まんじろうさんが岩に穴をあけようとした話 話者 山口さん夫妻
岩に穴をあけて、自分の畑に水を通そうとした人がいた。岩はみたらし渕と言う六社神社のところにある。昭和23年ごろの話。
水田が無かったまんじろうさんは岩に穴をあけることで、畑に水を通したかったのだ。
水田にして米をつくるのだという、まんじろうさんが岩に穴を開けている姿を見たのが子供のころの山口さん夫妻である。
「カンテラを照らしてな、水盛をしていた。」
手伝っている人が一人いたことはある。水路は完成しなかった。
それほど、米がなかった。食べ物がないときは、リョウブの葉を茹でて乾かしたものを食べた。りょうぶ飯である。りょうぶ飯は黒かった。
貧しい食べ物ことについては、駒月作弘さんが記録している「美束の民謡」でも歌われる。
「美束の民謡には生涯無い(しょうがいな)という民謡がある。胡麻柄、えがらが最も古くから唄われ先人達が焼畑を作り、稗・粟・胡麻・えを採り主食としていた頃の哀歌である。
其の一節
しょうがいないしょうがいないと言うたことないが
今年しゃしょうがいないのあたり年しょうがいな(世の中が豊作をよろこんだ歌)
其の二節
胡麻柄えがら三ばからげて四わ炊いた、
三ばからげて四わ炊いた
(年暮れ近く寒くなってからの焼き畑仕事の哀歌と思われる)
その後、よそやま(村外の山)へ出稼ぎに行くようになり(大方は炭焼き)、根尾・方面からほっそれ民謡が入り、そして嗚呼盆はなあヨイショ盆は嬉しや別れた人も 晴れてこの世に会いに来る。この歌は、発心寺・善照師匠が京都東本願寺へご奉公お勤めに行かれた時お習いになり、お盆にみんなで盛んに踊ったようである。
それから、年月たち昭和初期教如上人洞窟の発掘教如堂の建立等当時尊重の駒月巌が主体となり美束の有識者が名を連ね広く教如上人を宣伝し小冊子を発刊、全村に配布されたので70年程度を経過して居れど、どこかにお持ちの方があるはずです。
もともと美束は国見峠を越して、江州との交流が盛んであり、その頃すべての文化等も京都・長浜・長岡・そして美束へと経路が考えられるなか、その教如上人を讃える歌や滋賀県小津原にあり美束寺本の民謡や踊りの好きな人達が教如上人の宣伝に加勢したというか、煽られたというか(駒月巌の出版の記事には少しも出ていない)自発的に小津原に教えを請い顕教踊りを始めたと古老から聞きおり、その主催者は新川重一氏、新川重明氏の名があげられる。その後、種本、中瀬も神社で顕教踊りが始められ、その中心となったのは駒月興助、坂東武弘氏と思われる(寺本と奥川とは唄の節に相違あり)。
その頃の美束の少女は6年の義務教育を終えると野麦峠の哀話のように紡績工場へ食い減らしと言うて就職するのが常識のように考えられており紡績工場で盆踊りを習ってきた少女たちが新しく郡上節、高山音頭も入ってきたのである。(その女性は清王千恵子氏、駒月文子氏)神社のお庭に花輪を下げ、音頭とる人は花輪の真ん中で蛇の目の傘をさして若い男女2人で踊っていた姿が夢のような記憶に残っている。それは著者70年前のこととなった。
昭和12年品事変勃発。続いて第二次大戦となり青年たちは戦場へ出征。盆踊りは中止され敗戦後昭和21年、食料不足に苦しむなか、すこしばかりの憩いにと盆踊りを再開。その年の踊りは、ショウガイナ、嗚呼盆わな、高山音頭、郡上節。翌年からは拡声器を揖斐町の大野ラジオ店から借りて流行りの炭坑節、その翌年はトンコ節とだんだんとテンポの速い流行ものを追うようになり、昭和初期まで流行った。
昔の唄踊りは過去の語り草として此処に書き留める。
平成20年10月23日 駒月作弘 77歳 」
わずか、70年前。この国には岩をえぐらなければならないほど、食べ物がなかった。
しょうがいな(生涯無い) 踊りも記憶にある。
補足
駒月氏からしょうがいな(生涯無い) 踊りについて教わり、柳田國男の清光館哀史を思い出した。「雪国の春」に収録されている柳田1920年、1926年と、三陸海岸の漁村、小子内を訪れた時の記録である。
「おとうさん。今まで旅行のうちで、一番わるかった宿屋はどこ。そうさな。別に悪いというわけでもないが、九戸の小子内の清光館などは、かなり小さくて黒かったね。」から始まる記録は教科書にも載っている有名なものだ。
