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 観音寺と元正庵


 「中山観音寺は養和元年(1181年)創建。慶安元年まで天台宗元正庵と称した」

 

 中山観音寺のはじまりは、元正庵という天台宗の寺だった。創建は1181年と言われている。2021年10月、中山の宮内勇之区長の案内で元正庵に登った。


 元正庵のあるところを貝洞という。現在は、杉林の暗い森のなかにあるが、周囲がかつてこんにゃくやお茶、桑の畑だったと思えば、集落の近くのお堂であるが、道はない。最近で出したという鹿の寝床や狸の洞穴を見ながら、木をはねながら、山を上がっていく。

 位置的には、お宮さんの上方にあたる。少しの平があって、細かい石が積まれた石垣がある。何より堂があったことを思わせるのは、字が刻まれた石碑が立っていることだ。

「おしゃりになるところを腹減って穴から出てきしまったのを聞いたことがある」と宮内さん。おしゃりになるとは、即身成仏のことである。食を絶ち入寂することである。修行する僧侶がいたのだ。

 石碑の隣に掘り出したかのように四角い穴がある。もしかしたら、この穴に入って、修行した僧がいたのかもしれない。

 「圓寂当庵開基触峰照上座」 

 圓寂とは、入寂と同じで、僧侶が死ぬことだそうである。庵を開いた僧侶のお墓だろうか。

 元正庵はどのような寺だったのだろう。美束も含めて、この辺りの中世は天台宗の寺だった。そして、春日は伊吹山の東に位置する。
伊吹は修験の山で、聖人の伝説がいくつか残されている。元正庵は後に、目が治ると評判の寺となったことから考えて、修験ともかかわりのある寺だったのではないだろうか。
 
800年前の元正庵は、伊吹山一帯にあった寺の一つではないだろうか。

そのころの寺ではどのような生活が営まれていたのだろう。
同時期に書かれた今昔物語がある。
 「伊吹山三修禅師天狗迎語」は、中山と同じく伊吹山中美濃の寺院のお話である。

 美濃の国の伊吹山に、久しく修行する聖人いた。法文を学ばず、ただ、南無阿弥陀仏を唱える以外のことを知らなかった。
 ある晩おそく、仏の御前にすわり念仏を唱えていると、告げる声が美しい音楽のように響いた。「おまえは一心に祈っている明日の未の時に、迎えにこよう。」と言った。 聖人は沐浴して身体を清め、香をたき、花を散じて、念仏をとなえていると、紫色の雲がたなびき、観音菩薩が聖人に近づいてきたので、聖人は這の蓮華に乗った。
 7、8日後、下仕えの僧が、薪をひろいに奥の山に入り、。谷をおおうように杉の木の梢に、叫ぶ者がある。見ると、法師が裸にされ、梢に縛りつけられている。
 助け出そうとする弟子に向かって聖人は「仏は『すぐに迎えに来るから、ここで待っていなさい』とおっしゃった。なぜ解くのだ」。かまわず解き続けると「阿弥陀仏よ、私を殺す者があります。おうおう」と大声で叫んだ。聖人は2,3日後に死んだ。

 中世は、寺が、健康や、人の運命の頼りだった。入寂する僧侶もいただろう。修行する寺の谷に水が流れ、生活水はそこから汲んだ。
 やがて、元正庵は荒れ寺となり、荒れ寺の中に関ケ原で破れた武将が隠れた。中山観音寺になってからも、目を治す寺ということで評判になった。


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