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 言葉の展示 本年は個展は1度だけ、岐阜のpandさんで 言葉の個展をしました。 pand さん、この場を借りて感謝申し上げます。 テキストが多すぎるという批判もあれば、テキストと画像が往復できるのがよいとの評価もあり、自分は後者でありたいし、テキストが画像は一致しては、自分の作品ではなくなってしまう。 それでも、やはり、テキストと画像の関係性については、ちょっと考えが足りなかった。 来年は、映像を1本だけ。映像のなかに、テキストを入れていきたいと考えています。 テキストだけの展示、画像を数点で行きたいと考えています。 もう、1年が終わってしまいます。
 秋休みが済んでから炭焼きにいくようなものは 話者 美束出身 古老 秋休みが済んでから雪降りだしてから、欲かいて、炭焼きにいっているものは助けにいかんでもいいという掟があった。 それでも、炭焼きに行く人がいて、雪に埋もれた人があったので、助けに行った。 総寄かけて、親父が急遽、大きなかんじきを竹でつくって。 秋休みがすんでからは、近いところを焼く。30、40俵出る小さな窯で焼いて、冬を過ごした。 朝、早く起きて、暗いうちから木を切っていた。カンカンと音がすると、まだ、おるらしいと思われるのはいやなので、鋸で切った。 お盆のときは、もうひとかまあげようと、した。 お盆前になって吹谷に登ると100ぐらいの窯があった。
なぜ炭焼きを始めたか 話者 新川茂至 さん なたーしゃ、ふじみさんとしげさんの家でフィールドワーク   庭師で、伐った木がもったいないで、それを活用したいということで。 木をほかるところもない。森林組合にもっていくと、銭、払わなならん。 伐った木を炭に焼いたらどうだろうということで、窯をつくったらどうだろう。 窯をつくりだしたら原木がない。山を分けてもらって、いまは、3カ所め。 山は頼んで分けてもらう。 炭焼きにする木は、一番良いのはカシ。 ここら付近はカシはすくない。ここら付近はスカヤマといって、砂が多い。 次はナラの木、ホウソウともいう。熊とかシシの餌だわな。 ナラでも種類があるでね、オオナラ、コナラ。粒を見るとわかる。 今年は月に3はい焼いた。30俵焼いた。 魚を焼くところや、バンガローも買ってくれる。 刃物の焼きを入れるのに、松の木とか、栗といった火力の少ない、クズ炭、そういうものがほしいと県庁から電話がかかってきた。   ほおの木を焼くとふかふかみたいな炭になる。それが結構ある。   固い炭でも、柔らかい炭でも使い用。   火力が強いと、刃物をあかみすぎる。だから、火力が弱い炭ではないと、ということ。 鍛冶屋は松の木の炭をつかった。   A gardener, concerned about the waste of felled trees, wants to make good use of them. There is nowhere to dispose of the wood. If taken to the forestry association, a fee must be paid. The idea is to make charcoal from the felled wood by building a kiln. Once the kiln is built, there is a shortage of raw logs. Currently, we have access to three locations, having requested permission to use the mountains.  The best wood for charcoal making is oak, known as "k