1926年、鮫の港に軍艦が入ってきて混雑し泊まるのがいやになった柳田は、6年前にとまった清光館を訪ねてみようとする。「6年前の旧暦盆の月夜に、大きな波の音を聞きながら、この寂しい村の盆踊りを見ていた時は、またいつくることかと思うようであった」からである。
しかし、宿はない。「盆の十五日で精霊様のござる晩だ。活きた御客などは誰だつて泊めたくない。定めし家の者ばかりでごろりとして居たかつたらうのに、それでも黙つて庭へ飛び下りて、先づ亭主が雑巾がけを始めてくれた。」その主人は漁に出て帰らなかった。清光館は「没落」したのである。
あの夜、貧しい清光館の思い出は、盆踊りとともにある。単調な歌詞を聞きまわったが、だれも取り合わなかったので、今回は、採録しようと聞いて廻る。6年後の村は、軍港の賑わいとともに、すれているようにも思える。今回も、やはり、反応は悪い。
「あの歌は何といふのだらう。何遍聴いて居ても私にはどうしても分らなかつたと、半分独り言のやうに謂つて、海の方を向いて少し待つて居ると、ふんと謂つたゞけで其問には答へずにやがて年がさの一人が鼻唄のやうにして、次のやうな文句を歌つてくれた。
なにヤとやれ
なにヤとなされのう
あゝやつぱり私の想像して居た如く、古くから伝はつて居るあの歌を、此浜でも盆の月夜になる毎に、歌ひつゝ踊つて居たのであつた。」
歌は「要するに何なりともせよかし、何うなりとなさるがよいと、男に向つて呼びかけた恋の歌である。」が、「忘れても忘れきれない常の日のさまざまの実験、遣瀬無い生存の痛苦、どんなに働いてもなほ迫つて来る災厄、如何に愛しても忽ち催す別離、斯ういふ数限りも無い明朝の不安があればこそ はアどしよそいな あア何でもせい と歌つて見ても、依然として踊の歌の調は悲しいのであつた。」と続く。
生涯無いの踊りも似たような意味があるのだろうか。「痛みがあればこそバルサムは世に存在する。」
と柳田は結ぶ。駒月氏の採録にある、「花輪の真ん中で蛇の目の傘をさして若い男女2人が踊っていた姿が夢のような記憶に残っている」との70年前の記録に、バルサムの記憶を見るのである。
岩に穴をあけて、自分の畑に水を通そうとした人がいた。岩はみたらし渕と言う六社神社のところにある。昭和23年ごろの話。
水田が無かったまんじろうさんは岩に穴をあけることで、畑に水を通したかったのだ。
水田にして米をつくるのだという、まんじろうさんが岩に穴を開けている姿を見たのが子供のころの山口さん夫妻である。
「カンテラを照らしてな、水盛をしていた。」
手伝っている人が一人いたことはある。水路は完成しなかった。
それほど、米がなかった。食べ物がないときは、リョウブの葉を茹でて乾かしたものを食べた。りょうぶ飯である。りょうぶ飯は黒かった。
貧しい食べ物ことについては、駒月作弘さんが記録している「美束の民謡」でも歌われる。
「美束の民謡には生涯無い(しょうがいな)という民謡がある。胡麻柄、えがらが最も古くから唄われ先人達が焼畑を作り、稗・粟・胡麻・えを採り主食としていた頃の哀歌である。
其の一節
しょうがいないしょうがいないと言うたことないが
今年しゃしょうがいないのあたり年しょうがいな(世の中が豊作をよろこんだ歌)
其の二節
胡麻柄えがら三ばからげて四わ炊いた、
三ばからげて四わ炊いた
(年暮れ近く寒くなってからの焼き畑仕事の哀歌と思われる)
その後、よそやま(村外の山)へ出稼ぎに行くようになり(大方は炭焼き)、根尾・方面からほっそれ民謡が入り、そして嗚呼盆はなあヨイショ盆は嬉しや別れた人も 晴れてこの世に会いに来る。この歌は、発心寺・善照師匠が京都東本願寺へご奉公お勤めに行かれた時お習いになり、お盆にみんなで盛んに踊ったようである。
それから、年月たち昭和初期教如上人洞窟の発掘教如堂の建立等当時尊重の駒月巌が主体となり美束の有識者が名を連ね広く教如上人を宣伝し小冊子を発刊、全村に配布されたので70年程度を経過して居れど、どこかにお持ちの方があるはずです。
