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 十一面観音  江戸初期、中山の十一面観音様に参れば目が治ると聞いた大垣公の妹のおさいさんが、中山に参ったところ目が治った。   しかし、中山までの道は険しすぎるといったおさいさんは、下の寺に仏様をもらいたいと、お寺をつくって、仏様をもっていってしまった。  観音様は、行きたくないとだきついて泣いた四井家のけやき。  観音様は大正時代に焼けてしまった。   観音様を一人占めにして、なんて、身勝手なお姫様なのだろうか。  「焼けたときに、下の寺から魂が入ってこの寺に入ったのを見た人がある」と四井さん。いまの観音様は、大垣公が、下に行く観音様だが、魂が入っているのだ。    観音様がどのような観音様だったのか。伊吹山という位置関係から、湖北一帯の十一面観音様だと考えることができるのではないだろうか。    観音様は長国寺から来た。長国寺は長者平にあった寺で、現在も五輪塔があり、明治期の記録では池の跡もあった言う。  長者平は、美束から日坂への峠の手前にあり、春日発祥の地という説もある。壬申の乱で破れた大友皇子の寵姫とその一族がすみついたというものである。一族の古墳という糠塚もある。  集落は離散し泥棒のアジトになった後、中世には、土岐氏が再興していたとの伝説もある。間もなく、荒れ寺になった後は、美束のお堂のなかに置かれていた。美束の太鼓踊りのなかには、観音様の歌もある。    十一面観音は中山では現在、ご住職のご尽力のもと、ライトが灯されている。急な石段をのぼったあと、一息ついて、手をあわせる。  仏はつねに在せども  うつつならぬぞ哀れなる  人の音せぬあかつきに  ほのかに目に見えた給ふ      「梁塵秘抄」  何か特別な光を放っているように思えるのは、自分の生きていない時代に、存在したからだろうか。ご住職から、自分が存在しないことから見ることの重要さも教わった。  「人はいずれ死ぬ」と教わるけど、「人はそのとき、生まれていない」である。  現在も、観音寺は、宮内さんと四井さんが交替で守をしている。誰もが、本堂の戸をあけ、参拝することができる。  お守をする宮内さんは、仏様の前にすわると、お経を読む。四井さんは、畑仕事切り上げ、時を告げる鐘をついてくれる。ご住職はおっさと呼ばれ、朝、夕のおつとめを行い、鐘をつく。  十一面観音にははっきりした縁起は残っていない。一
 観音寺と元正庵  「中山観音寺は養和元年(1181年)創建。慶安元年まで天台宗元正庵と称した」    中山観音寺のはじまりは、元正庵という天台宗の寺だった。創建は1181年と言われている。2021年10月、中山の宮内勇之区長の案内で元正庵に登った。  元正庵のあるところを貝洞という。現在は、杉林の暗い森のなかにあるが、周囲がかつてこんにゃくやお茶、桑の畑だったと思えば、集落の近くのお堂であるが、道はない。最近で出したという鹿の寝床や狸の洞穴を見ながら、木をはねながら、山を上がっていく。  位置的には、お宮さんの上方にあたる。少しの平があって、細かい石が積まれた石垣がある。何より堂があったことを思わせるのは、字が刻まれた石碑が立っていることだ。 「おしゃりになるところを腹減って穴から出てきしまったのを聞いたことがある」と宮内さん。おしゃりになるとは、即身成仏のことである。食を絶ち入寂することである。修行する僧侶がいたのだ。  石碑の隣に掘り出したかのように四角い穴がある。もしかしたら、この穴に入って、修行した僧がいたのかもしれない。  「圓寂当庵開基触峰照上座」   圓寂とは、入寂と同じで、僧侶が死ぬことだそうである。