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 十一面観音


 江戸初期、中山の十一面観音様に参れば目が治ると聞いた大垣公の妹のおさいさんが、中山に参ったところ目が治った。 

 しかし、中山までの道は険しすぎるといったおさいさんは、下の寺に仏様をもらいたいと、お寺をつくって、仏様をもっていってしまった。

 観音様は、行きたくないとだきついて泣いた四井家のけやき。

 観音様は大正時代に焼けてしまった。


 


観音様を一人占めにして、なんて、身勝手なお姫様なのだろうか。

 「焼けたときに、下の寺から魂が入ってこの寺に入ったのを見た人がある」と四井さん。いまの観音様は、大垣公が、下に行く観音様だが、魂が入っているのだ。

 

 観音様がどのような観音様だったのか。伊吹山という位置関係から、湖北一帯の十一面観音様だと考えることができるのではないだろうか。

 

 観音様は長国寺から来た。長国寺は長者平にあった寺で、現在も五輪塔があり、明治期の記録では池の跡もあった言う。

 長者平は、美束から日坂への峠の手前にあり、春日発祥の地という説もある。壬申の乱で破れた大友皇子の寵姫とその一族がすみついたというものである。一族の古墳という糠塚もある。

 集落は離散し泥棒のアジトになった後、中世には、土岐氏が再興していたとの伝説もある。間もなく、荒れ寺になった後は、美束のお堂のなかに置かれていた。美束の太鼓踊りのなかには、観音様の歌もある。

 

 十一面観音は中山では現在、ご住職のご尽力のもと、ライトが灯されている。急な石段をのぼったあと、一息ついて、手をあわせる。


 仏はつねに在せども

 うつつならぬぞ哀れなる

 人の音せぬあかつきに

 ほのかに目に見えた給ふ

     「梁塵秘抄」


 何か特別な光を放っているように思えるのは、自分の生きていない時代に、存在したからだろうか。ご住職から、自分が存在しないことから見ることの重要さも教わった。

 「人はいずれ死ぬ」と教わるけど、「人はそのとき、生まれていない」である。


 現在も、観音寺は、宮内さんと四井さんが交替で守をしている。誰もが、本堂の戸をあけ、参拝することができる。

 お守をする宮内さんは、仏様の前にすわると、お経を読む。四井さんは、畑仕事切り上げ、時を告げる鐘をついてくれる。ご住職はおっさと呼ばれ、朝、夕のおつとめを行い、鐘をつく。

 十一面観音にははっきりした縁起は残っていない。一般的に十一面観音は様々な神に変化するように神仏混交の要素が強い仏様とされる。
 長者平は中世には、盗賊のはびこる異郷であり、伊吹山は修験の山伏も盗賊もいただろう。そのものたちが、神や仏として祀っていたのかもしれない。
 神様の要素がつよい仏様は辺鄙な山里にかくれているといったのは白洲正子であり、都の仏師がつくったものではないが、木地師に似たように神社を回って歩く旅の彫刻師がいたのではないかと推測している(十一面観音248頁)。
 白洲はそういう仏様は、「生活に深く浸透し、私達の祖先の血がかよっている」と書いている。仏像を作ることが修行であり、信仰でもあった。祖先の血が通った、もとの十一面観音を見たいと思う。

 十一面観音信仰の信仰を始めたのは泰澄である。白山の池のかたわらで祈っていると、龍神が出現したが、これは本当の神ではないと祈っていると十一面観音があらわれた。その後、白山にこもり、元正天皇の祈祷にもまぬかれた。
 十一面観音信仰は、疫病をおさめ、水を治めた。土地によっては龍神である。
 長国寺のあった長者平あたりは、貝月のふもとである。貝月が長者を巻いている。貝月からの水は花崗岩をけずりながら、下流へなだれこむ。水を治めるための信仰がこの地にあっても良い。
 

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