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中山観音寺 3月第2日曜日の大般若さんの 聞き取り


 岐阜県揖斐郡揖斐川町春日中山観音寺は江戸時代は大垣藩が再興、関ケ原の戦いでは小西行長を匿った歴史ある曹洞宗の寺である。

  観音寺は山間の中山集落の上方、山間の急な石段を上った場所にある。社叢は深く、「お宮さんからの風でいつも寒いんじゃ」と言われたことを思い出す。




 創建は養和元年(1181)で、関ケ原の合戦時には荒廃していたものの、小西行長を菩提をともらうために、さらに山を越えた集落である美束種本より、十一面千手観音像と大日如来、釈迦如来像仏像三体を譲り受けたが、十一面千手観音像にご利益があった。

 村自体も源平の落人伝説、さらには壬申の乱の落人伝説をもち、村の由来は1500年さかのぼる。いまは、岐阜県に位置するが、村の先祖は、山間部の中から、中山という集落をつくったのである。
 


しかし、その集落も17戸になり、80歳前後の村人が寺を守ろうと、花祭り、御汁講、施餓鬼と行事が行われている。

 なかでも人を集めるのが大般若だ。村の人は「だいはんにゃさん」と呼ぶが、寺の守である宮内さんによれば「なんでも願いが叶うありがたいお経を読む日」である。

 村人は2月から準備をする。2月末日は小西行長をともらう小西神社のお祭りがあり、さらにの中の神社かあ寺におり、村の人はりんとうを磨き、寺を飾り付け、経典を点検する。

この日は、掃除するりんとうが並べてあった。


小西神社のお祭りが終わると、お寺に行く

 
りんとう磨き




女性たちは、数週間をかけて、この日のための食事の用意をする。食事は山のものである、白和え、蕗みそ。大根。全てが山のものである。人数分つめる。今年は雪がひどかったが、それでも何とか蕗のとうを拾ってきた。





「先代のおっさんは、それはそれは厳しい人じゃった」という治子さん。礼儀作法を学校さながらに厳しく寺から教わった。 




 「昔は、食べ物がなかった。五穀豊穣とかね。祈ったんですよ」と宮内さんから、教わる。僧侶の読経が響く。
 


 「昔はね、出店が出ておった」と言うのは、四井(83)さんだ。
 「おっさんの声が大きいてね。外まで聞こえたと。俺ら、青年団でね。礼儀忘れると、怒られたもんだ。昔は7、8日と2日あったね。地元(春日村中央部)の人たちはみんなお参りしたんだ。虫供養の意味やったんや。青年団がみんな、何十人もお参りした。礼儀作法を教えるためにね。村の役にここであいさつするわけ。区長さんとか主にね。」
 
ーーー虫供養ですか?

「というのはね、蚕を殺すやろ。虫とかいろいろ殺すけど、一番ひどいのは蚕。繭にして、ちょうになるのが入っててそれを殺すんやんで。繭を作ってまって殺されてまうやでね。昔、寝るとこあらせなんだ。腹の上にも蚕。家中蚕だらけ。昭和37、38年ぐらいまでね。桑畑ばっかり。
 蚕の養蚕組合が川合の小学校のところにあってね、そこから小さいの持ってくるんや。3べん、4べんとやると、蚕が脱皮しておばあさんになってく。それを殺してまうんやでね。うちんなか繭かけておってね、この間まで、家にその跡が残っておった。最近、やっとその跡が消えたがな。」

「虫供養のお経はお施餓鬼でなかったかな。」と田中住職。
「蚕の音がしてるんや。」と四井さん。
 
 「中山の人がなぜ、出ていってしまったかって。杉があったのは中山だけだったんだ。他の集落はあまり、植えてない。」と四井さん。

「山に登ると、中山の集落の廻りだけが、杉、ヒノキだけで黒々していた。その杉の木を売って、村を出ていったんだ。終戦後は日本中が焼け野原になってまったんで、木は売れた。昭和40年までだな。わしはそんなことせずにぼやっとしておったっけど。木を売って出ていった人は得をしているかもしれんけど、ずっと、ここにおれて、これまですめて、これもよし」と宮内さん。
「いまは、お金を持った人が強いだけで、木という財産はあかんのや」


中山の人はお大臣。そういえば、この寺にもようけ寄進して、巻物とかね、寄付した人に、大郷貫蔵さんと人がいる。「わしが生まれたときは、おらんかったけど」と四井さん。

「その人が亡くなったときはね、御輿の上にさらしつけて、皆がつかまってったんやで、墓地は県道の下やでな。村中の人が白いさらしにつかまっておくったと。」と四井さん。「お金をもって、お寺でもどこでも寄付する気持ちがあったということだ。」

 「中山は山をもってる、源平で負けた四位しんくろうすけもり、これもりの孫。位をもって字を書いた。14人の家来を連れて、欅のある家、あれが親分。そのころ、大郷、宮内はあったんやね。四井、井は明治になってから。位の字のある判もあった。位牌には位って書いてある。
 17、18までは蚕、蚕の後は炭焼。熊?あったことある。降ってきたんやで。黒いかたまりが。峠でぶつかってきてね、熊がうーっと手をあげた。わしの目の前で、うおーと言ったら、逃げてね。ようかかってこないで良かったんやね。大きな声で言ったら、びっくりした。大きな声が大事。

「炭焼き、林業、蚕、こんにゃく、お茶。禰宜さんもね、2時ごろからまいってね、6時からごはんたべ、6時半には仕事に行かにゃ、ならん。朝2時からまいって、お宮さんに2時間か3時間。お神酒をあげたり、祝詞をあげたり、4カ所あるで。秋葉さんと、小西さん、参らにゃならなん。いまは、下でやるけど。前はお宮さんの前でおそなえした。おそなえして、洗って、お神酒、備えて。四つ足はいまでも食べん。」と宮内さん。

「盛大に行うことに意味があるのです」と田中住職。大般若さんに集まる村の人の理解を深めようと、村の由来を説明する。小西行長の絵である。



大般若さんからいっきにに、春になる。対岸の山には雪が残っている。




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