庵を開いた僧侶のお墓だろうか。  元正庵はどのような寺だったのだろう。美束も含めて、この辺りの中世は天台宗の寺だった。そして、春日は伊吹山の東に位置する。 伊吹は修験の山で、聖人の伝説がいくつか残されている。元正庵は後に、目が治ると評判の寺となったことから考えて、修験ともかかわりのある寺だったのではないだろうか。   800年前の元正庵は、伊吹山一帯にあった寺の一つではないだろうか。 そのころの寺ではどのような生活が営まれていたのだろう。 同時期に書かれた今昔物語がある。  「伊吹山三修禅師天狗迎語」は、中山と同じく伊吹山中美濃の寺院のお話である。  美濃の国の伊吹山に、久しく修行する聖人いた。法文を学ばず、ただ、南無阿弥陀仏を唱える以外のことを知らなかった。  ある晩おそく、仏の御前にすわり念仏を唱えていると、告げる声が美しい音楽のように響いた。「おまえは一心に祈っている明日の未の時に、迎えにこよう。」と言った。 聖人は沐浴して身体を清め、香をたき、花を散じて、念仏をとなえていると、紫色の雲がたなびき、観音菩薩が聖人に近づいてきたので、聖人は這の蓮華
西谷から龍がでていくとき  話者70代 (2021・10・27)   上ケ流の西谷から龍が出ていくとき、 水は柄杓でくめるほどだった。 海に千年、陸に千年、山に千年棲んだ龍は昇天すると、おすみさは子供のころ、龍が昇天するのを見たと教えてくれたけど、西谷は龍が出ていくときすごい水量で、家の西から柄杓で水が汲めたと言われたと聞かせられてるわ。 ある本に滝と滝つぼの写真があって、そこに詩があって、 山深く、流れて落ちる滝のおと、その幽玄なる滝つぼに、龍神すむと人のいうという詩があって、なぜか、いまでもおぼえるわ。
 畑を焼く (2022・10・27) 山に木を切ったあと。木を焼いて、畑をつくる。それはな。違う肥料分になるな。 よう出来るなんてもんじゃない。県から視察に来た人が、窯の設備も大したもんじゃが、山で立派なものがつくっているのも大したもんだ、と。大根や白菜、見て。 柴に火をつけて焼くだけで、ものすご出来る。フチをずっと、木の葉もなんもさらえて。燃えてかんように。下へ行って火をつけると上がるで、上からつける。すると、じわじわ燃えていくで。長いことかかって燃えた方が、木が焼けるで、肥料分が。 どうしたって、下から火をつけると、火の手というのは上にあがる。早いとこ、燃えていく。木の葉や柴は、細かいところは燃えていくので、太いところが残っていってまう。上から焼くとじわじわと焼くで、長いことかかって地を焼くで。横へは走らんでな。たいてい、上に上がる。 一番困るのは笹原。笹の葉は生でも、燃える。バチをきれいに切っておかんと山火事になる。
 こより峠の思い出 こより峠か。 どんだけ、おじいさんを呼びにいったか。 うちのおじいさんは美束に連れがおった。製材やってる人。とくのすけという人だった。仲良で、灰谷の上の山の木を。美束は牛をよく飼った。その牛をあそこから連れてきて、牛をこより峠をこえてきて、うちの分の杉の木を牛にひかせて、出して、製材かけて。牛は山に置いていったんじゃないの。動物もあの時分は、山におらんし。熊やら猿はおらなんだよ。若い時分。熊の猿のと見たことない。どこにでも泊まれた。牛は小屋を建て、置いていって帰っていく。 お地蔵さんは2体ある。子供の時じゃよ。男の子がおるといじめられやしないかとこわて、こわて。峠越えて。 おばあさんが呼んでこいと。おじいさんが60ぐらい。そこいくと、二所あった、指物屋のおじさんと。うちもせわしい。仕事があるもんで、よばってこいと。呼びに行って。 