スキップしてメイン コンテンツに移動
春日村美束に西蔵寺というお寺がある。

昭和37年12月に焼けてから(報恩講の時)、再建はされていないが、東本願寺(大谷派)の開祖である教如上人が、関ケ原の戦い前夜、石田光成の追っ手から逃れて同寺に立ち寄った際、村人に贈るための自画像を描いた寺として知られる(春日村の東本願寺系の八つの寺では輪番で5日の上人の命日に、自画像を備えお供えをする五日講がある)。

火災の時、仏様は全部外に出したが、600年前からの古文書は消失した。その古文書を、西蔵寺坊守新川留美子氏が覚えおり、それを書き写したものを美束の駒月作治氏がまとめたものを頂いた。

新川氏は、昭和18年3月30日に四日市高女を卒業し、小学校の教員として勤務。西蔵寺に嫁いだ。

「昭和37年12月報恩講の時火災の為、本堂、お庫裏全焼の時、仏様は全部出したがお庫裏の中二階の古文書が出せなかったのが悔しい。」「昭和37年の火災の時仏様は一体残らず出したが真っ暗な中、ずし、火炎ひどい中で持ち出し出来なったことが悔やまれます」
「今更私がどうこう言っても貧乏寺故、黙っておりますが私が読んだのは昭和25年から昭和30年ころにチョコチョコと暗い中ずしで懐中電灯で、母(姑)、主人英春に遠慮しつつ読んだのです」
と綴っている。

字を書くのは苦手だったので、暗記が得意だったとのことで、「もっともっといろいろ調べたかったが、姑、夫の目を盗んでの事と今になってみればどうしてと思われるし悔しい」とも書いているが、得意な暗記でメモを残している。

以下、抜粋する。

「西蔵寺は、法相宗、天台宗、浄土宗、真宗本願寺、浄土真宗となり、現在に及ぶ。」

  
「鎌倉時代は天台宗で、竹専坊と称し、折本に草庵があったと言われている。
文安二年(1445年)は中郷竹専坊とある。
竹専坊時代の本尊は阿弥陀如来像であり、いまもあります。(立像阿弥陀様である。十五代常如上人の時代に御下賜あり。十二代釈道林院、了心和尚の時代である)

それ以前は自然物の石仏であったが、火災のため、その石仏はわからなくなった。」

「永享時代(当院住職)了正和尚のころ、本願寺7台存如上人に帰依し、天台宗改め、真言宗に回収する。了正和尚は文政二年(1445年)西蔵寺開基了正和尚死亡したとある。」

 

「長禄時代 8代蓮如上人が尾西山を超えて西蔵寺に転派のお礼かたがた立ち寄って下さった由本山に記録あり」

「教如上人、お帰りの時、西蔵寺本堂とお庫裏の間の池に上人のお姿をうつされた。
教如上人はお帰りの時十字名号と御絵像をお残しになれました。

教如上人は草道島よりおいでになりましたので遠路の事、遍光寺様へお寄りになったかもしれませんが、私の古文書拝読記憶は当院へまっすぐ来られ、上人笠脱ぎ場と書いてありました。
慶長5年教如上人が当時へ潜留、転派。寛永十六年「西蔵寺」と改めるという。
その時、教如上人の勧めに帰依し、東本願寺宗と改めた。


教如上人を隠遁申した主だった人 新川兵藤内、寺本三郎 五郎兄弟、駒月左郷衛門
川合八郎作、野原六右衛門

「教如上人自画像の表装願主は西蔵寺住職とあり(慶長11年)、十二代釈道林了心である。」


「美束は二度の大洪水、飢饉のため多量の死者又疫病の為生活苦しく西蔵寺門徒80余戸の三分の一に減り1日に少ない日でも三人、五人、十人、十五人の葬式を出し、住職も疫病のためなくなり、よい時代ではなかった。」

「美束にあった古い寺は
長国寺(1162年、あるいは1162年前) 千疋坊(862年) 祐念坊(市瀬)、西蔵寺、発心時、 窓寺、長光寺、法性寺」 

このほか、「天平時代聖武天皇の時代の前は西蔵寺は法相宗であった、法相宗は天平五年浮岳山深大寺恵亮和尚の時代に法相宗改め天台宗に改宗した由 古文書にあり、無論本尊は阿弥陀如来であった。」との記述もある。


