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 提灯 古老 貴重なお話をありがとうごあいます。  提灯が大事な儀式の道具だった。青年会は踊りというと、提灯を灯して踊っていた。嫁さんもらいに行くというと、暗闇で行くのはない。必ず提灯を灯して行った。  青年になると、提灯を頼んでつくってもらった。自分の名前を書いたもの。  十四、十五で青年。提灯屋に頼んだ。  各家庭でも、家の紋がついた提灯が必ず一つはあった。  死んだときも、お寺に頼みに行く時も提灯を灯さなければ法に外れとった。  前には家の紋が入り、裏に名前がある。 必ず、お寺事に関しては、袈裟を仏事に関してはかけていった。区長に頼みにいくのも、かけていく。葬式ぶれ
千日松田 古老 貴重なお話をありがとうございます。   松田という田んぼが美束にある。 三合八尺の大飢饉のときに、「ここなら、美束中の種がとれる」と言われた田んぼ。 美束中は普段は競争しているが、そういう時には助けあった。昔の人の助け合うということだ。 貝原でも美束中の種が取れると言われた。 千日松田というが、千日はあかんよ。千日風というぐらいだ。そこは風が当たるとこ。 松田には種があった。
 六社神社の鳥居をつくる③ 話者 古老  貴重なお話をありがとうございます。 石工が神様がはなしているのを聞いた  鳥居をつくるときは、拝殿のなかに石工さんがとまっていた。三輪屋の前にうどん屋、田中うどんの裏側の裏街の石工さん。しょうまっていう人。 その人らがとまっていたら、朝になったら音がするもんで、お参りがくると階のところに見に行ったのだが、それらしい人がいない。それでお喋り声がする。不思議じゃ不思議じゃと。 いい鳥居をつくってくれたもんで、神さんがよろこばしくて声がするんだわ、という話になった。 後に、本当にそうだったかということをしょうまに確認したら、本当にしゃべる声がしたと。
石切り場の楔のあと 大刈りして持って行った。加工は神社で。   種本六社神社の鳥居をつくる ② 古老 貴重なお話をありがとうございます。  石切場は、松田の奥。大刈りしたものを持って行った。くさびが切り出した時の跡だ。  こんな道はあらへん。山道だから。  人海戦術。人ばっかで曳いた。紙ぼんてんがあるだろ。あれで、  「えよいとこそうりゃ。どっこいそうりゃ。よいとこそうりゃ、どっこいそうりゃ」   真っ直ぐになって行きだすと、  「よいしょ、よいしょ、よいしょ、よいしょ、だめー」  と、紙ぼんてんを振る。ざい振りというのは指揮者だでね。  指揮者は、背の高い石の上に、登って。登って振るのは怖いが、振ったと祖父は自慢していた。  市場の人と、木出しをした時に、「よいとこしょ、よいとこしょ」。これではあわないんだ。  「よいとこしょーら、どっこいしょーら。うちの、おなごしゃ、どっこいしゃーら。洗濯ずきじゃ、どっこいしょーら。」  えっちな歌を歌うと勢い出す。体を温める。体が燃えてくるような雰囲気にするとケガをしない。心の中まで、エロばなしをして、温めて、仕事にかかったと。先輩衆が言った。  石は450メートルを進む。道などない。雑木の中の山道を進。雑木に縄をまきつけて、ブレーキをかけたので、ここらへんの雑木はみんなはげてしまった。1日、1日、進む。  2本で曳くがお客さんはひきええ方に。縄じゃと。  種本の氏子だけでは足りないで、寺本、白子、全部、来て手伝った。
六社神社の鳥居をつくる① 話者 古老  貴重なお話をありがとうございます。 寺本の鳥居は種本より先につくってある。なぜかと言うと、種本と、寺本はお互いの良い方面へ、と競争しておった。種本は寺本より、先につくらしておいて、それより良いものをつくろうと。祖父から聞いていた。 寺本の鳥居のそり具合を夜、梯子かけて測ったと。それを研究して、これよりそらした方がよかろうと。研究した。 おみどうもそう。寺本に先に作らしておいて、それよりええものをつくろうと。競争したわけだ。ぴんと、そらかすと、かっこいいとかんこうしたもんじゃ。 柱は本当はもっと大きいものができるじゃったらしい。 美束種本 六社神社
 庚申さん 若いときには、庚申さんがあった。掛け軸があって、2カ月に一遍お参りした。 宮内、四井、大郷で一つ。 そんなことはできなくなり、一つは民家へ、一つはお寺にある。 庚申さんの水をかえる際に宮内さんに聞き取り。 聞き取り 宮内さん
 がいの橋の物語り                     美束から川合集落へ下るところにあるドロマイトの鉱山の上を通って大垣藩に税を納めていた。道はがん(岩)が悪くて、通るのに危険な所があった。だから、庄屋のきんべえが、大垣の戸田藩に行って、難工事だ、と訴えたところ、殿さんが何言ったかと言うと、「きんべえ、工事が難儀だ、難儀だと言うけれども、一日自分が持ってった弁当の分だけ掘れないか」と。しゃあないで「一日、持ってった弁当ぐらいは掘れます。」とこう言って。ほったところが、「それなら、辛抱して掘りなさい。」  補助金出す出さんはどうやったか知らんが、それなら辛抱して掘る。きんべいは、帰ってきて、がいの橋を掘るようにした。  あの辺のがん(岩)はね、かねくいっていって、削岩機の削でさえも潰れるような固いがん(岩)。一日、昔でならノミで掘ったって、持ってった弁当の量っていったって、よほど辛抱すればできるわさ。そう言われて、そうですかと帰ってきた。で、通れるようにした。庄屋をやってたきんべえが、最後のお願いだった。  きんべえは、長年、庄屋をやっとって、「まあ、じじ、もう俺んところ来るな」と殿さんが言ったって。それほど長いこと、庄屋をやっとった。 この上の集落で、いま、屋敷があるけど、きんべえが滋賀県から土地をもらいに行ったというのは明治の代になってからだ。江戸時代と明治の境目に生きた人。私のおじいさんが明治8年生まれで、その人のおじいさんだで。きんべえは。  明治の代になってから、日坂の高橋さんに頼んで裁判して結局、大津の裁判で勝って、山林を何百町もらった。それが、経費がよけいかかった。集落で財産をもらったにもかかわらず、一代で炭焼いても焼ききれんほど土地が大きかったのに、集落で費用を出さなければならんので、そこで問題が起きた。  「新川きんべえが余分に使いこんでる」。ということがお寺の集会で出た。そんだけの財産を難儀してもらったくせに、悪者になったわけだ。きんべえに「文書を持って来い」と。そういことで、古い古い文書を持っていったら、目の前で火をつけて焼かれたと。裁判の書類は当たり前だが、それ以前の書類を目の前で焼いた。焼いたのは村のじん(人)。集落のじん(人)たが、金使いこんだじゃろうと、腹立ちまみれでやった。だから、集落の歴史は一切ない。  あまりにも、むごい結果だ