あの時分は畑があった。お地蔵さんの横も畑で、こんにゃくがようけとれた。おじぞうさんがあるところから一谷は畑ばっか。道も変わったかわからんね。谷に水を貯めておいて、汲んでいっては仕事をした。清水工業のところも三体のはず。 白子へ降りるのもいい道。戻りは、下の道を来たと思う。 「おじい、ほら、もうおばあ、よぼってこいよぼってこい、ておばあいうんだけど。早くかえってこいっての」 「ほうか、なら戻る」 おじいはやさしかった。おじいはお父さんがなんか、おもしろないと叩く人で、生傷が耐えられずということで。おじいは本当にいい人だった。小遣いほしいと、あそこにあるともってけやと、50銭の札を。ういぜよ。
共産軍からスカウト (聞き取り2021・10・29) 終戦になって、軍旗が無かったで、先頭に、将校の軍刀を並べるわ。そんだけの人数がないとあかんのやで。わしら、機関銃やで、機関銃をずっと並べると、向こうから人数をやってきて、兵器をもってってまって。そしたら、わしら丸腰になるわ。するとシナ人がたわけにしてもう、石投げて。学校かなんかにおったんじゃで。兵舎というものはあらへん。石投げたりなんかしてみる。すると、武器もない。負けた人間やで、たわけにさせられてもしゃあないわ。 蒋介石軍は共産軍にやられて、やられて、どんどん逃げていったんじゃで、晩に寝てると蒋介石軍と共産軍がやりあうわ。わしらがおったところは上海の近くで、道路ってないんやで。全部水路、クリーク。そいで、やりかけたなあ、と思ってると、蒋介石軍がやられては、下がってくる。負けて、負けて。そいで、日本軍に武器を返してよこした。こんどは機関銃をもっとる。 やりかけたので、今度は頼みに来るぞよ、と思っていると、軍隊のえらい人がきて、頼むと。しゃあないで、機関銃持っていって、クリークの土手で、音のする方向けて、バババーンと。30発、弾が入っておる。押しさえすれば30発ある。弾もようけ、あったんじゃ。返してよこしたんじゃで。30発、撃つと、向こうは引いていってしまう。 それは、なぜ、というと、負けるちょっと前から、向こうは夜になると勧誘に来るんじゃ。俺は何々部隊におったもんじゃが、共産軍に来てみよ、と。日本の兵隊が、誘いに来る。共産軍じゃ。そいでな。古い兵隊は行かへんが、若い兵隊は軍隊がいやでかなわんで、ついていくんや。 上等兵でいくと指揮官じゃ。将校になれる。誘いに来たときに、何々部隊の上等兵だが、向こういったら馬に乗って歩けるじゃというじゃ。それは、いいことじゃと若い兵隊はついていくわな。向こうは日本の兵隊は指揮官でおるもんで。 機関銃でも、日本はくうれい式の機関銃。音が違うの。音が全然違う。日本の機関銃は出るのも早いしな。そいで、ばばばばーんと出ると日本の機関銃の音だということになると。向こうの指揮官が日本人なもんじゃで、日本人の花持たせる。行ってまう。あくる日になると、重慶軍が豚肉やら酒やら持って礼に来る。うまいものが食えた。 近くの町を守りをしていて、連絡に行ったら、ほもなんもおらん人間もおらへん。共産軍がほをも

森の文化博物館で、 「聞き写し春日」 揖斐川町本屋好文堂さんで販売中 読者にあう

