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8月, 2021の投稿を表示しています
美束 戦争の時    飛行機が落ちたころは、村中出よ、ということで、出たんだけど、大垣の空襲があるころで、どうせよ、という連絡が入らでね。乗ってた人は寝とったけど、倒れたまま。いろうことができなかった。  尾西の上の方、山の尾根をすっとかすって落ちた。発動機は下の谷まで。飛行機の部品はどうしてもよいと言うことで、入れ物つくったり、ジェラルミンでなんかつくった。  あくる日に、亡くなった人は火葬して、何人も乗っとったよ。日本人。大垣の空襲のあるころ。処理は命令ができないで出来なかっ
美束 戦争の時  戦争の時に、六社神社で蛇の卵を見た。100や200じゃ無かった。神さんも一緒になって難儀したという時じゃでな。戦争の大分、後の方さ。あくる日、中から鍵があかとったと。 ちょうどうちのおじいさんがいるところじゃったで、そんなら村中にお参りせよまいかということで、村中全部にしてさたしてみんな参った。終戦なる前。神さんが六体ござが。顔かどうかにぽつんぽつんと傷があったと。直しに出した。
笹又と小宮神 敦賀で炭焼き。子供が小学校入る、2、3年前に帰ってきた。昭和30年から35年ぐらい。それから、おばあさんに子供見てもらってまた、笹又で炭焼きへ。 敦賀の炭焼きは良かった。炭焼きはここらで千俵ばかり、向こうは二千俵。山の木の値段はこちらも高くて、1俵100円、向こうは10円。 長者が住んでいた土地だとかで、山が開けていた。集福寺の駅でちょっと歩いた。奥麻生村。4月から11月いっぱい。1回で180俵。ここでは1回100俵にしかならない。半月で一杯焼けた。ここでは小さい80俵なので、利益もあった。 キンマで出した、いっぺん、35俵ずつ。炭を集めるどばに運び、そこから業者が買っていく。小宮神から7、8人いた。 笹又には40軒ぐらいあった。じゃがいも、大豆、小豆、さつまいも、なんでも畑でつくった。炭、薬草、蚕は春子と夏子。 学校は古屋に。冬になると中央の学校。冬にこっちに帰ってくると、わらうち。ぞうりをつくる。 小宮神のお寺さんは5日講がない。 ネギさんは52と80に2貝。月参り、祭り、山の講、月の最後の日と。1年に23回ばかり。 おかみむかえは村中で出た。全部で1石集まった。俵で300俵、1石2斗ぐらい。100戸ぐらいようあった。29日の晩、一晩冷やかして、お昼までについて、3時、4時にとりいにく。おかむかえとは神様が帰ってくる日。 歌舞伎は4月の祭り、村の広場で。いっちゃほい、いっちゃほいって、一晩で済まない。二晩、2時まで。子供のころには既にやっていた。 麻は井戸の付近で皮を蒸して、かねですっと押すと川がとれていく。着る物は麻。おばあさんが糸まわして、ずぼんを作ってもらってはいた。 桑の木を村の人は「もりき」といっていた。お地蔵さんに向かって大きな桑の木がある。ああいう桑の木は何をつくっても、照りが出る。茶ダンスでも桑の木って言ったら高かった。 笹又から三里で垂井。伊吹町の大久保にも出れたし。 笹又に関ケ原の南宮さん祭りに歩いて行った。綿菓子欲しさにおばあさんに連れていってもらった。木之本地蔵に参ったという話もある。 笹又に、大豆、小豆、さつまいも、春日豆、じゃがいも、さといもを取ったのをおいてあった。冬になって、それが無くなると笹又についていって負わされた。片道2時間ぐらい。 焼き畑は奥馬生でやってた。そのころ焼き畑をやった。白菜、大根、焼き畑は虫が来な
滋賀県からアサムシのおかまを 安土 36キロのおかまを  「麻蒸しのおかまはうちの親父が滋賀県から買ってきたんです。長浜から。行って買って、背負ってきた。長浜にはなべとくっていう鋳物やがあったみたい。そこまで行って買ってきた。」  と話すのは新川定琴さんだ。  長浜から姉川を通って、七曲峠。峠を越えると吉槻って部落に出る。吉槻から登っていくと国見峠に出る。国見を超えると美束に出る。  「36キロのお釜を背負ってきたんです。」  大正か昭和初期。親父とおじいさんと親子で行った。はそりも買ってきた。いかにもえらかったということをしょっちょう話したもので、わし、ヘルスメーターで計ったら、36キロ」 「この人の親父は力持ちではあったでな。奥さんをこの人の隣からもらったけど、家財道具を背負って、ここまできてくれた。市場から米60キロ背負ってうちまで来た。」 と言うのはけいおさんだ。