※教如上人とは東本願寺(大谷派)の開祖である。戦国時代に11代顕如上人の長男として誕生し、長島一向一揆石山合戦では織田信長と交戦。自分を追っ手から守ってくれた春日の村人に自画像を送って感謝の意をあらわしたとされる。

※駒月さんによれば千疋坊は尾西にあったお寺さんということ。国見のスキー場にいく、集落のなかではあるのだけど。山の中腹にあってね、大雨か、陸崩れかで壊れてまってる。その仏さんは仏性寺さんに、預けられているという。祐念坊は市瀬にあった。その仏さんは発心寺にある。

教如上人は東本願寺の 創始者だが、関ヶ原の戦いでは敵方に囚われそうになったところ、春日の村人28人が上人を平地の手から脱 出させこの山に導き、国見峠付近の岩屋に隠したという。

 村の8か寺から28人が参加する。関ヶ原の戦いで敵方から狙われた教如上人 を救ったのが春日の28人だからだ。8ヶ寺が交替で接待する。 参加者は米三合をもってくる。
年初の5日講の写真

このブログの人気の投稿

木地屋のはなし

 折口信夫『被差別の民俗学』(河出書房新社)の「木地屋のはなし」には、春日村の米神が登場する。米神とは春日村の小宮神のことである。十数年前に、小宮神の木地屋さんから系図を鑑定してくれと頼まれていた折口が、十数年後にやっと小宮神を訪れるという話だ。「都合がついたら 惟喬親王の御陵を見に来てくれ」と頼まれている。 「切り立った崖の狭間に出来ている村落で、そこに猟師村のように家がごちゃごちゃ並んでおり、その中に本家というのが三軒程あるので、惟喬親王の御陵といっているのは、実は、その本家の先祖らしいのです。とにかく、私どもの知識では、何の根拠もないということがはっきり呑みこめましたので、これは「小野宮御陵伝説地」というくらいならよいかもしれないが、それ以上のことをいうのはよくないだろうと申しておきました。尚、ここの木地屋は、この第二図、即ち、金龍寺から出している方を掛けているので、採色をした極新しいものでした。」  折口は小宮神の木地屋から、系図の鑑定を頼まれ、系図を返すついでに、小宮神を訪れたのである。親王の御陵は本家の先祖らしい、 惟喬親王 伝説の地くらいならよいかもしれないと言っておいた、とある。   木地師は木から器をつくる職業だ。山の木を伐ってつくるため、山から山を渡って歩く定住しない生活が漂白民のようにも考えられ、ノスタルジックに語られることも多い。しかし、折口が「詩的に考えると、大昔から山に居った一種の漂泊民が、まだ、生活を改めないでいたように考えられるのであるが、そこまで考えるのはどうかと思います。とにかく、昔は、幾度も氏子狩り(氏子をつきとめて戸籍に登録)ということを致しております。ちょうど、山に棲む動物を探すように、氏子をつきとめて、戸籍に登録するので、こんな点から考えると、昔の民生もそうだらしのないものではなかったことがわかります。」と述べているように、民生は幾度も氏子狩りをし、山に棲む動物をさがすように戸籍を登録。木地師も氏子であることを利用して、関所を超えた。全国の木地師は二つの神社の氏子となっており、折口の言葉を借りれば、民生が行き届いた証拠であるが、祭神の一つが、小宮神の 惟喬親王である。器をつくるのに必要な轆轤を発明されたということで神となった(もう一つの祭神は筒井八幡である)。 惟喬親王は 清和天皇の兄弟。父は