 10月31日 森の文化博物館近くでコーヒーを入れさせていただいた。 軍資金を回収しに、揖斐川町の本屋さん好文堂さんに、売れてる。うれしい。ありがとう。 10月31日のイベントでは、何よりもうれしいのが「聞き写し春日」の読者と出会ったことだ。 この本は、文と写真の組み合わせは自分で考え、空間の微調整や紙の選択をデザイナーである松本氏が行った。もし松本氏がこのブログを読んでいたら、この場をかりてお礼を言いたい。あざます。 でも、自分には、ちょっと物足りない。写真の力のなさなのか。もっと良いものができるのではないかと考えている。 ところで、森の文化博物館のイベントは大成功のようであった。自分は、コーヒーの場所にいたので、コンサートなどが聞けなかったのは大変残念である。 出展者のユーチューバーのOさんや、楽団の方の、さわやかなお人柄に触れることができて、とても楽しい一日であった。このような場をつくりあげた、博物館のTちゃんの行動力に感謝。おつかれさま。
聞き書き 小宮神    いまは、狩猟期間が短いの。11月から2月は15日で終わる。昔は半年あった。10月15日から4月15日まで狩猟期間。その中で、時期によってとるものがある程度違う。 春、4月、熊じゃ。熊も30いくつとった。大きなものなら、養老のたかぎと言う人が買い集めたんだが、福井県まで買い集めて買うといっておったが、その人でも、見たことのない熊やな。  かんもんめでいくと37貫500あったんじゃ。大きなもんやったで。 熊は、胆のうが高いんやで。当時は皮も高かった。皮も真ん中に将棋盤をおいて、やれるだけの皮やったらものすごう高かった。いまは、皮はだめ。 肉は金せん。油こうて。 鉄砲で、美束の山を山を越えて一番大きいやつは撃った。国見峠より、北の方。国見峠は岐阜県と滋賀県の境やでね。あれを越したら、植林。県のずっと奥まで、甲津原まで県公造林。そこで、5つばか撃った。 その当時は熊だと、4人グループがおった。 熊は犬が悪かったら全然だめだ。わしの持とった犬は秋田犬をかけた大きな犬じゃ。美束の古い猟師が一緒に師匠で歩いたが、こんな犬は何百も一匹もおらん犬やと。しまいに猪の小さいのくわえとって、名古屋の遊びに来た猟産師がくわえとるときに撃つなというのに、撃つてまった。犬の足を。 これは、命の次に大事な子やった。いのししなんか、300メートル向こうでも知っとったでね。 犬が良かったで、一人でも熊をいくつも撃った。 犬がね、匂いがすると、ふぉっと走るわ。匂いのするほうへ。冬は山の上から吹き下ろすんじゃ下に。上の方にくると匂いがばあ、と下の方へ来るんじゃ。すると犬はふっと頭上げて、匂い嗅いでるわ。なんか、おるなあ、匂いがきたなあと。鼻振っとる。そのうちに、方向決めてだああっと行きだすわ。そうするとね、風で匂いが消える時がある。 匂いが消えると、だああっと歩くわ。風の向きで匂いが来るところがあるんだね。すると、また走り出す。三千メートルかかると、ふっとひときりかかるわ。匂いが切れるときがある。 匂いが切れるととびあがって、ふっと、匂いが来んか。 あんな犬は、撃たれたときに鉄砲やめようと思ったな。わしが、45かそこらだ。 近くへいくと、匂いが濃いでね。熊だけは姿見えでも鳴く。猪や鹿は姿みえな、鳴かん。熊だけは匂いがきつうなると鳴き出す。鳴き方が違うの。 鹿はきゃんきゃんきゃんきゃ
  伊勢湾台風 聞き取り 小宮神 走り書き 宮神の土地は、水がいざったときにできた土地だ。  伊勢湾台風でも他の橋は通れなくなったけど、下の吊り橋だけは落ちはせなんだ。  六合にもりもりの上の橋も残った。  渡るところに木の橋があっちゃこっちゃあったけど、そんなもんは低いで流れてまう。ここで渡って、山を越えて行った。ひときりは。  伊勢湾台風は美束がひどかった。美束の貝月が中心で、集中豪雨が伊勢湾台風。  尾西はそうふらんなんだ。貝月が中心で降ったので、野営場の谷あたりは、まともに貝月。安土も貝月へ行ってる。付近谷も貝月。東谷の半ぺた貝月。あの辺はひどい荒れたんじゃ。大きな御影石でも落ちてきたんだ。 貝月の山が台風がいった後に見ると山が白かった。 谷口から抜けて。