 うさぎの耳、藤の皮、どんぐりを供出         ウサギは、結構おった。ウサギの皮を供出。ソビエトの寒いところに。兵隊の服に使う。うさぎの耳を持っていかないと証明にならなかった。くくりをかけて、いろいろあってね。 戦争の時は、藤の皮や麻を供出した。それも割り当てで。皮をむいて干して出す。役場へ出して、そこから、軍へ出すのか、県へ出すのか。兵隊さんの服に。  からむしやまなべの皮も出した。  かしつ(どんぐり)も子供に割り当て。 飛行機の燃料やって。  兄弟が多かったので、妹や弟はよう拾いにいかんやろ。俺、長男やで、その子らが持っていかねばならん。一人5升。キロでいうと7キロ。それを学校に持っていく。  それが、学校にこわいほど積もってあって、戦争がすんでまったでね。干してまってあるで、腐らんけど。廊下にあると滑る。石ころのようにね。  わしらは横着坊やってで、それを撒いまとくと、先生に叱られてな。  それでも、拾わなならんときは、1斗が一升マスに10杯。3斗ぐらいないとね。  激しくなったのは、18年の中頃から19年にかけてやろうね。2年ばかり。秋落ちたやつは。干すのも家で干してね。手 かけるのをいらんようになってから、先生が持ってこいというで。  兄弟の下の子に持たさなならんで、わしら毎日、どんぐり拾いや。それが、ようけ拾えんのや。みんな、拾ってるので、あかせんのやで。俺ひとりならあるよ。たももキレでこしらえたのでやれたけど、川の中にあるのは取れん。川の中まで行った。  いまでもね、栃の実をば、主食にして食べる時代があったやで。いまでも、とちわらけんじょう。とちけんじょうっていって、栃ノ木だとすると、栃ノ木だとすると、うちの山だとすると、栃ノ木はよその人の木だとすると、とちわらけんじょうといって、その枝がはえているのはその人の権利。いまでも、それは、権利書がどうとういう話もあるのではないかな。  栃ノ木だけだ。春日中にある。美束にもあるし、伊吹山の下にもあるね。栃ノ木一本だと思っても、栃の実が落ちるところは、その人の権利。実をばそれだけ大事にしたというのは、米がなくて、栃の実を大事にした時代があったんだろうね。 川村 源一さん(2021)
 戦争、戦後の食べ物    山の草やら、なんでも食べるものは食べた。たんぽぽでもなんでもかんでも。葉っぱでも。食べなおれん。腹が減ってまう。 りょうぶでも食べた。蒸して干す。もんで、こんこんにして。粉末の手前ぐらいにして。それをご飯に混ぜる。よくみなければご飯が見えなかった。  山に行っても、りょうぶの葉はない。どこの山でもだまって取った。  あざみやふき、わらび、ぜんまい。わらび、ぜんまいは上等のこれ以上ないというごちそう。冬は、干したやつ。それからよもぎ。 一番つらかったのはよもぎ。よもぎの霜が当たるころ。霜があたらんとこ、つまんで、ゆでて、塩気がないのを飯にまぜて、それは食べれん。吐き出すと親に叱られる。飲みこめるものではない。もったいないが離れない。  義務教育卒業したのは終戦のあくる年、21年。くうものもあらせんよ。学校の運動場のふちというものを、全部、なすとか、小豆とかさつまいもとかつくった。その守やで。  わしらは、おふくろが10人産んで。おとこばっか、3人死んでる。 川村 源一さん 
 戦争に3回         お父さんは戦争3回。訓練1回。シナ事変。大東亜。20年3月に亡くなった。戦争ばかりいっとった。フィリピンで。帰ってきた人から教えてもらった。  遺族会(2020年現在)は大東亜7人、シナ事変7人。日露戦争もかなり亡くなってるんや。墓に院号がついてるからわかる。  勲七等。四井4人、松井2人、宮内。満州は脳兵隊に行っ16、17歳で亡くなっている。その年では兵隊には無理で農兵隊で行って亡くなってる。 宮内勇之さん              (2019)
 禿山 道に迷う             小学生のころだか、禿山から猟師が骨を拾ってきたのを見た。行方不明になった人で、着物かなんか知らんが、破れた着物を広げて見せた人があった。山に迷ったんじゃないやろか禿山で。中山の墓地、杉木の下に埋めた。  道に迷わないように、中山では道分地蔵を要所に置いた。桂谷の鉱山道路の終点に一体。露天掘りへと続く集落の終点に一体。これらは山道と恋折峠を教えている。天理教のところには、古屋へ行く道を押している。恋折峠にもお地蔵さんがある。    その地蔵を頼って旅した人がおるわけで。俺ら子供のころは花があるとちぎって、地蔵さんに備えた。なんでもかんでも、供えておけと。 四井 国正さん        (21・1)
 たつかぶちというのがこのお宮さんに一つある。雨乞いに使った。日照りで、雨をもらうために雨乞いをかけた。禰宜さんがたつかぶちを七反のさらしで包んで、天気の良い日に傘さして、禰宜さんがだかまいていた。雨乞いの行事の時だけ。  たつかぶちの替わりに流すのをししかぶちをお宮さんの下の川でひもつけては流してはひっぱって。流す間に太鼓踊りでね。雨乞いかけるやで夏じゃと思う。  たつかぶちは見れん。禰宜さんのときに、たつかぶちはガラス箱に入っていて。ナフタリンとか入れてある。どんな彫刻じゃかもわからんな。かぶちのおさまっているお宮さんは、お宮さんと種本のお宮さんには2箇所しかない。  種本にも、あるわいのと。種本のお宮さんでは本社のなかの神さんを氏子に拝ませる。たつかぶちだけは見せん。 川村 源一さん 