中山観音寺 3月第2日曜日の大般若さんの 聞き取り

 岐阜県揖斐郡揖斐川町春日中山観音寺は江戸時代は大垣藩が再興、関ケ原の戦いでは小西行長を匿った歴史ある曹洞宗の寺である。   観音寺は山間の中山集落の上方、山間の急な石段を上った場所にある。社叢は深く、「お宮さんからの風でいつも寒いんじゃ」と言われたことを思い出す。  創建は養和元年(1181)で、関ケ原の合戦時には荒廃していたものの、小西行長を菩提をともらうために、さらに山を越えた集落である美束種本より、十一面千手観音像と大日如来、釈迦如来像仏像三体を譲り受けたが、十一面千手観音像にご利益があった。  村自体も源平の落人伝説、さらには壬申の乱の落人伝説をもち、村の由来は1500年さかのぼる。いまは、岐阜県に位置するが、村の先祖は、山間部の中から、中山という集落をつくったのである。   しかし、その集落も17戸になり、80歳前後の村人が寺を守ろうと、花祭り、御汁講、施餓鬼と行事が行われている。  なかでも人を集めるのが大般若だ。村の人は「だいはんにゃさん」と呼ぶが、寺の守である宮内さんによれば「なんでも願いが叶うありがたいお経を読む日」である。  村人は2月から準備をする。2月末日は小西行長をともらう小西神社のお祭りがあり、さらにの中の神社かあ寺におり、村の人はりんとうを磨き、寺を飾り付け、経典を点検する。 この日は、掃除するりんとうが並べてあった。 小西神社のお祭りが終わると、お寺に行く   りんとう磨き 女性たちは、数週間をかけて、この日のための食事の用意をする。食事は山のものである、白和え、蕗みそ。大根。全てが山のものである。人数分つめる。今年は雪がひどかったが、それでも何とか蕗のとうを拾ってきた。 「先代のおっさんは、それはそれは厳しい人じゃった」という治子さん。礼儀作法を学校さながらに厳しく寺から教わった。   「昔は、食べ物がなかった。五穀豊穣とかね。祈ったんですよ」と宮内さんから、教わる。僧侶の読経が響く。    「昔はね、出店が出ておった」と言うのは、四井(83)さんだ。  「おっさんの声が大きいてね。外まで聞こえたと。俺ら、青年団でね。礼儀忘れると、怒られたもんだ

春日村美束 六社神社 昭和23年 水田をつくるために岩をあけようとした話 

まんじろうさんが岩に穴をあけようとした話 話者 山口さん夫妻  岩に穴をあけて、自分の畑に水を通そうとした人がいた。岩はみたらし渕と言う六社神社のところにある。昭和23年ごろの話。 水田が無かったまんじろうさんは岩に穴をあけることで、畑に水を通したかったのだ。 水田にして米をつくるのだという、まんじろうさんが岩に穴を開けている姿を見たのが子供のころの山口さん夫妻である。  「カンテラを照らしてな、水盛をしていた。」 手伝っている人が一人いたことはある。水路は完成しなかった。 それほど、米がなかった。食べ物がないときは、リョウブの葉を茹でて乾かしたものを食べた。りょうぶ飯である。りょうぶ飯は黒かった。 貧しい食べ物ことについては、駒月作弘さんが記録している「美束の民謡」でも歌われる。   「美束の民謡には生涯無い(しょうがいな)という民謡がある。胡麻柄、えがらが最も古くから唄われ先人達が焼畑を作り、稗・粟・胡麻・えを採り主食としていた頃の哀歌である。 其の一節  しょうがいないしょうがいないと言うたことないが  今年しゃしょうがいないのあたり年しょうがいな(世の中が豊作をよろこんだ歌) 其の二節  胡麻柄えがら三ばからげて四わ炊いた、  三ばからげて四わ炊いた  (年暮れ近く寒くなってからの焼き畑仕事の哀歌と思われる) その後、よそやま(村外の山)へ出稼ぎに行くようになり(大方は炭焼き)、根尾・方面からほっそれ民謡が入り、そして嗚呼盆はなあヨイショ盆は嬉しや別れた人も 晴れてこの世に会いに来る。この歌は、発心寺・善照師匠が京都東本願寺へご奉公お勤めに行かれた時お習いになり、お盆にみんなで盛んに踊ったようである。 それから、年月たち昭和初期教如上人洞窟の発掘教如堂の建立等当時尊重の駒月巌が主体となり美束の有識者が名を連ね広く教如上人を宣伝し小冊子を発刊、全村に配布されたので70年程度を経過して居れど、どこかにお持ちの方があるはずです。 もともと美束は国見峠を越して、江州との交流が盛んであり、その頃すべての文化等も京都・長浜・長岡・そして美束へと経路が考えられるなか、その教如上人を讃える歌や滋賀県小津原にあり美束寺本の民謡や踊りの好きな人達が教如上人の宣伝に加勢したというか、煽られたというか(駒月巌の出版の記