山がはげてまった。木はあったけど、美束の山は中がが花崗岩やで、上の泥が浅いで。  美束は地が浅い。すべってまうので、抜けになってまった。いまこそ、大きい抜けだけがわかるが、一時は山が白かった。抜けた土砂がどっと川へ来たので、ぼうでつついてみた。土砂ばっかり。美束から抜けが、いくつもの谷を抜けて。一つの抜けがくると落ちてくる。  下で見とると川の真ん中に山ができる。大きな石でも流れたんかと思ったら、山がいざってくる。 真ん中に山ができると、淵へ水がたまる。家の庭に水がついてくる。その山がいざって下へいくと、庭の水もさああとひいていく。何回も何回も土砂が流れる。そんだけ、美束だで遠ないで、土砂が波になってくる。大きな抜けごとに波になってくる。ひどいもんじゃ。  この下の川がいま3分の1あるなしの川だった。 そのあとに、室戸台風が来た。そいつは、伊吹山さんが中心。  その時分は大高線はないで、こちらから運ぶより仕方ない。古屋の分校にヘリコプターで食料を運んだ。  川が高いところでも御影石がある。御影というのは、美束にしかない。 それなのに、ここらでも御影が出る。川が高かったんじゃ。ここでも、御影ばっかじゃ。ここらは石原。向こうへいくと、美束の砂ばっか。下の平いくと、砂地じゃ。形が変わってまった。伊勢湾なんてもんじゃない。  小宮神も岩盤やし、発電所に水が落ちているのは当たり前だった。  嵐が来て、向こうへ山が切れて、あっちへ川がいった。川がいざっていったので、ここらは、美束から来た御影ばかし。大昔の話だ。  国見
 中山の禰宜さん 年間行事 話者 宮内さん 1月1日 1月1日の2時ごろ、皆さんがお参りするので、焚火を炊いて。暗いうちから参った。お神酒とかいろんなお供えをみなさんがして、禰宜さんがその家の御祈祷をした。 お供えものとしては、お鏡。丸いのを二個のせて、その上にミカン。本当は橙。 鳥居には、橙、炭とか末広がり、センスとかぶらけて1月1日の朝。みかんでなくて橙。橙は村になく買ってきた。あるいは、川合小学校の下に橙をつくっていた人がいた。 きりぞめ この辺はみんな、炭焼きだった。みかんと、おけそく、鏡餅を紙に包んで、ぶらさけて、2日にきりぞめ、1年切らしてもらう、だから、きりぞめ。きりぞめは、個人個人がやる。きりぞめはそれぞれやった。2日の日。 おのらい 3日もお参りして、3日は、鏡もちをのらう。おのらい。おのらいという。 どしこし 6日、どしこしといって、それも、お宮へお参りして。 七草雑炊 7日は七草雑炊といって、神様にお供えする。 山の神 10日には山の神といって、しめなわをつくる。昔は、四井と松井、大郷、宮内と三本。いまは、1本。同じところに3本。山の講がすむまでは山に入れなかった。 じゅんごんちしょうがつ 15日正月。どんどん焼き、村からもってきて、火を焚いてもやした。家にもしめ縄があるので、それも焼く。いまでも15日。いまは、8時から。昔は夜が明けたころから。 月参りとして16日も。今度は24日も月参り。1日、16、24日が月参り。水はかぶって、いま、死んでまう。昔は、わしは3杯。水をかけたら、かけたそばから凍ってまう。裸になって井戸まで。いまは、お風呂にはいって、シャワーかけてお参り。楽なもんじゃ。水は、あったかい日に日中かぶると息がとまる。冬の方が大丈夫。 2月は節分。昔は村中をお清めの豆をまく。悪を出すように。入り豆に、藁をきざんで。家の中に入って一軒、一軒。祝詞をあげて。家中。炭の切れもいれて、混ぜた。豆は重い。自分のところで炒って。鬼は外、ふくのうち。 おおにのめ、おおにのめ。鬼の目、鬼の目といって鬼の目にぶつける。おおにのめ、おおにのめ、と。いまは、お寺と神社でまく。 昔は24日ごろに、まゆだんごといって、繭のようにだんごをこしらえて、お宮さんにお供えした。お蚕さんの。わしらもやりました。たくさんつくる。米のここを練って、ゆでて、食べられるように
