から鉈ケ窟までの参道の改修を行って、女子や子供なども容易に参詣出来る様にした。
揖斐駅から尾西山の鉈ケ窟までの間に約百枚の板札を作って、道端に教如上人岩屋への指導標を吊るして歩き、一方では岐阜日日新聞紙上濃飛十名勝地の投票に参加して、村民も協力して投票を行い遂に四等に当選した。直ちに時の岐阜県知事であった宮脇知事に揮毫してもらって、三河の御影石で『濃飛十名勝地教如上人窟』の十一文字の石柱を作り上げて今も残る尾西の白山神社前に建立した。
次いで駒月巌村長や発心寺住職駒月善照や山田兼太郎、古田幹等が有志団結して、揖斐郡、本巣郡、不破郡の三郡下を歩き回って、教如上人伝を演説し教如上人窟を宣伝して寄付金を募集した。尾西と鉈ケ窟までとの中央の地点で古田幹氏所有山林の大谷平を切り開いて、春日村民の有志全員の念佛掘りで敷地を作り、市場矢野鍬太郎請負で教如堂を建立した。
本堂は畳二十四畳敷に硝子戸、雨戸を建て、小座敷は畳六畳敷に床の間、押入れ、便所を附設して落成、続いて八箇寺の住職を招いて教如堂の落慶式の供養を行った。堂守を探し、其の庫裡のために発電所の不要住宅一棟、畳、戸、障子や唐紙など総べて寄付を受けて、寺本兼太郎方まで運搬して保存してあった。しかし堂守の適当な人もなく此の一棟を建設する力もなく其の儘となる間に影も形もなくなって、僅かに屋根のトタン板だけ残って学校に用立てたのみであったのは残念であった。
教如堂の出来たころには、教如上人御旧蹟の名が高くなって、愛知縣や大垣市、不破郡などから団体参拝者もあった程であった。駒月巌は、教如上人御旧蹟御由緒記と云う四十頁に亘る写眞入り冊子を参千冊作って、参拝者に無料贈呈し、名産として教如酒を売り出した程であった。しかし年月を経ると共に参拝者も少なくなり、堂守がいないために教如堂も雪や雨に叩かれて破損し、教如上人窟の鉈ケ岩屋への参道も荒れ果てて、維持の方法もつかぬ有様となった。今では教如堂の本堂や小座敷も寺本六社神社境内へ移築して、農業共同組合の事務所と宿直室となっているのである。(県道寺本尾西間の拡幅工事で、農協の建物も合わせて取り壊されている)
駒月巌氏は、縣会議員や村長など多数の公職を持って非常な多忙の身をも顧みず、教如上人御旧蹟保存会長、教如上人五日講後援会長を熱心に継続して、千疋山に教如スキー場まで作って宣伝に努めたのであったが、年月と共に漸次衰退して今日に至った次第である。
教如堂近くの岩屋 鉈が岩屋ではありません。 |