 薬草は先代がやっていた。18、19のころ。香六の人が主になって、伊吹薬草組合をつくった。ヤマトタケルのみことの絵のついた袋で。  うちはやってないがその時分に京都府に炭焼きに行っていて、シャクヤクが杉原のなかに、知らんうちに群生している。赤い目が一杯、雪のなかに。雪が消えると見えん。そいつを、一日中掘った。炭竃の上で干して、目方も軽なる。むしろをぐるっと巻いて、とじて。一杯ぐらいじゃない。鉄道で送ってきた。  ここで大勢おって、飲み薬を刻む、風呂に入れるやつ。シャクヤクを入れるとよかったんじゃん。高う買ってくれた。いまでもあんなもんあったら高い。いまは、鹿が増えて全部食べてしまう。  栃原人参というものはある。1年1年、目が出たやつが、節になる。長いと20年ぐらいたってる。それは苦いんじゃ。とちばにんじん。栃の木の下にある。 藤原 正身 さん 
 北支はな、梅雨時期になると今日も明日も雨が降るんじゃて。北支で雨が降るとぬかるみになる。火山灰じゃろ。どぼどぼになる。難儀をしたなあ。あるけん。馬は使えんしな。馬はずぼずぼ。靴は土踏まずから前に厚こい皮がうってあるが、下にすいついてはげてまう。現役の時だ。山東省。北支はさぶいさぶい。敵は初めは共産軍ではない。蒋介石が相手だ。  弾はとんでくる。北支の山奥でも戦争はあった。山岳戦は、機関銃は馬がおるので、崖にいくと馬は危ないところ行くとよけいあわてる。落ちては死んだ。馬は日本から連れて行き、死ぬとロバをシナから挑発。ロバは小さいが、駄馬という、日本の木曽馬ぐらいのもの。それは鉄はくことはいらんし。  馬は死んだら埋ける。ほとんど崖から落ちて死んだ。日本の馬は場の弱いところに弱い。機関銃の馬は大きい馬ではない。小柄の馬。馬でも招集があった。挑発というのだけど、民家のを買い上げる。 馬に行儀もないで毎日、毎日、訓練。  わしも馬の訓練をやった。馬の訓練はえらい。落ちたときに鐙がかかってると、頭をひきづられて死んでまう。だから、裸馬だ。けつがいとうて。けつがすれて血が出る 藤原正身 さん 
 村に戻ってきたら本当に何もなかった           村に戻ってきたときは、何にもない。戦争に行く時はそんなことあらへん。何にもないということは向こうで聞いていたが、想像以上にのうてびっくりした。  政府が価格を決めて、それでも、買おうこということはできん。配給じゃ。一定の量だけ配給。マッチ棒を一本ずつ分けた。  おもに食ったのはさつまいも、お茶をきって、さつまいもの苗をどんどん植えて、さつまいも飯を一番炊いた。そこにちょこっと米入れ。さつまいもの軸から葉を。毒にならんものは何でもくった。  藤原正身さん
 一個中隊で4人死んだ。  一服しとった。何も音もせん。そしたら、コンコロコンと一人、かやって死んでまった。  弾が当たっとった。どっから来たのかわからん弾。一服しとった時やで、焼いて、骨にしたわ。  初めのうちは死ぬと首切った。中の良かった戦友。いろいろ書いた日の丸の旗持ってる。それで頭を包んで。背嚢の後ろにつけて。焼く余裕ができるまで、負んで歩いた。戦争終わって、余裕が出来ると焼くで。  泥や石ではなく、実際の骨じゃ。南方あたりじゃ、やられてまって、遺骨を収集するような間もない。形見ってのはないで、泥や石を遺骨のかわりにした。 藤原正身 さん 
 1年前から負けることはわかっていた         終戦になったときは、ちんこうという小さい町。一個中隊だけそこにいた。  綿がようけとれるで日本から会社が来ていた。12時に天皇陛下の重大な発表があるで聞けとラジオを持ってきてくれた。外に据えて聞いていた。終戦。  シナでは1年も前ぐらいから、シナ人も日本は負けたと騒いだ。わしらも日本は負けるということは早うからわかっておった。  甲種合格は皆、南方へ行ってまうで。第二乙みたいなのが人数あわせで来てた。シナは戦闘はひどいことあらへん。南方のようなことはなくて、やってけるで。それが持って来るものを見ると、いまに負ける。  藤の皮を供出したというが、ああいうもので織ったガタガタの服。鉄砲は青年学校の稽古に使うようなもの。水筒は竹筒。  ゴンボケンも中身は普通のカネだが、鞘は竹。  カネがあらへん。鉄砲も弾の出てくるようなのじゃあない。それも二人に一丁。 ものがないことは聞いておったが。シナでおってみると、想像はついた。  海軍の船が沈んで、漁船に米を送ると南方に送る前に沈む。南方はかてえて死んだ。日本にも米もなんにもない。その時分の幹部はどんな頭をしてたんじゃ。 藤原正身さん
 戦争クリークで顔を洗い腸チフス         招集は揚子江の淵に行った。そこには討伐もあるにはあった。本部に連絡に行って、一晩本部へ泊まった朝、クリークで顔を洗った。  揚子江の水を取り入れて、道路はない。全部運河じゃ。流れもない。それが、碁盤の目に運河で、連絡は全部船。民船。シナ人は船一槽が財産。その水が真っ青な青さびの浮いた。戦争すぐあとに行くと、人間の死骸も浮いている。その水で顔を洗ったときに腸チフスをやった。腸出血2回した。軍医がお前のようなものは滅多におらん。死亡率の高いのは腸チフス。弟は南支で腸チフスで死んだ。 藤原正身さん
 草刈り場  草刈り場といって畑があると、昔は肥料とかはあらへん、草を入れて。畑があるものは誰が刈ってもええという。個人のものじゃないんで、部落のもの。  小宮神は大きな草刈り場があらへん。遠い遠い山の上の。草っていうもんじゃない。ただの木の枝を切って。草刈りして、焚きものも切って、向かいの山も部落の草刈り場で。広い草刈り場があった。そこに、しばわらもあった。  春になると、木を伐って、藤で束ねて、束でまわすんだ。向かいの畑までまわってくるんだ毎年。屋根して積んでおいて。持ってきては炊いた。 藤原正身 さん 
 草刈り場  草刈り場といって畑があると、昔は肥料とかはあらへん、草を入れて。畑があるものは誰が刈ってもええという。個人のものじゃないんで、部落のもの。  小宮神は大きな草刈り場があらへん。遠い遠い山の上の。草っていうもんじゃない。ただの木の枝を切って。草刈りして、焚きものも切って、向かいの山も部落の草刈り場で。広い草刈り場があった。そこに、しばわらもあった。  春になると、木を伐って、藤で束ねて、束でまわすんだ。向かいの畑までまわってくるんだ毎年。屋根して積んでおいて。持ってきては炊いた。 藤原正身 さん 