 中山の禰宜さん 禰宜も何回もやった。四つ足を食べてはいかんということは、終戦からこっちだけどね。肉なんてものは、終戦から昔はあらせなんだ。あんなもんは昔からあらせん。肉みたいなものは。 中山の禰宜さんは、寒に入ると、寒のあきまで、1カ月間水垢離。水をかぶっていた。ところどころ井戸があったので、その前で。 水垢離するまえは、冷たいというものはない。わからん。通り越している。寒いの入りとは1月の初めのころ。 かぶる杯数が決まっている。神様は奇数、仏さんは偶数ということになっていた。2468は仏さん。3579は神さん。3杯かぶるか、7杯かぶるか。 井戸の中に雪が入ると、水の上面に雪がある。それをひきわけといて。冷たいの冷たくないぞという話ではないぞ。 よう、あんなことやったと、ひどいもんじゃなと思っておるんだがな。人間って。 あんなことは中山だけじゃなかっただろうか。 中山はきつい部落のしきたりがあって、祢宜さんをやってると、火をたいた灰をかぶるようなことはあかんということで、炭焼きはあかん。 お医者さんがなかったもんで、悪くなると、何かの神さんの祟りじゃあらせんか。いっぺん、神さんに聞いてくれということをいうと、祢宜さんが参らなければならない。昔の祢宜さんは容易ではなかった。おみくじをひいて、この人は、いろいろ言わなければならない。昔の祢宜さんは容易ではなかった。氏子が祢宜さんを頼んで、神様に聞いてくれと、御無礼になったことがあらせんかと。  しきたりがあったもんで、中学生で祢宜をやらせた人もいる。親父が祢宜さんをやっとると手間がひけるもんで、中学生ぐらいの子を祢宜さんに出して、自分が炭焼きに一生懸命になっている人もいた。 節分のときは、祢宜さんが豆と豆をいるときに使った炭、あれと藁を短くきって、祢宜さんが豆と豆をいるときに使った炭、あれと藁を短くきって、それを混ぜたものを、玄関入ってきて、台所から入って、座敷に向かって神さん拝んで、それから禰宜さんが祝詞をあげて、おにわそと、ふくわうち言って一部屋、一部屋、座敷も台所も部屋も炊事場も庭も。撒いて、帰ってたもんだ。朝から。40軒も50軒も参ってるで昔は。昼まで、えらかった。終戦で裃なかったんだね。  雪がふると大変だった。朝早いで、禰宜さんやってるんで。  家の人は寝てる人は寝てる。どこから歩くかわからん。3時ごろから
昨日の昼休み、布についての聞き書きをまとめたものをキンコーズで印刷してきた。丁寧に対応していただき、ありがたかったが、コピー機の進化に目を見張る限りである。 聞き書きが中心ではあるものの、根底にある大家の研究を忘れてはならないのではあるが、折口は非常に難しく、参考書が必要なレベル。なかでも、松浦「折口信夫論」が参考になった。
フチと水神  聞き書きのあとの感想文  人はどのように織ることや布とかかわってきたのだろうか。「織る」も「績む」も無関係になった自分には、佐名さんのノートや、古老の聞き書きから、その意味を考えるしかない。佐名さんのノートを読んで織るには音があることを知った。麻を織る音は独特で、「植物の繊維と木にしか生み出せない音」だと分析している。また、織る音が、機織の記憶も呼び寄せると佐名さんが書いている。 績み、織る。麻の種を撒く、皮をはぐ、蒸すお釜を峠を越えて買いに行く。90年前の出来事は記憶の中にとどまる。 麻は縄文には既に栽培されていたと言う。