  炭焼き 話者 春日で残る生産者 新川 茂至 さん 昔は、山のあらゆるところで炭を焼いた。100万俵なんて校歌にある。それはおおげさだが、炭窯の煙が美束のあらゆるところで上っていた。 In the past, charcoal was burned in various places in the mountains. The school song even mentions a million bags of charcoal. While that may be an exaggeration, the smoke from charcoal kilns used to rise throughout the area of Bibukambe 4月、雪が融4月けると山に入る。秋は12月、雪が降っていけんようになるまで行った。炭焼きはおじいさんに教わった。春日では、山がない人は、根尾や京都の丹波まで炭焼きに言ったという。新川さんは、竹屋谷や小白谷で炭を焼いた。1俵が12キロだった。300キロは出た。 In April, we would enter the mountains once the snow melted. Autumn activities continued until December when it became difficult to navigate due to snow. I learned charcoal burning from my grandfather. In Kasuga, those without mountains went to places like Neno or Tamba in Kyoto for charcoal burning. Mr. Shinkawa, for example, burned charcoal in Takeyadani and Kobiradani. One bag of charcoal weighed 12 kilograms, and we would produce around 300 kilograms. その土地にあわせた窯をつくる。石がない場合は、歪んだ木で炭もならないような、例えば栗の木を伐ってドイにした。石垣の代わりだ。細かい石がないと、木を割って板がわ
熊を追う 藤原正身さん  名前はポチ。おっかあが柴犬。馬喰やってた尾西の人いちすけさんが、秋田へ牛を買いに行って秋田犬の子をもらってきたのでかけてもらった。 ポチは赤ん坊の時から変わっておったわ。足は長い。これは、大きいなるわと。 猟期になって、おっかも5つになるまで、山鳥と狸はようやった。鹿もぼうのは追った。 で、おっかと、ちんころを連れて熊を探しに行った。ちんころが足元でううううううう。おっかあは、上の方でよく熊の入る穴。足元におった、ちんころが、ふっと下の方に行き、鳴きかけた。雪をかっかっかと掘って鳴くんじゃ。 雪の中から匂いがしたんじゃな。上にいた親がどっと走った。犬どおしやで何かおるという。二人で掘りかけた。熊がおるやわと。棒で雪を掘って、そしたら、中におって。穴が深くて、撃った。おっかあとちんころ二匹で谷にすべっていた。熊は谷からよう上がらんで。そしたら、ちっとおもちゃにせなならんなと見とったら、おっかあと二人でくわえたり、離いたりしておった。それでかんかんに覚えてまった。 ぽちは熊は三千メーターぐらいのところでも知っておった。わしは、あきれてまった。 鼻をこう振って。風が吹くと匂いがする。何か風がくるなと、すると、だあだあだあだあと洞をずっと上がっていく、風が具合ようくると上がっていって、風がそれると、匂いが来ないようになる。すると、匂いがないので、あちこち歩いて、匂いのするところ、探しとるわ。飛び上がったりして。 あんなことをやるのはまず熊じゃで。犬の行く跡をくっついて。そしたら、風がふうと。 鳴きかけた。行ったら、大きな岩の下に、冬でも花あるげな青い枝が大きな岩の下に、でんとあった。これは熊がおるわ。寝床をつくろうとしたが、あんまり青いでつくらなんだなと。 そしたら、犬はもうすぐ横の方へ行って鳴きかけた。こんどはおる鳴き方だ。いったら、だんこうがあって、下は甕やで。だんこうしかないんや。これは上から行くしかないな、と上から行って。犬をぼって、頭出したら、頭撃とうと。なかなか頭を出さんじゃ。 しゃあないで、犬のうしろにちょっとしただんこうがあり、そこへ飛び降りた。そしたら、目の前に頭。ちょっと火をつけて撃ったら、終わりや。頭一発。 熊は頭撃ってないと安いの。商人は、胆のうがほとんどやで。弾の傷があるとあかんで、傷がある弾のあとの血をぬぐってみるわ。に
 ドロマイト鉱山の煙 話者 新川 茂至さん  白っこの下に、ドロマイト掘ってた穴があるでしょ。空気穴といって横に空気が入るところをつくってあった。 秋、空気が冷えてくると、中からぬくとい空気が出てくるでしょう。すると、冷えた空気とあれしてまって、釜のけむりみたいにどおっと上がるところがあったよ。道路から見えた。秋になると、どおっと上がった。 最近はないで、埋めたのか、崩れたのか。 あの穴はハチの巣みたいに、もぐれる穴だけ残して、何階にもなってるって話だけど。みんな、仕事に行ってござったでね。