 小宮神の茅場だけ 藤原 正身さん                 各部落に茅場があった。茅場は村で守している。  この村の昔の人間は阿保だったらしい。大垣の殿さんが武家政治がないようになったときに春日を守っていた分を部落で分けた。  昔はどうも小宮神という部落には知恵者がおらなんだな。川合が一番、その次、香六、その次中山。小宮神は一番、びりやった。小宮神はちょぼっとしかもらえんかった。川合が7分、香六が6分、中山4分、小宮神が3分。  土地がちょぼっとしかあらへんで、ええとこに茅場をつくるのはおしいで、遠い遠いところに茅場をつくった。オオドっていう槍が先の下じゃ。いまでも、部落有で、植林してあるな。いまも、小宮神の山。川合は初若。トッタニという谷。二軒ばかり家がある。その奥にある。どいかいな茅場だった。  だから、小宮神あたりでは屋根を葺くふく思っても茅場が小さいで、一軒の茅では屋根を葺くだけあらせんで、交代で区に申し込むんじゃ。村中行って手伝って、3年だけかかって一軒の茅をつくって、屋根を葺き替えた。 藤原正身さん
 火事     火事といえば、おじいのおじいが子供の時だった。150年ばか前。その時分は全部葛屋じゃで、川合が火元で。  博打が流行って、その時分でも博打は禁じられておったんじゃな、そんで、倉の谷のところで小屋があって、そこに隠れて博打をうったんじゃ、そしたら火事になったで、博打うちがたっと来て、何やかも荷物を出してくれたという話をしたがな。  川合が火元で昔の茅の屋根やで、火事になると火事風という風が吹く。そりゃ、まあ、酸素が燃えるで、酸素がないとこへ新しい酸素がどばっとくるので、うおーっとなるんだな。火事になったら必ず風が吹く。風が吹いて、茅のたばに火が付く。  お宮のそばに、へいごろうというお大臣の家があって、そこの屋根に茅の燃えた束が乗った。茅で火がつく。その火が一面、広がった。一軒だけ、屋根が瓦で葺いてあった。そのうちだけは、ツマだけがこげても屋根の茅の束がのっても、火がつかなかった。 藤原正身さん
 国見峠  国見峠の山にある石も川石なんだ。山の石が割れて、かどかどの石ではない。水で擦れてまるうなった石が多い。琵琶湖の水が国見峠を超えて、こっちへ来ておったんじゃ。  琵琶湖も嵐で掘れて、掘れてって京都にいくようになった。それまでは、高かった。いまでも、こっちより琵琶湖は高いでな。 滋賀県は土地が高い。  長浜近辺から伊吹山を見てみな。伊吹山が低う見えるに。土地が高いんじゃ。もっともっと高かったんじゃ。琵琶湖の水がいくらでも来れた。  ここらへんは、美束の泥が多い。赤土でも、美束の砂がはいっている。ここらへんは固い。石ばっか。いざっていったので、所によっては瀬になったところと、瀬じゃなくて、まきとになったところは砂ばかり。こっち入ってくる道路は砂ばかり。ここらはちょこっと掘ったら石ばかり。瀬になったとったんだ。小宮神の土地は、水がいざったときにできた土地だ。人間がすんでない時代かはわからん。   春日の土地でも、美束は、昔は、春日の人間じゃないと思う。おそらく、久瀬の方から、尾西の方は人間がすみついた。尾西は滋賀県の方から国見峠を降りていくと、人間のおった屋敷がある。平がある。  国見峠を結構降りたところ。お地蔵さん、うつむいて、けつを撫でると産がつく、そこに鍋割という坂もある。そこに部落があった。平になってる。地蔵さんにそなえに行くのに、鍋でさげていったら、道が悪くて転んだりして鍋が割れたで、鍋わり。お地蔵さんより下に集落があった。何軒もじゃない。  それより下へ降りていくと、滋賀県から道路がついている。あの下は悪いと言ったら。熊を追っていくと、あそこへいくとあきらめた。犬も使えんような滝ばっか。ちょっと上を道路がきてる。親知らずという所。あんまり場が悪いで。そこの上に、平がある。 藤原正身 さん 
 伊勢湾台風 藤原正身さん   伊勢湾台風  川を渡るところに木の橋があっちゃこっちゃあったけど、そんなもんは低いで流れてまう。ここで渡って、山を越えて行った。ひときりは。  伊勢湾台風は美束がひどかった。美束の貝月が中心で、集中豪雨が伊勢湾台風。  尾西はそう降らなんだ。貝月が中心で降ったので、野営場の谷あたりは、まともに貝月。安土も貝月へ行ってる。付近谷も貝月。東谷の半ぺた貝月。あの辺はひどい荒れたんじゃ。大きな御影石でも落ちてきたんだ。  貝月の山が台風がいった後に見ると山が白かった。谷口から抜けて。山がはげてまった。木はあったけど、美束の山は中が花崗岩やで、上の泥が浅いで。  美束は地が浅い。滑ってまうので、抜けになってまった。いまこそ、大きい抜けだけがわかるが、一時は山が白かった。  抜けた土砂がどっと川へ来たので、棒で突つついてみた。土砂ばっかり。  美束から抜けが、いくつもの谷を抜けて。一つの抜けがくると落ちてくる。  下で見とると川の真ん中に山ができる。大きな石でも流れたんかと思ったら、山がいざってくる。  真ん中に山ができると、淵へ水がたまる。家の庭に水がついてくる。その山がいざって下へいくと、庭の水もさあっとひいていく。何回も何回も土砂が流れる。そんだけ、美束だで遠ないで、土砂が波になってくる。大きな抜けごとに波になってくる。ひどいもんじゃ。  この下の川がいま3分の1あるなしの川だった。  そのあとに、室戸台風が来た。そいつは、伊吹山さんが中心。その時分は大高線はないで、こちらから運ぶより仕方ない。古屋の分校にヘリコプターで食料を運んだ。 藤原正身さん 聞き取り