古代、さらには遥かに昔の人が無関係にいられなかった織るは、日常を超えて信仰や儀礼とも深くかかわってきた。 古代を考えさせる折口信夫の「死者の書」は、藤原南家の郎女が奈良県当麻寺に伝わる「当麻曼荼羅」を一夜にして織り上げた「中将姫伝説」からモチーフを得た物語である。仕上げたのは曼荼羅だが、初めは非業の死を遂げた皇子に着せる布を織っていた。なぜ、郎女が布を織るのかは、郎女の出自を理解しなければならない。折口信夫氏の論文「水の女」によれば、藤原氏は水の女の系譜である。即位の儀礼で沐浴にかかわった聖職があり、代替わりの物忌みがあける際に新たな衣を着せるのが「水の女」であり、その役割を藤原氏が担っていたと言う。 主人公である南家郎女が蓮の糸で死者に着せる布を織るのは、「水の女」を物語で語らせたに過ぎない。 「水の女」では、「ふぢはふちと一つで淵(フチ)と固定して残った古語である」との指摘が興味深い。 「フチ」が水神に関わるとは折口の論文に過ぎないのではない。春日の聞き取りで「フチ」や水の神につながる類似の話を聞くことができた。 川合の川村氏の聞き取りで「フチ」と名のつく、神様の名前を聞いた。川合には、たつかぶちさまという雨乞いの神様がいる。たつかぶちさまは、尾根のみ伝って、夜叉が池からやってきた、蛇体であり、雨乞いでは雨に濡らしてはならず、七反の布に巻いたうえで、傘をさす。 フチとは、水の神をあらわす古語であるとする説を踏まえて、人は織ることで、どう水の神にはたらきかけたのか。神様を待つ間に水のほとりで布を織っているとの「たなばたつめ」の存在も、水の女で指摘されている。 水を治めることが必要な時代、蛇も布も水も神も一つだった。
 本日の東京。緊急事態宣言下。満員電車をやり過ごす間、このような投稿をしている。 ピークを過ぎたとはいえ、1400万人の人口で毎日3000人前後が陽性と確認されていく。満員電車は1両300人、1両に1人は陽性者がいると考えた方がよいだろう。在宅勤務を交えなければ毎日2回。週5日。ウイルスは3時間は空中を漂うらしい。ワクチンでもうたなければ10人に9人はかかる計算なので、やはり、公共交通機関は避けたいところではあるが、致し方ない。 さて、気を取り直して、薬草の勉強でもしよい。薬草の飲み方をぐぐっていたところ、カキドオシについては、ギルという飲み方があるようだ。蜂蜜を入れて、甘くして飲む。カキドオシは、シソ科なので、蜂蜜はあうだろう。 小生の美束の家は一面にカキドオシが生えているのだが、今年は、ゲンノショウコの割合が少し増えている。家から河原におり、花崗岩の白砂にもカキドオシが生えてる。白い砂に翠の色が生えてさわやかである。村の倉庫でみた押切。古い道具というわけではなく、現在でも購入可能である。ちょっとさわやかな気持ちになる飲み物である。
美束 戦争の時    飛行機が落ちたころは、村中出よ、ということで、出たんだけど、大垣の空襲があるころで、どうせよ、という連絡が入らでね。乗ってた人は寝とったけど、倒れたまま。いろうことができなかった。  尾西の上の方、山の尾根をすっとかすって落ちた。発動機は下の谷まで。飛行機の部品はどうしてもよいと言うことで、入れ物つくったり、ジェラルミンでなんかつくった。  あくる日に、亡くなった人は火葬して、何人も乗っとったよ。日本人。大垣の空襲のあるころ。処理は命令ができないで出来なかっ
美束 戦争の時  戦争の時に、六社神社で蛇の卵を見た。100や200じゃ無かった。神さんも一緒になって難儀したという時じゃでな。戦争の大分、後の方さ。あくる日、中から鍵があかとったと。 ちょうどうちのおじいさんがいるところじゃったで、そんなら村中にお参りせよまいかということで、村中全部にしてさたしてみんな参った。終戦なる前。神さんが六体ござが。顔かどうかにぽつんぽつんと傷があったと。直しに出した。
