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5月, 2023の投稿を表示しています
 しなのき  新川定琴さん しなのきは珍しい。めったにない。それでも長者にはしなの木谷という山がある。そこへ、しなはぎに行くということを言ったでな。その山に、まっすぐなしなの木がようけあるんかな。それをはいできて、皮だけもってくるんやな。そんで、皮をはいでおいねてきて、それを水にふやけて、くさらかす。よどみにふやかす。皮の部分だけ。すると中皮が、しなの部分がきれいにとれる。皮をとってもってくる。その皮のなかでも、中だけ。しなとして使う。
 茅はカニ歩きで持ってくる 新川さん   炭俵は、おふくろがあんでいたし、束にして、秋ほかんして、冬もってきて編んだんだわな。時分の茅刈場が決まっていたでな。  茅刈場はおはら。何人かで分けてあった。それぞに分けてあった持ち分を刈にいった。山で干して。乾くとおいねてき、冬使った。  おはらは大吹から川沿いに行く。沢をわたったりしながらいくと平な場所がある。そこから茅をおねてくる。茅は長い。横にしているので、沢をカニ歩きで降りてくる。こやんたににも茅場があった。  おはらは大八で大吹まで行く。そこから歩く。  こやんたににも茅場があった。長者まで大八で行く、そこからこやんたにまでは歩く。
 山もちにおさめる 美束   安土の正面谷で焼いておったでな。学校から帰るとね。弟や妹を負いにいった。親は炭を負んでこなならんやろ。私らは、子どもを迎えに行った。  山、持ってる人もあるけど、そうない。山もちの人から買ってな。春、炭を焼くやろ、大体、初めに売った炭は山主におさめなならん。今度、炭焼くまでお金ないで大変やった。お金ないでな。春、窯うって、焼いてというとお盆になった。その間、何にもお金なし。どうして親が食べさせてくれたのか。炭を売るところの人にお金を借りて、前借して、生活していた。だから、お盆ごろに炭が出来ても何にももらえん。安土は二軒、山もちがいた。市瀬はおてんのうの近くで焼いたし、丸山の置くの赤崩れにも焼きにいった。正面谷で焼いたときは、家に持ってきた。安土の人は、集会所に小屋たてて。
 かやが無かった 新川 茂至 さん  縄の長さは六尺。つつらこは重み。それで編んだものをしめる。そういう意味がある。そんな時分は冬仕事。俵を編む、かやを雪降る前に刈って、干して、それをとりこみ、それが冬仕事。雪が降ったとき何もできんもんで、そういうような仕事。俵を編むのは冬仕事。ある程度は編んで、炭焼かん人でも、仕事がないので、かやを刈って、家で編む。誰かが買ってくれるじゃろうと思った。うちのおじいさんが買いに歩いてる。ちょこっと親しいところとか、親戚関係とか行って。おい、俵ないのかや。あるぞよ。とにかく、分けてくれや。そうして買ってきては。それで、おっつかんと、業者が下へもっていって売るやろ。それを今度、もらってくる。それが、なかのものだけ出してあるもんで、もさもさ。それをとってきて、なおひて、また、それを使う。上手にやれば2回ぐらい使える。どうしても、新品みたいなことはないけどな。だいぶ使ったよ。
 竹屋谷の炭焼き 新川 茂至 さん  竹屋谷というのは、道路の終点に滝がある。あそこの上で焼いておった。途中で道があって、熊坂へ出てきた。熊坂へ越してきて、皆がだしごやをつくった。竹屋谷で中学に上がった年までは焼いていた。  皆、行っていた。うちのおじいさんがおって、その奥に、婿がおって、その上にえいじろうさん、その奥にさだのぶか。別れたところに、二人ばかりあった。いろんなところからきていた。うちのおじいさんは、それからあっちもこっちも炭焼き。  竹屋谷というのは揖斐川の本流の始まりやでな。あそこは一番深いで。木がいこうなれんもんで、木が難儀していこうなってるから固いの。焼いた炭も固い。ええ炭なの。深山っていうんだけど、俵でも、小さい。炭がしまって、目方が来てるので、日持ちがいい。第八に炭を積んだことはある。伊勢湾台風で、道も橋もあらへん。炭焼きをしていると、炭を出さんことには銭にならん。その時に炭を出さんことには生活できない。