安土の発電所 新川定琴さん  安土に自家発電所があった。中郷にも市瀬にもあるが、足土は残っている。山城に行く途中に。水路もある。 ごへんさんの父親に聞いたところだが、建設の際は反対もあった。夜は寝るので、灯りは必要ない。 小屋はおごと橋のところに。兄に連れてきてもらった、戦争に行く前だから、兄が16、7の時、ハンドルを回して、水を流すために。その瞬間、ぽわーっと灯りがともったのを覚えている。配電盤があった。    寺で歌舞伎が来た時は、村中で電気を止めろといった。灯りが使えなくなるから。家に電気料金を集金した時の帳簿もあった。掃除をする人もいた。結構な水量になる。
国見峠 藤原正身さん  国見峠の山にある石も川石なんだ。山の石が割れて、かどかどの石ではない。水で擦れてまるうなった石が多い。   春日の土地でも、美束は、昔は、春日の人間じゃないと思う。おそらく、久瀬の方から、尾西の方は人間がすみついた。尾西は滋賀県の方から国見峠を降りていくと、人間のおった屋敷がある。平がある。 国見峠を結構降りたところ。お地蔵さん、うつむいて、けつを撫でると産がつく、そこに鍋割という坂もある。そこに部落があった。平になってる。地蔵さんにそなえに行くのに、鍋でさげていったら、道が悪くて転んだりして鍋が割れたで、鍋わり。お地蔵さんより下に集落があった。何軒もじゃない。 それより下へ降りていくと、滋賀県から道路がついている。あの下は悪いと言ったら。熊を追っていくと、あそこへいくとあきらめた。犬も使えんような滝ばっか。ちょっと上を道路がきてる。親知らずという所。あんまり場が悪いで。そこの上に、平がある。    谷があると平がある   急な谷があるということは、どこぞにまるところもあるということ。倉の谷も滝が八つかそこらある。奥行くとまるいとこじゃ。  急になるで、自然と平ができる。
  セタの上 美束 女性 私が小さいで、父さんが山にいくやろ、山に行くとき、 坂道に私を負んでね。山へ行くんやて。荷物の上に、セタに背負って、あがっていく。 セタの上でお父さんの息が聞こえて、 お父さんえらいで、私、降りようかしら。 私降りようかしらと思った。 あれは、3歳ぐらい。 お父さん、あんまり、えらいで降りようかしらと思った。 言わなかった。まだ、草履もはいとらんで。 よう忘れん。
 鉱山について 話者 清尾さん 2023 7 6 北伊吹鉱山に。 線をひいて、おろすところをつくって、中郷にお墓が立っているけど、そこに水車をつくって、長石を粉にする機械があった。臼がまわって、石がごんごろごんごろまわって、ちゃわんにぬる材料。ようけいでないもんでやめてまって。 東谷をのぼって、熊坂から、大平というところがある。起点は大平という、くさわら、いまは木が生えていると思うが、そこに事務所をつくって、そこから山へ弁当持って、通ったりしたんじゃ。 八畳岩、戸棚岩、八滝。全部調査しとるで、あそこらにも脈あって、掘ったりなんかした。あの谷と竹屋谷。 大岩谷に三十トンぐらいの岩があってね、それに、こんな荷をおろす線を生木やらに巻いて、そいつを基礎に下へ引いておりたった。 線は下へ落ちてはおったけれど、まんだいまでもあると思う。川に大きな大きな岩があるじゃ。そいつに、二重か三重に巻いて、とめる。 その当時は竹屋谷の入り口が終点だった。そこまでは、炭を焼いてもセタで持ってきた。そこからは車で出たけどね、その当時は炭屋さんしか車がない時。そこまではオンで、大八でする時代じゃったで。 大岩谷の山の名前は射能山。 その山のふもとまではいかんが、降りてきて、ちょろちょろ流れるところだった。 長石とかあるのは、石がまじって、厚みがあるが、その下は壁だった。掘り下げると壁があるというのが想定じゃったが、なかった。そんで、脈がどういうようにとっているという調査をするとい行っただけじゃでね。初めの7カ月行っただけじゃ。 鉱脈というのは走るじゃ、山へ下りようが登ろうが、まっすぐ行くじゃ。ほんで、掘ってみてあると、ここもあった、ここも出ると。 山超え、谷超えて、脈を探して歩いた。 深いところは、3メーター、4メータって穴掘って。泥上げてみてね。 筋だけはあるんじゃどこでも。本当に、雲つかむような話じゃけど。 鉱山師もおったけど、雲母はかなり含んどるって。 ウランは量産できる量ではないが、入っておると。ウラン花崗岩のなかに入っとるじゃ。 350円もらっただけじゃが、盆から秋までの予算が70何万だったと。千円札をリュックに入れて負わされた記憶がある。ピカピカの銭を。見るだけでも目の保養になった。 田植えを住んでから11月まで雪が降るで、しまって。そのあくる年から線、張った。 美束の人が行ったが