 うりぼうをとりそこねた  日が暮れて雨で雪が重うなると炭竃の屋根が傷むとあかんで、屋根の雪をずぼっとはねておかなきゃいかんと、思い出して、竃にいったんじゃ。 たかあたり  カーバイトのランプがあるで日が暮れていても危のうない。狸が便所場へきていて、冬は食うものないで、便所場へくるんだ。 狸が高い時分じゃ。明日は雪が降ると。跡が消えてまう。いま、見てこなあかんと。 しばらく行ったら、ふっとしたとこに、狸の穴じゃないとこに、犬がくわえた。やれやれ狸を拾ったわい、と思って。帰ってこうと思って、ちょっと出てったら、犬が二人かかって鳴くやろ。狸はくわえてまったんやで、それがわんわんわんわん鳴くやろ。  なんやと見ておったら、黒いかたまりがもにゃももにゃもにゃもにゃと。猪や。   いのししを二つかかって、けつくわえたり、いのししは真下へ降りてくる。こりゃうまいとこ、撃たなあかん。犬が加えとるうちは、犬が危ないで撃てん。犬と離れたら撃たなあかん。弾で頭撃たなあかん。  ちょっとしただんこうがあった。そこへ猪がぽんと降りる。離した。ししだけだんこう下へぼとんと落ちた。犬と離れたで、いま、撃たなあかんと真っ暗闇。ここらへんじゃないかと思ってばあんと撃っとった。そしたら、こんころんと回ったやろ。いよいよ当たったなあと思って。その下は谷じゃ。水あるで。谷までまわった。どこに当たったるが知らんが、晩に生き返って逃げるとあかん。腹だけ切っとらなあかん。鉈で腹をたちわって、腸ひきづり出して、谷に冷やかして。犬がべろべろなめる。血が出るので。背筋に当たっていた。  たかあたりという。これは、また生き返ることがある。   その後に、笹かりに行ったら、小さなうりんぼが四つばかり骨ばかあった。うりんぼはかてえて死んでまった。親だけ来とったんだ。親を撃ったときにここに来れば、うりんぼも拾えた。うりんぼだって4キロはある。結構な肉はある。 藤原正身 さん 聞き取り
 熊は胆のう  熊は頭撃ってないと安いの。商人は、胆のうがほとんどやで。弾の傷があるとあかんで、傷がある弾のあとの血をぬぐってみるわ。にごないか。苦ければ胆のうがあかん。ねぶってみるわ。  熊は雪のあるところは熊はよう滑る。熊は足が短くて横ひらたい。仰向けにしたら、熊はよう滑るんじゃ。下顎の牙をくくると抜けせんのや。  雪のあるうちは楽じゃ。雪がないところはひっぱたら毛が痛む。負わならん。負うものがないと藤を切って、藤で負うんじゃ。肩が痛い。  あんまり大きいと置いておいて、家に帰ってセタもって、カマスか俵も持って、どすんと入れて。前足と後ろ足をくくってまって。 藤原正身さん 聞き取り 
 ポチのこと  名前はポチ。おっかあが柴犬。馬喰やってた尾西の人いちすけさんが、秋田へ牛を買いに行って秋田犬の子をもらってきたのでかけてもらった。  赤ん坊の時から変わっておったわ。足は長い。これは、大きいなるわと。  猟期になって、おっかも5つになるまで、山鳥と狸はようやった。鹿もぼうのは追った。  で、おっかと、ちんころを連れて熊を探しに行った。ちんころが足元でううううううう。おっかあは、上の方でよく熊の入る穴。足元におったちんころが、ふっと下の方に行き、鳴きかけた。雪をかっかっかと掘って鳴くんじゃ。  雪の中から匂いがしたんじゃな。上にいた親がどっと走った。犬どおしやで何かおるという。二人で掘りかけた。熊がおるやわと。棒で雪を掘って、そしたら、中におって。穴が深くて、撃った。おっかあとちんころ二匹で谷にすべっていた。熊は谷からよう上がらんで。そしたら、ちっとおもちゃにせなならんなと見とったら、おっかあと二人でくわえたり、離いたりしておった。それでかんかんに覚えてまった。  ぽちは熊は三千メーターぐらいのところでも知っておった。わしは、あきれてまった。 藤原正身さん 聞き取り 
 草刈り場  草刈り場といって畑があると、昔は肥料とかはあらへん、草を入れて。畑があるものは誰が刈ってもええという。個人のものじゃないんで、部落のもの。  小宮神は大きな草刈り場があらへん。遠い遠い山の上の。草っていうもんじゃない。ただの木の枝を切って。草刈りして、焚きものも切って、向かいの山も部落の草刈り場で。広い草刈り場があった。そこに、しばわらもあった。  春になると、木を伐って、藤で束ねて、束でまわすんだ。向かいの畑までまわってくるんだ毎年。屋根して積んでおいて。持ってきては炊いた。  昔は山の柴でなければ、焚きものはあらせん。
 1年前から負けることはわかっていた          終戦になったときは、鎮江(ちんこう)という小さい町。一個中隊だけそこにいた。  綿がようけとれるで日本から会社が来ていた。12時に天皇陛下の重大な発表があるで聞け、とラジオを持ってきてくれた。外に据えて聞いていた。終戦。  シナでは1年も前ぐらいから、シナ人も日本は負けたと騒いだ。わしらも日本は負けるということは早うからわかっておった。  甲種合格は皆、南方へ行ってまうで、第二乙みたいなのが人数あわせで来てた。シナは戦闘はひどいことあらへん。南方のようなことはなくて、やってけるで。それがもってくるものを見ると、いまに負ける。  藤の皮を供出したというが、ああいうもので織ったガタガタの服。鉄砲は青年学校の稽古に使うようなもの。水筒は竹筒。  ゴンボケンも中身は普通のカネだが、鞘は竹。カネがあらへん。鉄砲も弾の出てくるようなのじゃあない。それも二人に一丁。 ものがないことは聞いておったが。シナでおってみると、想像はついた。  海軍の船が沈んで、漁船に米を送ると南方に送る前に沈む。南方はかてえて死んだ。日本にも米もなんにもない。その時分の幹部はどんな頭をしてたんじゃ。大東亜戦争を始めたのもそもそも間違いだ。天皇陛下も朕わじゃ。朕が戦争やらんといったら、できのんやて。
 頭を日の丸の旗で包んで           一個中隊で4人死んだ。  一服しとった。何も音もせん。そしたら、コンコロコンと一人かやって死んでまった。  弾が当たっとった。どっから来たのかわからん弾。一服しとった時やで、焼いて、骨にしたわ。  初めのうちは死ぬと首切った。中の良かった戦友がいろいろ書いた日の丸の旗持ってる。それで頭を包んで。背嚢の後ろにつけて。焼く余裕ができるまで、負んで歩いた。戦争終わって、余裕が出来ると焼くで。  泥や石ではなく、実際の骨じゃ。南方あたりじゃ、やられてまって、遺骨を収集するような間もない。形見ってのはないで、泥や石を遺骨のかわりにした。そのものの骨とはいえんわな。
