春日の小宮神で木地師の掛け軸を見せていただいたのが春の始まりだった。木地師とは、山から山へと木地を求めて移動する人々。しかし、木地師が移動した山にはすでに人の村がある。
「やたら木を伐ってしまうで、恨まれて、恨まれて」
藤原さんは、木地師の祖先が定着する過程であった苦労のことをお聞きした。その一つがお寺の話で、明治まで自分の寺を持つことができなかった人たちは、明治になって、自分の寺を手に入れる。明治の話だから、そう遠いことではない。
祖先は、木地師は惟喬親王に親王にお仕えした藤原定勝ということだ。御存じだとは思うが、惟喬親王は伝説の人物。実際には、文徳天皇の第一皇子である。皇太子に弟(清和天皇)が立ったところで、身の危険を感じ京都から逃れ、滋賀県で亡くなっている。伝説では山中にたどりき、轆轤を生み出したことになっているが、それ以前にも、当然に轆轤の技術はあった。
流浪の皇子ということで伝説の題材になったのだろう。親王との関係を記す掛け軸が藤原家にあるが、集落には石碑もたっている。これは折口信夫が、先祖の墓と言ったぐらいがいいだろうとアドバイスを送っている。
伝説では先祖は、始めは古屋に入る。しかし、そこは雪が深い。小宮神に土地があったので、そこに住み着いたことになっている。お寺の話は、また後に書くことにしよう。
今回は、木地師の発生の地である君ケ畑に行った。君ケ畑は滋賀県にある。ちなみに春日は岐阜県にあっても滋賀県境の村である。
君ケ畑に向かうのに一冊の本を携えた。君ケ畑について書いてある白洲正子の『近江山河抄』である。君ケ畑は「鈴鹿の流れ星」に出て来る。君ケ畑は白洲の『隠れ里』でも紹介しているが、鈴鹿山脈で十一面観音を追いながら、その帰りに北上し小椋谷の君ケ畑に寄ったのものである。その時の紀行文が自分は好きなのである。
白洲は、木地師の祖惟喬親王についてこのように書いている。
「鈴鹿山脈の西側は亀山市で日本武尊の遺跡が至るところに見出されるが、それと呼応するように、近江の側に惟喬伝説が現れるのは、両者の間に何か関係がありそうな気がする」
日本武尊も親王も確かに敗者の話である。貴種が流れる話である。しかし、私の世代では日本武尊や有名なところでは源義経は知っても惟喬親王は知らない。
全国の木地師の拠り所が住まわれた場所は、驚くほど山の中であった。まず、永源寺を経てさらにダムの脇をとおり、道の駅の前の幹線道路からは狭い山道に入っていく。政所、箕谷、蛭谷、君ケ畑といった集落になるが、コミュニティバスがくれば、すれ違うことができない山道だ。君ケ畑は一番奥にある。道の下には渓谷がある。峠の手前が君ケ畑だ。
集落に入ると、40戸ほどはあるだろうか、草が生い茂る家もあるが、山から取水した水が流れている。さすがに伝説の地だと思ったのは、神社だった。かなり立派だ。立派な杉の木が聳えている。
親王の在所であった寺(高松御所)を見た。集落のなかで工房がある。中をのぞくとセンサーが鳴ったようで、工房主が出てきた。ろくろ工房君杢の工房主、小椋さんだ。
昨日は、地域の小学校の木地師体験教室が行われていたということ。まず、かんなをつくる場所を見せてくれる。
木地師は、轆轤を廻し、木を削る。その道具は鉄だが、その道具も自分でつくる。鍛治仕事だ。炭を起こし、風を送って真っ赤な炎にして、はがねを叩くと言う。
小椋さんはこの村では200年目の木地師だ。
「僕が始めるまで200年間は木地師はいなかった。ただ、ここから、全国の木地師の村に氏子狩りにいった。その帳面も残っていますよ」。
木地師の血なのか、この村で育ったからか、小椋さんはもともと製材業。とにかく木が好きで友達が紹介してくれたこともあり、愛知県の木地師のもとで学んで、開業し、23年になった。
工房には製品にするまで乾燥させている木材がおかれている。製品は割れないようにするため、とにかく乾かす。注文主が許せば、時間をかけて乾かす。
欅、栃、かえで、桜、たらの木。木の不思議を聞く。工房には、お宮さんの木が台風で折れた時の木もある。つい最近の台風かといったら、伊勢湾台風の時に倒れた木だ。昭和34年に倒れた木が材料になる。
1500年前に流れて土の中に埋もれていた木もある。工事をした時に見つかったということだ。土のなかにいたので、土をしみこんで真っ黒だ。1500年前に倒れた時は2000年を生きていたということで、3500歳の木だ。木は黒い。木は、時間が経つと化石になってしまうので3500年など、少しの時間ということなのだろうか。
小椋さんが実演をしてくれる。板の底に台が削られていく。当然ながら、製品は丸い。轆轤だからだ。
木のコブが模様になった木、木が発光しているようなお盆を見せてもらう。小椋さんは塗をしない。木に出来た自然がそのまま目に見える形だ。ランチョンマット、菓子入れ、お盆、そんな製品を見せていただく。盆を娘のおやつ入れに買い求めると、印を入れてくれた。
実は、この日、一番驚いたのは小椋さんのお茶の入れ方だった。この日は暑かった。金平糖の入った木の器の蓋をとると、お茶をいれてくれるということで急須と、お茶葉を運んできてくださった。
小椋さんは、まず、お湯を茶器にそそいだ。茶器をあたため、それから、お茶葉を入れ、それから、ゆっくりとお茶にしみこますように湯を注ぐ。20分が経過しただろうか。
それから、お茶を一口含むが、まだ、納得がいかないようだ。
小椋さんの家は、三度のお茶の時間があったと言う。仕事に行く前、お父さんが朝、まずお茶を入れてくれた。その後のお茶の時間は小椋さんも子供らも入れた。
お茶の葉も自家製だった。いままで飲んだことのない味がした。
小椋谷の君ガ畑から百済寺へ向かう峠を超えてみた。白洲正子によれば、百済寺という集落に白髭神社があるという。峠を越えると百済寺という地名の集落であるというこがカーナビにうつっている。村らしきもののあとがある。神社はなく、廃村になっていた。災害の跡の全村離村だ。緑の草むらのなかに、石垣が点々としている。雨が降ってきた。
それから間もなく百済寺についた。山門に庭園に驚くとともに、なぜ、こんな山村に木地師の中心地があるのかなどと書いたことが間違っていたことにも気づいた。君ケ畑から峠を超えれば寺につく。百済寺の駐車場に立てば、遠くに湖面が光っている。琵琶湖である。琵琶湖の島も見えた。木地師はたやすく、都にたどり着き、山中と思われた集落は、都に近い器の木材の供給中だった。
轆轤は平安の前からあった。なければ、東大寺に収めた百万塔なんて、轆轤できなければできないから。そんな話をした。平安初期よりもっと前に職人がすみついていた君ケ畑
の過去に思いをはせる。
山を百済寺に向かって降りる。