 釣鐘の出征 話者 中瀬出身 古老 昭和19年の6月 頃。長光寺の鐘も出陣用意のため、赤たすきをかけて。 釣鐘をおろして赤襷をかけて。寺本の六社神社に集まったのを見ている。 その時分は細い細い道を皆さんが、つきおろしていったんやでね。 日坂林道まで降りてくると、荷車に乗せたじゃろうと思う。 寺本の六社神社に5カ寺の鐘が並んでいたのをわしは知ってるわけなんじゃが、赤襷をかけて。 鐘道は鐘でバランスをとっているで、鐘の替わりに大きな石をぶらさげてあったが、 バランスをとるあめに、どこのお寺さんでも。 これを知っているのはわしだけじゃ。 噂では四日市の鋳物工場にあった。門徒の誰かが見に行ったがよう探さなんだ、と。 中瀬は門徒が足りないで、ほうがんした。 市場まで鐘を迎えに行った。わしのおじいさんがすぎいちと言う人やが、ワイヤで吊り下げた。
 赤泥こんば(型ということ)              話者 中瀬出身 古老   窯をつくるのに必要な赤泥がないことがある。赤泥は一か所にないから。 赤泥がでるところを赤泥こんばと言う。炭焼きの窯をつくるときに、赤泥がないと、隣の山などに、借りに行く。 借りに行く時は、厳格なもので、羽織はかまに裃で、弓張提灯をつけていく。 「あそこで炭を焼くが、お前さんの山を掘らしてもらっていいじゃろか」と許しを得て、言葉をちゃんとかけた。頼みごとをちゃんとする。 夕飯がすんだ時分に頼みに行く。「どうしてもあかん、頼む」と。 若僧がいってもたわけにされるだけ。 型があって、厳格さがあって、秩序が保たれていた。 2023 12月
山の境  中山 宮内 勇之 さん 山の境はどこから、どこまでというのはわかる。 境はいまでもわかる。地形みてわかるね。 まあわしらの代がすんだら、終わり。 境を覚えておくのが大事。
春日村史 より 話者   美束 山口保氏 品又 大平は、美束集落の奥にあたり、品又は峠を越えて坂内へ、大平に向かう峠のいくつかは、滋賀県に通じている。 現在は、通う人が少ないが、かつては、炭焼やその前は焼き畑の通った道であり、焼畑としては、むつしという地名を持つ。 大平周辺は明治になって美束寺本となった。滋賀県側と、裁判で勝ち取った経緯がある。勝てた理由は境の考えで、県境は水の流れに沿って分けるが、大平周辺は境から水が下に流れていくので滋賀県のものではないと主張して、美束のものとなった。 それに尽力してくれたのが日坂の高橋氏で、六社神社に高位神社として祀っている。六社神社に烏帽子をつけた神様として祀ってあるが、実際の人物である。寺本の80戸で1戸あたり、2町4反の面積となった。山としての財産なので、現在の価値は嘆くものである。  品又は、鷹巣谷 貝月山に。鷹巣谷の50メートル上まで林道がある。左の谷によへん谷。よへん谷から竹屋谷の上に出てくる。途中に有名なもちの木がある。一本だけ。それを目当てに大平へ行く。よへん谷は林道の終点から。その上にかべ矢谷。かべや谷辺りに東平 西平 さぶや平。影なので寒いから登り谷。 かべや谷に炭焼きに行っていた山口 保さんのお話。  かべや谷に炭焼きに行ってた時、ウサギの踊りを見たことがある。小屋にいて、飯食ってたとき、何かが来たと思ったら、後ろ足でピョンピョン、ピョンピョン、前足上げて踊りだした一匹、雨の中。  かべや谷では、熊もしょっちゅう。子連れにぶつかったこともある。荷物を置いて3メートルから4メートルの下の顔で顔を洗っていたら、俺の荷物で熊がヒョン。こりゃ、どうしようと思ったら、親がけっこう登っていた。うり洞で。子が親のあとをついていって、ぐらいいってから、親が初めて、ウオーッとよばった。そこに行くまでは呼ばらなんだ。あくる日、炭を焼いているところから見たら、横をトコトコ、トコトコ、歩いていた。    また、炭を焼いているとき、川の中に木を落としているものがいる。誰じゃい、魚釣りかいと見に行ったら、熊じゃ。  ウサギはね、キツネに追われたって、下へは降りてこん。後ろ足が長いで捕まってしまう。ウサギは山の上に登っていくの。    樋渡瀬は粕川支