 村に戻ってきたら本当に何もなかった           村に戻ってきたときは、何にもない。戦争に行く時はそんなことあらへん。何にもないということは向こうで聞いていたが、想像以上にのうてびっくりした。  政府が価格を決めて、それでも、買おうこということはできん。配給じゃ。一定の量だけ配給。マッチ棒を一本ずつ分けた。  山の木の葉をくったりして命つないだ。わしは、りょうぶはくわなんだ。ギボウシや、フキ、魚釣りにいくと、ええフキがある。フキ飯だ。おもに食ったのはさつまいも、お茶を切って、さつまいもの苗をどんどん植えて、さつまいも飯を一番炊いた。そこにちょこっと米入れ。さつまいもの軸から葉を。毒にならんものは何でもくった。 聞き書き藤原正身さん(21・9・19)  大正7年7月7日生まれ
 北支は  今日も明日も雨が降る                     北支は、梅雨時期になると今日も明日も雨が降るんじゃて。北支で雨が降るとぬかるみになる。火山灰じゃろ。どぼどぼになる。難儀をしたなあ。あるけん。馬は使えんしな。馬はずぼずぼ。靴は土踏まずから前に厚こい皮がうってあるが、下にすいついてはげてまう。現役の時だ。山東省。北支はさぶいさぶい。 敵は初めは共産軍ではない。蒋介石が相手だ。  弾はとんでくる。北支の山奥でも戦争はあった。山岳戦は、機関銃は馬がおるので、崖にいくと馬は危ないところに行くとよけいあわてる。落ちては死んだ。馬は日本から連れて行き、死ぬとロバをシナから挑発。ロバは小さいが、駄馬という、日本の木曽馬ぐらいのもの。それは鉄はくことはいらんし。  馬は死んだら埋ける。ほとんど崖から落ちて死んだ。日本の馬は場の弱いところに弱い。機関銃の馬は大きい馬ではない。小柄の馬。馬でも招集があった。挑発というのだけど、民家のを買い上げる。馬に行儀もないで毎日、毎日、訓練。わしも馬の訓練をやった。馬の訓練はえらい。落ちたときに鐙がかかってると、頭をひきづられて死んでまうから裸馬だ。けつがいとうて。けつがすれて血が出る 藤原 正身さん
 薬草の中身              薬草は先代がやっていた。18、19のころ、香六の人が主になって、伊吹薬草組合をつくった。ヤマトタケルのみことの絵のついた袋で。  その時分に京都府に炭焼きに行っていて、シャクヤクが杉原のなかに、知らんうちに群生している。赤い目が一杯、雪のなかに。雪が消えると見えん。そいつを、一日中掘った。炭竃の上で干して、目方も軽なる。むしろをぐるっと巻いて、閉じて。一杯ぐらいじゃない。鉄道で送ってきた。  ここで大勢おって、飲み薬を刻む、風呂に入れるやつ。シャクヤクを入れるとよかったんじゃん。高う買ってくれた。いまでもあんなもんあったら高い。いまは、鹿が増えて全部食べてしまう。  栃原人参というものはある。1年1年、目が出たやつが、節になる。長いと20年ぐらいたってる。それは苦いんじゃ。とちはら人参といって栃の木の下にある。 藤原正身さん
 鹿は珍しかった   わしが鉄砲撃ちをやるころには、美束に鹿なんか一匹もおらなんだ。いまは、鳴きかける。  香六のお宮さんの谷、宮の谷、いくらぼっても、そこは越さなんだ。谷山の谷から鹿をぼっても、天神谷から上に鹿は絶対来なかった。美束に鹿はおらなんだ。    いっぺん、どえらい大雪があって、熊探しかなんかで行ったんだ。そしたら、尾西の奥に珍しいものが死んどるというじゃろ、そこへ行ったら、滝つぼに鹿が落ち込んでまった。小さい鹿が。淵にあがれない。珍しいものが死んどると。滋賀県の方からきたんだ。大分昔じゃでな。わしが、35歳か40歳。  鹿が来たのは、最近ということはないけど、20年にもならん。角をまきつけては死ぬ。ここの川渕に。角があるやつが、余計に巻きつく。  猪でも鹿でも小糠いれておくと、おりにかかる。猪も来て仕方がなかった。うちの畑にも猪の小さいのがじゃがいも堀ったあとだったな。そこら中で、じゃがいもを食われた。そんなときにゴミを集めるときに、トラップがあった。それをもらって、畑にかけた。あくる朝、隣の人が、ししがハサミにかかってる。小さいやつがかかってあった。初若のじすけという猟師ともだちが。  小さなうりんぼうだったが、そこら中、ほって歩いて、こんな小さいのは兄弟で2つや3つはおる。しかし、その一つで終わりだった。おれがとったら、みんなが喜んでくれた。   豚コレラでよほど死んだんか。美束もおらんげだ。美束の田んぼで、ネットでも丈夫にしとかん。  いのししは、1年に5つも6つも子をうむ。鹿は1年おきに、1匹しか産まない。それが増えるというのは不思議でかなわん。 聞き書き 藤原 正身さん 大正7年7月7日生まれ 2020・9・20
ポチと熊を追う ②   冬は冬眠というけど、穴へ入っているだけで、寝てる時もあるけど、犬がそばへいって鳴く、犬がくいつきに行くわ。すると、ぐわっと怒って、犬をぼってくる。  犬も簡単にくいつかん。だあ、と逃げてく。熊の鼻と犬の鼻が離れたところ、犬が下がる。熊がぼってくる。  子がおるやつでは、節分の境に子を産むとしたものなんじゃ。熊はおんとめんと二匹産むでね。一年置きにしか産まんし。  1年は5、6貫目のやつを連れて歩く。その年は子を産まん。1年おきにしか産まん。鹿も1年おきに1つ。猪は豚と一緒、いくつでも。穴へ行って、犬をぼってくる。ぼってきかたによって、子のおる熊か。おすで一つかと言うことは、わかる。おすだけだったら、犬を遠いところへぼってくる。穴のなかに子のおる親は、ぼってきても2メートルぐらい。すぐに穴へ戻る。  熊をやったことがないもんと一緒に行くと、慌てる。熊はあわてて撃ったらあかん。弁当をおろして、一服しようと落ちつかせる。  わしは、犬が良いので勢子といって追い出しにいく。マチが待っている。熊が休んでたのを犬がかぎつけて鳴いた。きゃんきゃんきゃんと鳴き声が、熊に鳴く鳴き方じゃない。痛かったという鳴き方じゃ。  雪が血だらけ。犬が割かれてまった。熊は行きよる。遠いが、撃ったらね。するとね、熊が行く方から撃ったと思ったんじゃな。ちょうど、犬がやられてるところに戻って来た。  犬だかまいとるで撃てへんが、犬離いて、こっちの山に上がりかけた。冬でも葉のある木があるが、ケツだけ黒のが見えた。なんでもいいで、ばんと撃ちこんだ。そいつが当たってな。下へ落ちてきた。熊はまだ、死んどらん。その下は結構な淵があった。そこへ、熊がどぼーっと飛び込んだ。そこへ、頭をばーんと撃ったら、グダンといった。  上の方に待ちが二人おる。ケーツ吹いたら、上の方から慌てて返事きて、降りてきた。雪がまっかじゃろ。「なんじゃ」というで、猪に犬がやられてといったら、先生は、感づいとる。犬があんなにやられるのは熊しかいない。素人の人に渕になんぞおらんかと言ったら、「いかい、熊、浮いとるぞ」。熊、おれが撃ったんじゃ、渕から引き上げようと。重くて上がらんぞ。  犬がやられたところは毎年、熊が二つや三つおるんじゃ。十以上とったな。  伊吹山からみると、木もようけ生へとらん、壁やで。駐車場から見ると岩壁
