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セタの上 美束 女性


私が小さいで、父さんが山にいくやろ、山に行くとき、

坂道に私を負んでね。山へ行くんやて。荷物の上に、セタに背負って、あがっていく。


セタの上でお父さんの息が聞こえて、

お父さんえらいで、私、降りようかしら。

私降りようかしらと思った。


あれは、3歳ぐらい。

お父さん、あんまり、えらいで降りようかしらと思った。

言わなかった。まだ、草履もはいとらんで。

よう忘れん。


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