もともと美束は国見峠を越して、江州との交流が盛んであり、その頃すべての文化等も京都・長浜・長岡・そして美束へと経路が考えられるなか、その教如上人を讃える歌や滋賀県小津原にあり美束寺本の民謡や踊りの好きな人達が教如上人の宣伝に加勢したというか、煽られたというか(駒月巌の出版の記事には少しも出ていない)自発的に小津原に教えを請い顕教踊りを始めたと古老から聞きおり、その主催者は新川重一氏、新川重明氏の名があげられる。その後、種本、中瀬も神社で顕教踊りが始められ、その中心となったのは駒月興助、坂東武弘氏と思われる(寺本と奥川とは唄の節に相違あり)。
その頃の美束の少女は6年の義務教育を終えると野麦峠の哀話のように紡績工場へ食い減らしと言うて就職するのが常識のように考えられており紡績工場で盆踊りを習ってきた少女たちが新しく郡上節、高山音頭も入ってきたのである。(その女性は清王千恵子氏、駒月文子氏)神社のお庭に花輪を下げ、音頭とる人は花輪の真ん中で蛇の目の傘をさして若い男女2人で踊っていた姿が夢のような記憶に残っている。それは著者70年前のこととなった。
昭和12年品事変勃発。続いて第二次大戦となり青年たちは戦場へ出征。盆踊りは中止され敗戦後昭和21年、食料不足に苦しむなか、すこしばかりの憩いにと盆踊りを再開。その年の踊りは、ショウガイナ、嗚呼盆わな、高山音頭、郡上節。翌年からは拡声器を揖斐町の大野ラジオ店から借りて流行りの炭坑節、その翌年はトンコ節とだんだんとテンポの速い流行ものを追うようになり、昭和初期まで流行った。
昔の唄踊りは過去の語り草として此処に書き留める。
平成20年10月23日 駒月作弘 77歳 」
わずか、70年前。この国には岩をえぐらなければならないほど、食べ物がなかった。
しょうがいな(生涯無い) 踊りも記憶にある。
補足
駒月氏からしょうがいな(生涯無い) 踊りについて教わり、柳田國男の清光館哀史を思い出した。「雪国の春」に収録されている柳田1920年、1926年と、三陸海岸の漁村、小子内を訪れた時の記録である。
「おとうさん。今まで旅行のうちで、一番わるかった宿屋はどこ。そうさな。別に悪いというわけでもないが、九戸の小子内の清光館などは、かなり小さくて黒かったね。」から始まる記録は教科書にも載っている有名なものだ。
1926年、鮫の港に軍艦が入ってきて混雑し泊まるのがいやになった柳田は、6年前にとまった清光館を訪ねてみようとする。「6年前の旧暦盆の月夜に、大きな波の音を聞きながら、この寂しい村の盆踊りを見ていた時は、またいつくることかと思うようであった」からである。
しかし、宿はない。「盆の十五日で精霊様のござる晩だ。活きた御客などは誰だつて泊めたくない。定めし家の者ばかりでごろりとして居たかつたらうのに、それでも黙つて庭へ飛び下りて、先づ亭主が雑巾がけを始めてくれた。」その主人は漁に出て帰らなかった。清光館は「没落」したのである。
あの夜、貧しい清光館の思い出は、盆踊りとともにある。単調な歌詞を聞きまわったが、だれも取り合わなかったので、今回は、採録しようと聞いて廻る。6年後の村は、軍港の賑わいとともに、すれているようにも思える。今回も、やはり、反応は悪い。
「あの歌は何といふのだらう。何遍聴いて居ても私にはどうしても分らなかつたと、半分独り言のやうに謂つて、海の方を向いて少し待つて居ると、ふんと謂つたゞけで其問には答へずにやがて年がさの一人が鼻唄のやうにして、次のやうな文句を歌つてくれた。
なにヤとなされのう
あゝやつぱり私の想像して居た如く、古くから伝はつて居るあの歌を、此浜でも盆の月夜になる毎に、歌ひつゝ踊つて居たのであつた。」
歌は「要するに何なりともせよかし、何うなりとなさるがよいと、男に向つて呼びかけた恋の歌である。」が、「忘れても忘れきれない常の日のさまざまの実験、遣瀬無い生存の痛苦、どんなに働いてもなほ迫つて来る災厄、如何に愛しても忽ち催す別離、斯ういふ数限りも無い明朝の不安があればこそ はアどしよそいな あア何でもせい と歌つて見ても、依然として踊の歌の調は悲しいのであつた。」と続く。
生涯無いの踊りも似たような意味があるのだろうか。「痛みがあればこそバルサムは世に存在する。」
と柳田は結ぶ。駒月氏の採録にある、「花輪の真ん中で蛇の目の傘をさして若い男女2人が踊っていた姿が夢のような記憶に残っている」との70年前の記録に、バルサムの記憶を見るのである。