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11月, 2021の投稿を表示しています
 十一面観音  江戸初期、中山の十一面観音様に参れば目が治ると聞いた大垣公の妹のおさいさんが、中山に参ったところ目が治った。   しかし、中山までの道は険しすぎるといったおさいさんは、下の寺に仏様をもらいたいと、お寺をつくって、仏様をもっていってしまった。  観音様は、行きたくないとだきついて泣いた四井家のけやき。  観音様は大正時代に焼けてしまった。   観音様を一人占めにして、なんて、身勝手なお姫様なのだろうか。  「焼けたときに、下の寺から魂が入ってこの寺に入ったのを見た人がある」と四井さん。いまの観音様は、大垣公が、下に行く観音様だが、魂が入っているのだ。    観音様がどのような観音様だったのか。伊吹山という位置関係から、湖北一帯の十一面観音様だと考えることができるのではないだろうか。    観音様は長国寺から来た。長国寺は長者平にあった寺で、現在も五輪塔があり、明治期の記録では池の跡もあった言う。  長者平は、美束から日坂への峠の手前にあり、春日発祥の地という説もある。壬申の乱で破れた大友皇子の寵姫とその一族がすみついたというものである。一族の古墳という糠塚もある。  集落は離散し泥棒のアジトになった後、中世には、土岐氏が再興していたとの伝説もある。間もなく、荒れ寺になった後は、美束のお堂のなかに置かれていた。美束の太鼓踊りのなかには、観音様の歌もある。    十一面観音は中山では現在、ご住職のご尽力のもと、ライトが灯されている。急な石段をのぼったあと、一息ついて、手をあわせる。  仏はつねに在せども  うつつならぬぞ哀れなる  人の音せぬあかつきに  ほのかに目に見えた給ふ      「梁塵秘抄」  何か特別な光を放っているように思えるのは、自分の生きていない時代に、存在したからだろうか。ご住職から、自分が存在しないことから見ることの重要さも教わった。  「人はいずれ死ぬ」と教わるけど、「人はそのとき、生まれていない」である。  現在も、観音寺は、宮内さんと四井さんが交替で守をしている。誰もが、本堂の戸をあけ、参拝することができる。  お守をする宮内さんは、仏様の前にすわると、お経を読む。四井さんは、畑仕事切り上げ、時を告げる鐘をついてくれる。ご住職はおっさと呼ばれ、朝、夕のおつとめを行い、鐘をつく。  十一面観音にははっきりした縁起は残っていない。一
 観音寺と元正庵  「中山観音寺は養和元年(1181年)創建。慶安元年まで天台宗元正庵と称した」    中山観音寺のはじまりは、元正庵という天台宗の寺だった。創建は1181年と言われている。2021年10月、中山の宮内勇之区長の案内で元正庵に登った。  元正庵のあるところを貝洞という。現在は、杉林の暗い森のなかにあるが、周囲がかつてこんにゃくやお茶、桑の畑だったと思えば、集落の近くのお堂であるが、道はない。最近で出したという鹿の寝床や狸の洞穴を見ながら、木をはねながら、山を上がっていく。  位置的には、お宮さんの上方にあたる。少しの平があって、細かい石が積まれた石垣がある。何より堂があったことを思わせるのは、字が刻まれた石碑が立っていることだ。 「おしゃりになるところを腹減って穴から出てきしまったのを聞いたことがある」と宮内さん。おしゃりになるとは、即身成仏のことである。食を絶ち入寂することである。修行する僧侶がいたのだ。  石碑の隣に掘り出したかのように四角い穴がある。もしかしたら、この穴に入って、修行した僧がいたのかもしれない。  「圓寂当庵開基触峰照上座」   圓寂とは、入寂と同じで、僧侶が死ぬことだそうである。庵を開いた僧侶のお墓だろうか。  元正庵はどのような寺だったのだろう。