俵編 新川 さん  俵を編むのは細い縄で。縄編みの機械へ入れて、細い縄を編んでおく。それを水につけて、それから今度は、石積みに木でくいをうってかけて干す。  干した縄を、釘をまず1本、つぎに日本うち、こんころこんころ、ほどいた縄を巻くの。巻いてそのあいさへ包丁を入れて切る。  5本(4本)をひとからげにして、今度はつつらこの穴に通してくくる。こもげたにおもしをかけておるわけだ。  かやをこもげたに渡して、一つとびにやる。へしったら、かやをたす。かやは太いなら1本。その繰り返し。   先っぽにひげができているので、はさみで切る。  俵は3枚に折る。  はじをくくり、それをたてて、それに、ねっそといって、細かいのを切ってきる。  ねっそというのは柔らかい木。ねっそをくるくると。ねっそは底は二つつかう。白ねっそとか、くろもじとかで、形をつくり、ロープを十文字にかけ、シバを入れてふたをする。それを立たらかして、炭を入れる。炭がいっぱになる。シバが細かいのを入れて、ねっそは曲がりやすい木を使う。ぺしょっと折れるのはいかん。曲がりやすい柔らかい木を使って。  俵の真ん中には、必ず、芯縄というのが入っている。おしりから真ん中に入っている。それが上に出て、しおりといしばり方でしばる。しおりを2つつくり、その真ん中にまきふをはさむ。検査員が炭の検査にくるので、検査が通ると札をくれる。三番炭とか二番炭とかある。ええ炭は緑じゃったか、色は忘れてきてるけれど、一番赤いのはあかんやつだったけか、まきふというのをつける。それが1俵。  四角いのはどうするかというと、長い炭。30センチぐらいに切って四角する。自分で枠をつくる。下になるところに杭をうつ。俵を広げて枠にいれると切った炭を並べると角炭。3寸というと30センチ。  四角い炭と丸い炭がある。丸い炭というのは品種が落ちる。切れ炭は2寸。  天秤の秤を山にセットしてあるので、目方を図らなければならない。水平になったら、ええぞと。足らな上がらなんで、足らんぞというと刺したらなあかん。12貫ばかり。  かやは個人の茅場。個人のかやばで足らん人は、頼んでよそからもらう。そんな時分は、屋根がかやなの。かやは大事やった。炭俵もかやで編んだ。部落によって、かや場は総かやば、部落中のみんなの茅場ですよというのがあった。それもない所がある。総茅場をもっている
 禰宜さんが必要なので取に行った                       古屋 藤田芳子さん  なきりでは、昔は柿をとるのにつくったり、セタの首縄をつくったり、ビクを編んだ。 8月から9月にいく。上が枯れるで。  いまは、鹿が食べてしまってないらしい。  おかまのなかでたいて、冷やかして。雪がふると、束ねて、雪の上にさらすと白くなる。首縄をあんだ。ビニールの縄はないで。  こしびくっていうのを編んだ。縄ないで。  昔は縄は縄とかなきりでやっていた。  禰宜さんが当たるとね、なきりがいるんやわ。ちまきつくるのに。5月の節句。笹をくくるのになきりを使ったよ。村中配ったり。お供えしたのを5本ずつからげて。よう、つくる人は何百とつくる。嫁に行ったことも。100も200も。  
 国見峠周辺の仏像 週末、絵でも見に行かないかと誘うと、絵なんてわからないから行かないし、興味がないと断られた。 「ええ、だって、この間、仏像をみたときあんなに感動してたじゃない。」 「あれ、すごかったよね」 そんな人たちが感動した仏像が国見峠の下にある。そんな話を。 それは、川沿いに突如あらわれた仏像だった。その仏像は古老がずっと、行きたいといっていた仏像。この目で見たいが、山の中である。 私は道を知っていたが、古老はそうではないのではと言う。古老にはお考えがある。そこまで、自分も自信がない。川沿いにあることはわかっている。崖を急降下した。古老と女性を残して。そして、川沿いを下ると、木陰のなかに突然あらわれた。あったぞー。山師匠の声が響いた。 杉の葉は落ちているが、酒の瓶とかは落ちていて、お参りもあることがわかる。仏像の周囲を掃除。その間に、山の師匠が古老を迎えにいってくれた。待つこと30分で、古老が鈴を杖をつきながらやってきた。般若心経を唱える、古老のすっきりしたお顔。手をあわせる正しい姿勢。おもわず頭をたれた。 仏像に花をそなえた。この仏像がすばらしいのは、大きさである。この山の中にある畏怖の対象にほどよい大きさ。村の人が国見峠をこえて、買い物をいくときに、見たに違いないし、花を供えた人もいただろう。 昔話の思いが像のイメージを強くする。 「その道の下に田んぼがあっただろう。そのころでも、田んぼつくっとったんだ。その前の坂を鍋割という。仏様におそなえをもっていこうとしたら、鍋がわれた。それほど坂が急だっていうことだ。」  つい50年ぐらいまえには人の営みがあったのだ。この下には親知らず子知らずという滝がある。 錫杖や、仏像の模様を見る。模様を衣だと言うが、わたしはあばら骨だと思っている。あばら骨なら、修行僧だろう。 少し下り寝仏を見る。美束のお地蔵様と同じ石だという人がいる。 その周囲に槐の木があった。 昔、美束には槐の木の研究をしていた人がいたと聞いたことを思い出した。槐の木は大陸の木だから、槐の木はナウマンゾウの落とし物。大陸とつながっていた時の証拠なのだ。そんなことを聞いたことがある。