 しなのき  新川定琴さん しなのきは珍しい。めったにない。それでも長者にはしなの木谷という山がある。そこへ、しなはぎに行くということを言ったでな。その山に、まっすぐなしなの木がようけあるんかな。それをはいできて、皮だけもってくるんやな。そんで、皮をはいでおいねてきて、それを水にふやけて、くさらかす。よどみにふやかす。皮の部分だけ。すると中皮が、しなの部分がきれいにとれる。皮をとってもってくる。その皮のなかでも、中だけ。しなとして使う。
 茅はカニ歩きで持ってくる 新川さん   炭俵は、おふくろがあんでいたし、束にして、秋ほかんして、冬もってきて編んだんだわな。時分の茅刈場が決まっていたでな。  茅刈場はおはら。何人かで分けてあった。それぞに分けてあった持ち分を刈にいった。山で干して。乾くとおいねてき、冬使った。  おはらは大吹から川沿いに行く。沢をわたったりしながらいくと平な場所がある。そこから茅をおねてくる。茅は長い。横にしているので、沢をカニ歩きで降りてくる。こやんたににも茅場があった。  おはらは大八で大吹まで行く。そこから歩く。  こやんたににも茅場があった。長者まで大八で行く、そこからこやんたにまでは歩く。
 山もちにおさめる 美束   安土の正面谷で焼いておったでな。学校から帰るとね。弟や妹を負いにいった。親は炭を負んでこなならんやろ。私らは、子どもを迎えに行った。  山、持ってる人もあるけど、そうない。山もちの人から買ってな。春、炭を焼くやろ、大体、初めに売った炭は山主におさめなならん。今度、炭焼くまでお金ないで大変やった。お金ないでな。春、窯うって、焼いてというとお盆になった。その間、何にもお金なし。どうして親が食べさせてくれたのか。炭を売るところの人にお金を借りて、前借して、生活していた。だから、お盆ごろに炭が出来ても何にももらえん。安土は二軒、山もちがいた。市瀬はおてんのうの近くで焼いたし、丸山の置くの赤崩れにも焼きにいった。正面谷で焼いたときは、家に持ってきた。安土の人は、集会所に小屋たてて。
 かやが無かった 新川 茂至 さん  縄の長さは六尺。つつらこは重み。それで編んだものをしめる。そういう意味がある。そんな時分は冬仕事。俵を編む、かやを雪降る前に刈って、干して、それをとりこみ、それが冬仕事。雪が降ったとき何もできんもんで、そういうような仕事。俵を編むのは冬仕事。ある程度は編んで、炭焼かん人でも、仕事がないので、かやを刈って、家で編む。誰かが買ってくれるじゃろうと思った。うちのおじいさんが買いに歩いてる。ちょこっと親しいところとか、親戚関係とか行って。おい、俵ないのかや。あるぞよ。とにかく、分けてくれや。そうして買ってきては。それで、おっつかんと、業者が下へもっていって売るやろ。それを今度、もらってくる。それが、なかのものだけ出してあるもんで、もさもさ。それをとってきて、なおひて、また、それを使う。上手にやれば2回ぐらい使える。どうしても、新品みたいなことはないけどな。だいぶ使ったよ。
 竹屋谷の炭焼き 新川 茂至 さん  竹屋谷というのは、道路の終点に滝がある。あそこの上で焼いておった。途中で道があって、熊坂へ出てきた。熊坂へ越してきて、皆がだしごやをつくった。竹屋谷で中学に上がった年までは焼いていた。  皆、行っていた。うちのおじいさんがおって、その奥に、婿がおって、その上にえいじろうさん、その奥にさだのぶか。別れたところに、二人ばかりあった。いろんなところからきていた。うちのおじいさんは、それからあっちもこっちも炭焼き。  竹屋谷というのは揖斐川の本流の始まりやでな。あそこは一番深いで。木がいこうなれんもんで、木が難儀していこうなってるから固いの。焼いた炭も固い。ええ炭なの。深山っていうんだけど、俵でも、小さい。炭がしまって、目方が来てるので、日持ちがいい。第八に炭を積んだことはある。伊勢湾台風で、道も橋もあらへん。炭焼きをしていると、炭を出さんことには銭にならん。その時に炭を出さんことには生活できない。
俵編 新川 さん  俵を編むのは細い縄で。縄編みの機械へ入れて、細い縄を編んでおく。それを水につけて、それから今度は、石積みに木でくいをうってかけて干す。  干した縄を、釘をまず1本、つぎに日本うち、こんころこんころ、ほどいた縄を巻くの。巻いてそのあいさへ包丁を入れて切る。  5本(4本)をひとからげにして、今度はつつらこの穴に通してくくる。こもげたにおもしをかけておるわけだ。  かやをこもげたに渡して、一つとびにやる。へしったら、かやをたす。かやは太いなら1本。その繰り返し。   先っぽにひげができているので、はさみで切る。  俵は3枚に折る。  はじをくくり、それをたてて、それに、ねっそといって、細かいのを切ってきる。  ねっそというのは柔らかい木。