美束も含めて、この辺りの中世は天台宗の寺だった。そして、春日は伊吹山の東に位置する。 伊吹は修験の山で、聖人の伝説がいくつか残されている。元正庵は後に、目が治ると評判の寺となったことから考えて、修験ともかかわりのある寺だったのではないだろうか。   800年前の元正庵は、伊吹山一帯にあった寺の一つではないだろうか。 そのころの寺ではどのような生活が営まれていたのだろう。 同時期に書かれた今昔物語がある。  「伊吹山三修禅師天狗迎語」は、中山と同じく伊吹山中美濃の寺院のお話である。  美濃の国の伊吹山に、久しく修行する聖人いた。法文を学ばず、ただ、南無阿弥陀仏を唱える以外のことを知らなかった。  ある晩おそく、仏の御前にすわり念仏を唱えていると、告げる声が美しい音楽のように響いた。「おまえは一心に祈っている明日の未の時に、迎えにこよう。」と言った。 聖人は沐浴して身体を清め、香をたき、花を散じて、念仏をとなえていると、紫色の雲がたなびき、観音菩薩が聖人に近づいてきたので、聖人は這の蓮華
西谷から龍がでていくとき  話者70代 (2021・10・27)   上ケ流の西谷から龍が出ていくとき、 水は柄杓でくめるほどだった。 海に千年、陸に千年、山に千年棲んだ龍は昇天すると、おすみさは子供のころ、龍が昇天するのを見たと教えてくれたけど、西谷は龍が出ていくときすごい水量で、家の西から柄杓で水が汲めたと言われたと聞かせられてるわ。 ある本に滝と滝つぼの写真があって、そこに詩があって、 山深く、流れて落ちる滝のおと、その幽玄なる滝つぼに、龍神すむと人のいうという詩があって、なぜか、いまでもおぼえるわ。
 畑を焼く (2022・10・27) 山に木を切ったあと。木を焼いて、畑をつくる。それはな。違う肥料分になるな。 よう出来るなんてもんじゃない。県から視察に来た人が、窯の設備も大したもんじゃが、山で立派なものがつくっているのも大したもんだ、と。大根や白菜、見て。 柴に火をつけて焼くだけで、ものすご出来る。フチをずっと、木の葉もなんもさらえて。燃えてかんように。下へ行って火をつけると上がるで、上からつける。すると、じわじわ燃えていくで。長いことかかって燃えた方が、木が焼けるで、肥料分が。 どうしたって、下から火をつけると、火の手というのは上にあがる。早いとこ、燃えていく。木の葉や柴は、細かいところは燃えていくので、太いところが残っていってまう。上から焼くとじわじわと焼くで、長いことかかって地を焼くで。横へは走らんでな。たいてい、上に上がる。 一番困るのは笹原。笹の葉は生でも、燃える。バチをきれいに切っておかんと山火事になる。
 こより峠の思い出 こより峠か。 どんだけ、おじいさんを呼びにいったか。 うちのおじいさんは美束に連れがおった。製材やってる人。とくのすけという人だった。仲良で、灰谷の上の山の木を。美束は牛をよく飼った。その牛をあそこから連れてきて、牛をこより峠をこえてきて、うちの分の杉の木を牛にひかせて、出して、製材かけて。牛は山に置いていったんじゃないの。動物もあの時分は、山におらんし。熊やら猿はおらなんだよ。若い時分。熊の猿のと見たことない。どこにでも泊まれた。牛は小屋を建て、置いていって帰っていく。 お地蔵さんは2体ある。子供の時じゃよ。男の子がおるといじめられやしないかとこわて、こわて。峠越えて。 おばあさんが呼んでこいと。おじいさんが60ぐらい。そこいくと、二所あった、指物屋のおじさんと。うちもせわしい。仕事があるもんで、よばってこいと。呼びに行って。 あの時分は畑があった。お地蔵さんの横も畑で、こんにゃくがようけとれた。おじぞうさんがあるところから一谷は畑ばっか。道も変わったかわからんね。谷に水を貯めておいて、汲んでいっては仕事をした。清水工業のところも三体のはず。 白子へ降りるのもいい道。戻りは、下の道を来たと思う。 「おじい、ほら、もうおばあ、よぼってこいよぼってこい、ておばあいうんだけど。早くかえってこいっての」 「ほうか、なら戻る」 おじいはやさしかった。おじいはお父さんがなんか、おもしろないと叩く人で、生傷が耐えられずということで。おじいは本当にいい人だった。小遣いほしいと、あそこにあるともってけやと、50銭の札を。ういぜよ。