 ポチと熊を追う その1  昔は狩猟期間は、半年あった。10月15日から4月15日までが狩猟期間。その中で、時期によってとるものがある程度違う。  春、4月は熊じゃ。熊も30いくつとった。養老のたかぎさん言う人が福井県まで買い集めておったが、その人でも、見たことのない熊やな。 貫文目でいくと37貫500あったんじゃ。   熊は、 胆のうが高いんやで。当時は皮も高かった。皮も真ん中に将棋盤をおけるだけの皮やったらものすごう高かった。肉は金せん。油こうて。  美束の山を越えて一番大きいやつは撃った。国見峠より、北の方。国見峠は岐阜県と滋賀県の境やでね。あれを越したら、県のずっと奥まで、甲津原まで県公造林。そこで、五つばか撃った。熊だと、四人グループ。   犬が良かった  熊は犬が悪かったら全然だめだ。わしのもっとった犬は秋田犬をかけた大きな犬じゃ。美束の古い猟師が師匠で一緒に歩いたが、こんな犬は何百も一匹もおらん犬やと。しまいに猪の小さいのくわえとって、名古屋の遊びに来た猟産師が猪を加えてるときに撃つなというのに、撃ってまった。犬の足を。猟師やめようかと思ったわ。45ぐらいの時。 命の次に大事な子やった。いのししなんか、三百メートル向こうでも知っとったでね。  犬がにおいがするとね  犬がね、匂いがすると、ふぉっと走るわ。匂いのするほうへ。冬は山の上から風が吹き下ろすんじゃ。匂いがばあと下の方へ来ると犬はふっと頭上げて、匂い嗅いでるわ。「なんか、おるなあ、匂いがきたなあ」と鼻振っとる。そのうちに、方向決めてだあっと行きだすわ。風で匂いが消える時があると、だああっと歩くわ。風の向きで匂いが来るところがあるんだね。すると、走り出す。また 匂いが切れると飛びあがって、ふっと、匂いが来んかと。  匂いが濃いでね。熊だけは姿見えでも鳴く。猪や鹿は姿見えな、鳴かん。熊だけは匂いがきつうなると泣き出す。鳴き方が違うの。鹿はきゃんきゃんきゃんきゃんと言う。猪はそばにいくとわんわん。熊は初めからわんわんと細かいわずに、わん、わんと切って鳴くわ。 聞き書き 藤原 正身さん 大正7年7月7日生まれ 2020・9・20
 真山の水が止まった                (2019)  真山は高い山なのに水がない。それでもドロマイトの岩の下には出とった。  唯一水が出る場所だったんだが、いまは出ない。なんで出ないかと言ったら、ある人が子どものおしめを洗って、バチがあたって、水が止まった。 山口さん
 うさぎの耳、藤の皮、どんぐりを供出        ウサギは、結構おった。ウサギの皮を供出。ソビエトの寒いところに。兵隊の服に使う。うさぎの耳を持っていかないと証明にならなかった。くくりをかけて、いろいろあってね。 戦争の時は、藤の皮や麻を供出した。それも割り当てで。皮をむいて干して出す。役場へ出して、そこから、軍へ出すのか、県へ出すのか。兵隊さんの服に。  からむしやまなべの皮も出した。  かしつ(どんぐり)も子供に割り当て。飛行機の燃料やって。  兄弟が多かったので、妹や弟はよう拾いにいかんやろ。俺、長男やで、その子らが持っていかねばならん。一人5升。キロでいうと7キロ。それを学校に持っていく。  それが、学校にこわいほど積もってあって、戦争がすんでまったでね。干してまってあるで、腐らんけど。廊下にあると滑る。石ころのようにね。  わしらは横着坊やってで、それを撒いまとくと、先生に叱られてな。  それでも、拾わなならんときは、1斗が一升マスに10杯。3斗ぐらいないとね。  激しくなったのは、18年の中頃から19年にかけてやろうね。2年ばかり。秋落ちたやつは。干すのも家で干してね。手かけるのをいらんようになってから、先生が持ってこいというで。  兄弟の下の子に持たさなならんで、わしら毎日、どんぐり拾いや。それが、ようけ拾えんのや。みんな、拾ってるので、あかせんのやで。俺ひとりならあるよ。たももキレでこしらえたのでやれたけど、川の中にあるのは取れん。川の中まで行った。  いまでもね、栃の実をば、主食にして食べる時代があったやで。いまでも、とちわらけんじょう。とちけんじょうっていって、栃ノ木だとすると、栃ノ木だとすると、うちの山だとすると、栃ノ木はよその人の木だとすると、とちわらけんじょうといって、その枝がはえているのはその人の権利。いまでも、それは、権利書がどうとういう話もあるのではないかな。  栃ノ木だけだ。春日中にある。美束にもあるし、伊吹山の下にもあるね。栃ノ木一本だと思っても、栃の実が落ちるところは、その人の権利。実をばそれだけ大事にしたというのは、米がなくて、栃の実を大事にした時代があったんだろうね。  川村 源一さん(2021)
 どくじ              どくじは中瀬は中瀬山にある。たたりがある。あとは、寺山のろくじだいら。  明治の時代に土地を分けたもんだで、分ける前に、焼き畑をしてたりするんだけども、いいとこじゃもんで、ここは俺の土地だと構えてまったのではないか。神さんを祀って、バッチギというけど、俺の土地だということで、構えていたと違うか。  中瀬は2箇所ある。吹谷の入口。一つのところは下吹谷(しもふきたに)、もう一つはろくじだいらと言ういいとこだ。  しもふきだには田んぼのあるところ。ろくじだいらはおとびらの方。寺本山だから。   過去帳をみても文政からわかる。それを見ると江戸中期にはどくじというのはあった。  祖父でも、あそこはろくじなんで買うなと言った。怨念があるで、買うものではないと言っておった。  炭焼いたら、子供が日並びで二人一緒に死んだ。たたりはあるなあと思った。昭和20年ごろ。戦争時分じゃ。 その後もそこの土地を買った人がいる。信じない人だったので、良い土地が出てればその人は買った。  原木がないとよその山を買って焼いていた。その人も植林が盛んになったころで、のことで、昭和。大昔のことよりは、遭遇にあった人がいることで、真実がわかる。人が嫌がることはせんほうがいいんだ。 駒月 作弘さん              (2021)