ねっそをくるくると。ねっそは底は二つつかう。白ねっそとか、くろもじとかで、形をつくり、ロープを十文字にかけ、シバを入れてふたをする。それを立たらかして、炭を入れる。炭がいっぱになる。シバが細かいのを入れて、ねっそは曲がりやすい木を使う。ぺしょっと折れるのはいかん。曲がりやすい柔らかい木を使って。  俵の真ん中には、必ず、芯縄というのが入っている。おしりから真ん中に入っている。それが上に出て、しおりといしばり方でしばる。しおりを2つつくり、その真ん中にまきふをはさむ。検査員が炭の検査にくるので、検査が通ると札をくれる。三番炭とか二番炭とかある。ええ炭は緑じゃったか、色は忘れてきてるけれど、一番赤いのはあかんやつだったけか、まきふというのをつける。それが1俵。  四角いのはどうするかというと、長い炭。30センチぐらいに切って四角する。自分で枠をつくる。下になるところに杭をうつ。俵を広げて枠にいれると切った炭を並べると角炭。3寸というと30センチ。  四角い炭と丸い炭がある。丸い炭というのは品種が落ちる。切れ炭は2寸。  天秤の秤を山にセットしてあるので、目方を図らなければならない。水平になったら、ええぞと。足らな上がらなんで、足らんぞというと刺したらなあかん。12貫ばかり。  かやは個人の茅場。個人のかやばで足らん人は、頼んでよそからもらう。そんな時分は、屋根がかやなの。かやは大事やった。炭俵もかやで編んだ。部落によって、かや場は総かやば、部落中のみんなの茅場ですよというのがあった。それもない所がある。総茅場をもっている
 禰宜さんが必要なので取に行った                       古屋 藤田芳子さん  なきりでは、昔は柿をとるのにつくったり、セタの首縄をつくったり、ビクを編んだ。 8月から9月にいく。上が枯れるで。  いまは、鹿が食べてしまってないらしい。  おかまのなかでたいて、冷やかして。雪がふると、束ねて、雪の上にさらすと白くなる。首縄をあんだ。ビニールの縄はないで。  こしびくっていうのを編んだ。縄ないで。  昔は縄は縄とかなきりでやっていた。  禰宜さんが当たるとね、なきりがいるんやわ。ちまきつくるのに。5月の節句。笹をくくるのになきりを使ったよ。村中配ったり。お供えしたのを5本ずつからげて。よう、つくる人は何百とつくる。嫁に行ったことも。100も200も。  
 国見峠周辺の仏像 週末、絵でも見に行かないかと誘うと、絵なんてわからないから行かないし、興味がないと断られた。 「ええ、だって、この間、仏像をみたときあんなに感動してたじゃない。」 「あれ、すごかったよね」 そんな人たちが感動した仏像が国見峠の下にある。そんな話を。 それは、川沿いに突如あらわれた仏像だった。その仏像は古老がずっと、行きたいといっていた仏像。この目で見たいが、山の中である。 私は道を知っていたが、古老はそうではないのではと言う。古老にはお考えがある。そこまで、自分も自信がない。川沿いにあることはわかっている。崖を急降下した。古老と女性を残して。そして、川沿いを下ると、木陰のなかに突然あらわれた。あったぞー。山師匠の声が響いた。 杉の葉は落ちているが、酒の瓶とかは落ちていて、お参りもあることがわかる。仏像の周囲を掃除。その間に、山の師匠が古老を迎えにいってくれた。待つこと30分で、古老が鈴を杖をつきながらやってきた。般若心経を唱える、古老のすっきりしたお顔。手をあわせる正しい姿勢。おもわず頭をたれた。 仏像に花をそなえた。この仏像がすばらしいのは、大きさである。この山の中にある畏怖の対象にほどよい大きさ。村の人が国見峠をこえて、買い物をいくときに、見たに違いないし、花を供えた人もいただろう。 昔話の思いが像のイメージを強くする。 「その道の下に田んぼがあっただろう。そのころでも、田んぼつくっとったんだ。その前の坂を鍋割という。仏様におそなえをもっていこうとしたら、鍋がわれた。それほど坂が急だっていうことだ。」  つい50年ぐらいまえには人の営みがあったのだ。この下には親知らず子知らずという滝がある。 錫杖や、仏像の模様を見る。模様を衣だと言うが、わたしはあばら骨だと思っている。あばら骨なら、修行僧だろう。 少し下り寝仏を見る。美束のお地蔵様と同じ石だという人がいる。 その周囲に槐の木があった。 昔、美束には槐の木の研究をしていた人がいたと聞いたことを思い出した。槐の木は大陸の木だから、槐の木はナウマンゾウの落とし物。大陸とつながっていた時の証拠なのだ。そんなことを聞いたことがある。