共産軍からスカウト (聞き取り2021・10・29) 終戦になって、軍旗が無かったで、先頭に、将校の軍刀を並べるわ。そんだけの人数がないとあかんのやで。わしら、機関銃やで、機関銃をずっと並べると、向こうから人数をやってきて、兵器をもってってまって。そしたら、わしら丸腰になるわ。するとシナ人がたわけにしてもう、石投げて。学校かなんかにおったんじゃで。兵舎というものはあらへん。石投げたりなんかしてみる。すると、武器もない。負けた人間やで、たわけにさせられてもしゃあないわ。 蒋介石軍は共産軍にやられて、やられて、どんどん逃げていったんじゃで、晩に寝てると蒋介石軍と共産軍がやりあうわ。わしらがおったところは上海の近くで、道路ってないんやで。全部水路、クリーク。そいで、やりかけたなあ、と思ってると、蒋介石軍がやられては、下がってくる。負けて、負けて。そいで、日本軍に武器を返してよこした。こんどは機関銃をもっとる。 やりかけたので、今度は頼みに来るぞよ、と思っていると、軍隊のえらい人がきて、頼むと。しゃあないで、機関銃持っていって、クリークの土手で、音のする方向けて、バババーンと。30発、弾が入っておる。押しさえすれば30発ある。弾もようけ、あったんじゃ。返してよこしたんじゃで。30発、撃つと、向こうは引いていってしまう。 それは、なぜ、というと、負けるちょっと前から、向こうは夜になると勧誘に来るんじゃ。俺は何々部隊におったもんじゃが、共産軍に来てみよ、と。日本の兵隊が、誘いに来る。共産軍じゃ。そいでな。古い兵隊は行かへんが、若い兵隊は軍隊がいやでかなわんで、ついていくんや。 上等兵でいくと指揮官じゃ。将校になれる。誘いに来たときに、何々部隊の上等兵だが、向こういったら馬に乗って歩けるじゃというじゃ。それは、いいことじゃと若い兵隊はついていくわな。向こうは日本の兵隊は指揮官でおるもんで。 機関銃でも、日本はくうれい式の機関銃。音が違うの。音が全然違う。日本の機関銃は出るのも早いしな。そいで、ばばばばーんと出ると日本の機関銃の音だということになると。向こうの指揮官が日本人なもんじゃで、日本人の花持たせる。行ってまう。あくる日になると、重慶軍が豚肉やら酒やら持って礼に来る。うまいものが食えた。 近くの町を守りをしていて、連絡に行ったら、ほもなんもおらん人間もおらへん。共産軍がほをも

森の文化博物館で、 「聞き写し春日」 揖斐川町本屋好文堂さんで販売中 読者にあう

 10月31日 森の文化博物館近くでコーヒーを入れさせていただいた。 軍資金を回収しに、揖斐川町の本屋さん好文堂さんに、売れてる。うれしい。ありがとう。 10月31日のイベントでは、何よりもうれしいのが「聞き写し春日」の読者と出会ったことだ。 この本は、文と写真の組み合わせは自分で考え、空間の微調整や紙の選択をデザイナーである松本氏が行った。もし松本氏がこのブログを読んでいたら、この場をかりてお礼を言いたい。あざます。 でも、自分には、ちょっと物足りない。写真の力のなさなのか。もっと良いものができるのではないかと考えている。 ところで、森の文化博物館のイベントは大成功のようであった。自分は、コーヒーの場所にいたので、コンサートなどが聞けなかったのは大変残念である。 出展者のユーチューバーのOさんや、楽団の方の、さわやかなお人柄に触れることができて、とても楽しい一日であった。このような場をつくりあげた、博物館のTちゃんの行動力に感謝。おつかれさま。