 美束から川合集落へ下るところにあるドロマイトの鉱山の上を通って大垣藩に税を納めていた。道はがん(岩)が悪くて、通るのに危険な所があった。だから、庄屋のきんべえが、大垣の戸田藩に行って、難工事だ、と訴えたところ、殿さんが何言ったかと言うと、「きんべえ、工事が難儀だ、難儀だと言うけれども、一日自分が持ってった弁当の分だけ掘れないか」と。しゃあないで「一日、持ってった弁当ぐらいは掘れます。」とこう言って。ほったところが、「それなら、辛抱して掘りなさい。」  補助金出す出さんはどうやったか知らんが、それなら辛抱して掘る。きんべいは、帰ってきて、がいの橋を掘るようにした。  あの辺のがん(岩)はね、かねくいっていって、削岩機の削でさえも潰れるような固いがん(岩)。一日、昔でならノミで掘ったって、持ってった弁当の量っていったって、よほど辛抱すればできるわさ。そう言われて、そうですかと帰ってきた。で、通れるようにした。庄屋をやってたきんべえが、最後のお願いだった。  きんべえは、長年、庄屋をやっとって、「まあ、じじ、もう俺んところ来るな」と殿さんが言ったって。それほど長いこと、庄屋をやっとった。  この上の集落で、いま、屋敷があるけど、きんべえが滋賀県から土地をもらいに行ったというのは明治の代になってからだ。江戸時代と明治の境目に生きた人。私のおじいさんが明治8年生まれで、その人のおじいさんだで。きんべえは。  明治の代になってから、日坂の高橋さんに頼んで裁判して結局、大津の裁判で勝って、山林を何百町もらった。それが、経費がよけいかかった。集落で財産をもらったにもかかわらず、一代で炭焼いても焼ききれんほど土地が大きかったのに、集落で費用を出さなければならんので、そこで問題が起きた。  「新川きんべえが余分に使いこんでる」。ということがお寺の集会で出た。そんだけの財産を難儀してもらったくせに、悪者になったわけだ。きんべえに「文書を持って来い」と。そういことで、古い古い文書を持っていったら、目の前で火をつけて焼かれたと。裁判の書類は当たり前だが、それ以前の書類を目の前で焼いた。焼いたのは村のじん(人)。集落のじん(人)たが、金使いこんだじゃろうと、腹立ちまみれでやった。だから、集落の歴史は一切ない。  あまりにも、むごい結果だったもんで遺言をした。「まごこ(孫子)の代まで、村の役は
みがきずな 水車  昔はみがきずなを入れて米をといだ。粉だ。砂やで。だから、いまでも、米をといだら、しょうけにあける癖がついている。  水車は金でつくっていた。水がたまるとたあっと流れておる。小屋があって、羽があって、あれに、水がたまると落ちていく。  中山は広沢に水車があった。
中山 わんだの地蔵さん  野垂れ死にした人のお墓だと思うよ。わんだという所。その人を祀ったのが初め。お地蔵さんを誰がつくったかは知らん。屋根はうちの母親がつくった。うちのおばあさんが悪かったときに、お地蔵さんが夢に出て、お地蔵さんが屋根が壊れてる、屋根が壊れてるというもんで、鉄工所でつくってもらった。10年ばかり前。  そこに、行かなければ毎日に行けなかったので、毎日通っていた。水を備えたり、花を供えたりした。  四井 あけみさん  2021 11月 聞き取り
 蛇つかみ 蛇つかみに長者平であったことがある。大きな袋を持っているというので何かというと。袋一杯蛇だと言う。30キロはあったろう。だしにするらしい。その人を車で送った。 駒月 作弘さん 21年10月 
 蛇がとおると松の皮がむけている         上ケ流で採集            (2021年10月採集)  たかやという山があって、たかやを越した向こう側にぬめりという場所があって、うっとうしいような場所だ。そこに昔、太い大きな蛇がいたそうだ。  たかやに仕事に行っていた人がいう事には、蛇が通っていくとき、どく間がないと、足を広げるしかない。すると、またの間を蛇が行く。  ぬめりには、松の木があるのだけど、蛇が通ったあとは、皮がむけているのを村の人が見た。   じゃのぶらは蛇の住処。じゃのぶらでしいたけを栽培した。    上ケ流に来ると、必ず西谷で水を汲むという佐名さんの友人が西谷の龍の話をしてくれたのだった。「西谷は龍が出ていくとき、すごい水量で、柄杓で水が汲めた。」  「柄杓で水が汲めた」ほどの水をもたらしてくれる龍。茶畑で有名な上ケ流は龍や蛇の伝説に事欠かない。  蛇の住んでいるのはじゃのぼら。上ケ流地区の蛇の話は「春日のむかし話」に古が池の大蛇という話がある。おじゃれ、なる洞も蛇にちなんだ地名という。    道中、佐名さんに、たかやとぬめりの話を聞いた。  春日村史の地図を見ると、北ぬべり、南ぬべりがある。  ぬべりとぬめりは同じことに違いないが、「ぬ」とは、民俗地名語彙事典(ちくま学芸文庫」)によれば、水気の多い土地のことである。沼がその一つで、湿地が水田になるとヌタとなる。  佐名さんの話によると、ぬべりとはうっとうしい土地である。湿地に蛇が住んでいたという昔話となっている。  小島山のてっぺんに「古が池」がある。池には大蛇がすんでいる。大蛇は猟師の愛犬2匹を呑み込んでしまう。猟師はかたき討ちをしようとするが仕止められず大蛇は追いかけてくる。   大蛇がのぞいた谷をのぞき谷、鳴き声がひびきわたったなる洞、大蛇の尾のあった地名を尾蛇垂と、大蛇の胴体が上の平一面にわたっていたので、満洞という。 (春日のむかし話)           おじゃれ、なる洞も春日村史に見えている。