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 栽培禁止直前に績まれた麻の糸を見つけて、麻布にした人がいる。

 そんな話を聞いて、上ケ流に向かった。お茶畑で有名な集落の上方で待っていてくれた。畑があり、畑からは古い器も出ると言う。上ケ流は土岐家(室町時代)の伝説も持ち、畑近くには女郎谷がある。その谷の水を沸かすと血の色になると聞いて風光明媚な土地も、誰かの生の上にあることを実感させられる。

 

 戦前、春日にも麻畑があった。麻を蒸すお釜があり、糸車があり、麻機があった。戦前まで、布は麻でつくられ、特に、戦争中は貴重な布として盛んに織られたが、麻は普通には見られない。

 織った麻布の一部が残されているが、絡まらないように編まれていた。蛇のようだと思った。茶色い糸は一反分の長さであり、縦糸に使うものだった。


 昔の物を復元することは大変なことだが、それ以上に、何かあるのは、布を織った時の記録のノートやら、100年も前の番茶から染めた暖簾のせいだった。人の残した物を大事にする人なのだ。

 ノートは順調な機織のというより、糸つなぎの記録である。糸切れの原因と対処法、一日に織れた長さが集まってくる古老の言葉とともに書かれている。


 「糸が切れたは結びもなるが、縁の切れたは結ばれぬ」。88歳の古老が、かけた言葉だ。そんな言葉があるくらいだから、昔から糸は切れやすかったのではないかと分析している。「だんだんと織らないかん」と古老が言う。古老も、本当は、そううまく行かないのはわかっている。

 

 「糸が一本切れるごとに、機結びをし、かざりに通し、筬に入れ、糸を織前にマッチ針で止める。」。麻布の裏側は機結びにした糸がそのままになっている。

 「縦糸が本当によく切れる。糸切れやかざりのゆるみ、つりひものゆるみ、いくつかのたてすじの原因」。

 しげのさんの糸は縦糸だが、量が足りなかったので、縦糸に中国のリネンを薬草で染めて使った。

 毛羽立ちがひどく、緯糸の杼が通らなくなる。隙間をあけ、杼を通す。乾燥をさけるために、植物の液を塗るといいと、アドバイスをするために工房にくる人。工房は美束の奥にあったが、訪れる人は多かった。

 農作業の合間の機織だったが、機織を前にすると、おを績んだおばあちゃんの姿が浮かびあがったと、と書いている。しげのさんの糸には、太い部分がある。糸をつなげた場所で、おを績むのは冬の間の作業だった。


 「麻を績むとはこの字で良いのかしら」と言われて、柳田国男の「苧績み宿の夜」の一節を思い出した。

 「苧の糸を績むということは、麻の皮を灰で蒸して乾かしてよく曝して、白くきれいな部分だけを、爪の先で細く割って、つないで撚りを与えて一筋の糸にして行くことで、蚕の吐く糸の細いものを五つ七つと合わせていくのとは、仕事が正反対になっている。」(苧績み宿の夜)

 割く麻とつなぐ蚕は反対の作業と柳田は言う。

 おをこく。おをうむと言う言葉が春日の古老から聞かれる。おとは麻の意味だ。

 麻畑の記憶も春日に残る。麻畑は中山なら貝洞や禿山にあり、美束の寺本では折本に麻畑があった。麻は3月ほどで大きくなる。子供の背丈ほどになって、かくれんぼをした。

 麻は刈って、お釜に入れて蒸す。麻蒸場は川の近くにあった。蒸した麻を川で冷やすためだ。お釜の蓋を上げるために、滑車をとりつける大きな木が必要だった。美束の中郷なら、川の中州に、中山なら宮谷に、寺本なら折本に麻蒸場があった。麻蒸場には大きな木があった。


 「麻は、禿山につくってね。麻をはいでね。おばあさんとつくった。麻を蒸すのはまあるい桶にいっぱい、麻を縦に入れて、蒸す。冬にさらして、渋皮をへらでとって、きれいなやつを雪の上に置くと白くなってまって、これを紡いで。雪の上におくことをさらすという。白くなったことを紡いでよりをかけて。麻を蒸すのは谷で水を汲んで、クドっていう、2メートルもあるまあるい桶をおかまの上にどんと載せて。」と中山で。

 「麻はタンツケつくった。麻は皮膚がまっかかになるけど涼しかった」と中山の宮内さん。

 中山の禿山には麻は残ってない。布はカラムシでもつくった。終戦直前は特に布がなく親たちの服から子どもの服をつくったほどだったので、麻は重要な繊維だった。


 美束の新川さんによれば、安土のお釜は、国見峠を背負って越えてきた。 「麻蒸しのお釜はうちの親父が滋賀県から買ってきたんです。長浜へ行って買って、背負ってきた」。 

 長浜から姉川を通って、七曲峠。峠を越えると吉槻という部落に出る。吉槻から登っていくと国見峠に出る。国見を超えると美束に出る。大正か昭和初期。新川さんの父親とおじいさんと親子で行った。はそりも買ってきた。

 「いかにもえらかったということをしょっちょう話したもので。わし、ヘルスメーターで計ったら、36キロ」。なべとくという金物屋はいまでもあるという。

 

 布を復元する原動力をわかるはずもない。夏のある日、子供たちも通ったという学校道を登ってみた。上ケ流の子供が下ケ流の小学校に通うための道を学校道と言う。薬師堂のわきを茶畑の中を登る。杉林を抜けると、上ケ流の集落が見えてくる。茶畑をつくる古い石組。白蛇様がいらっしゃるはくじょうの森がある。中には入ってはいけない。当然に。白蛇様がを飲みに来る沢田の田んぼが見えてくる。しゃくじょうの森はこんもりと林になっている。

 しげのさんの編んだ糸は蛇に似ている。




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