 栽培禁止直前に績まれた麻の糸を見つけて、麻布にした人がいる。  そんな話を聞いて、上ケ流に向かった。お茶畑で有名な集落の上方で待っていてくれた。畑があり、畑からは古い器も出ると言う。上ケ流は土岐家(室町時代)の伝説も持ち、畑近くには女郎谷がある。その谷の水を沸かすと血の色になると聞いて風光明媚な土地も、誰かの生の上にあることを実感させられる。    戦前、春日にも麻畑があった。麻を蒸すお釜があり、糸車があり、麻機があった。戦前まで、布は麻でつくられ、特に、戦争中は貴重な布として盛んに織られたが、麻は普通には見られない。  織った麻布の一部が残されているが、絡まらないように編まれていた。蛇のようだと思った。茶色い糸は一反分の長さであり、縦糸に使うものだった。  昔の物を復元することは大変なことだが、それ以上に、何かあるのは、布を織った時の記録のノートやら、100年も前の番茶から染めた暖簾のせいだった。人の残した物を大事にする人なのだ。  ノートは順調な機織のというより、糸つなぎの記録である。糸切れの原因と対処法、一日に織れた長さが集まってくる古老の言葉とともに書かれている。  「糸が切れたは結びもなるが、縁の切れたは結ばれぬ」。88歳の古老が、かけた言葉だ。そんな言葉があるくらいだから、昔から糸は切れやすかったのではないかと分析している。「だんだんと織らないかん」と古老が言う。古老も、本当は、そううまく行かないのはわかっている。    「糸が一本切れるごとに、機結びをし、かざりに通し、筬に入れ、糸を織前にマッチ針で止める。」。麻布の裏側は機結びにした糸がそのままになっている。  「縦糸が本当によく切れる。糸切れやかざりのゆるみ、つりひものゆるみ、いくつかのたてすじの原因」。  しげのさんの糸は縦糸だが、量が足りなかったので、縦糸に中国のリネンを薬草で染めて使った。  毛羽立ちがひどく、緯糸の杼が通らなくなる。隙間をあけ、杼を通す。乾燥をさけるために、植物の液を塗るといいと、アドバイスをするために工房にくる人。工房は美束の奥にあったが、訪れる人は多かった。  農作業の合間の機織だったが、機織を前にすると、おを績んだおばあちゃんの姿が浮かびあがったと、と書いている。しげのさんの糸には、太い部分がある。糸をつなげた場所で、おを績むのは冬の間の作業だった。  「麻を績むとは
 おなかの中に子どもがいた時でも、反俵っていう30キロを、田んぼにあったのをおねだした。谷山に行く途中に田があって、じいちゃん、ばあちゃんは、とまりこんで、田んぼをしていた。刈り取った俵をおねだすのは私の仕事、自転車で行って、歩いて、せたで負んで、道に出す。それを運ぶのは父さんの仕事。父さんは仕事から帰ると、私が田んぼからおねだした俵を取りに行く。 田植えや稲架かけも、生まれる寸前までやった。 茅刈っていって、茅をとる場所も谷山に行く途中にあった。川をこえて番線が伸びていて、自在鉤を茅にかけると、自動的に降りてくる。針金をたたくと来るという合図。針金のひびきでだーんと降りてきて、自在鉤と茅がどんどん降りてくる。 茅も夜にお父さんが道まで取りに行く。 春、草とった後に、草を畑にしきつめる。お茶畑に。いもくさといって、日照りが続くと、茅を入れる。 おじいさんの炭は売れていて、釜から出すのを手伝った。昭和50年生まれの子供は小さなそりをつくってもらって、それで釜から出した。上の子らは田んぼで遊んで、落ちてべたべたになって大変だった。 田んぼはいま、木を植えてある。
 デコボロ山 上ケ流 デコボロ山というのはね、デコボロって人形をつくっておいて、そこに人がいると思わせて、そこに敵を攻めさせる。実は人形で、そこへ攻めているようにみせかける。土岐の時代の話。 人形をデコボロと言うんだ。