笹又と小宮神 敦賀で炭焼き。子供が小学校入る、2、3年前に帰ってきた。昭和30年から35年ぐらい。それから、おばあさんに子供見てもらってまた、笹又で炭焼きへ。 敦賀の炭焼きは良かった。炭焼きはここらで千俵ばかり、向こうは二千俵。山の木の値段はこちらも高くて、1俵100円、向こうは10円。 長者が住んでいた土地だとかで、山が開けていた。集福寺の駅でちょっと歩いた。奥麻生村。4月から11月いっぱい。1回で180俵。ここでは1回100俵にしかならない。半月で一杯焼けた。ここでは小さい80俵なので、利益もあった。 キンマで出した、いっぺん、35俵ずつ。炭を集めるどばに運び、そこから業者が買っていく。小宮神から7、8人いた。 笹又には40軒ぐらいあった。じゃがいも、大豆、小豆、さつまいも、なんでも畑でつくった。炭、薬草、蚕は春子と夏子。 学校は古屋に。冬になると中央の学校。冬にこっちに帰ってくると、わらうち。ぞうりをつくる。 小宮神のお寺さんは5日講がない。 ネギさんは52と80に2貝。月参り、祭り、山の講、月の最後の日と。1年に23回ばかり。 おかみむかえは村中で出た。全部で1石集まった。俵で300俵、1石2斗ぐらい。100戸ぐらいようあった。29日の晩、一晩冷やかして、お昼までについて、3時、4時にとりいにく。おかむかえとは神様が帰ってくる日。 歌舞伎は4月の祭り、村の広場で。いっちゃほい、いっちゃほいって、一晩で済まない。二晩、2時まで。子供のころには既にやっていた。 麻は井戸の付近で皮を蒸して、かねですっと押すと川がとれていく。着る物は麻。おばあさんが糸まわして、ずぼんを作ってもらってはいた。 桑の木を村の人は「もりき」といっていた。お地蔵さんに向かって大きな桑の木がある。ああいう桑の木は何をつくっても、照りが出る。茶ダンスでも桑の木って言ったら高かった。 笹又から三里で垂井。伊吹町の大久保にも出れたし。 笹又に関ケ原の南宮さん祭りに歩いて行った。綿菓子欲しさにおばあさんに連れていってもらった。木之本地蔵に参ったという話もある。 笹又に、大豆、小豆、さつまいも、春日豆、じゃがいも、さといもを取ったのをおいてあった。冬になって、それが無くなると笹又についていって負わされた。片道2時間ぐらい。 焼き畑は奥馬生でやってた。そのころ焼き畑をやった。白菜、大根、焼き畑は虫が来な
滋賀県からアサムシのおかまを 安土 36キロのおかまを  「麻蒸しのおかまはうちの親父が滋賀県から買ってきたんです。長浜から。行って買って、背負ってきた。長浜にはなべとくっていう鋳物やがあったみたい。そこまで行って買ってきた。」  と話すのは新川定琴さんだ。  長浜から姉川を通って、七曲峠。峠を越えると吉槻って部落に出る。吉槻から登っていくと国見峠に出る。国見を超えると美束に出る。  「36キロのお釜を背負ってきたんです。」  大正か昭和初期。親父とおじいさんと親子で行った。はそりも買ってきた。いかにもえらかったということをしょっちょう話したもので、わし、ヘルスメーターで計ったら、36キロ」 「この人の親父は力持ちではあったでな。奥さんをこの人の隣からもらったけど、家財道具を背負って、ここまできてくれた。市場から米60キロ背負ってうちまで来た。」 と言うのはけいおさんだ。
 栽培禁止直前に績まれた麻の糸を見つけて、麻布にした人がいる。  そんな話を聞いて、上ケ流に向かった。お茶畑で有名な集落の上方で待っていてくれた。畑があり、畑からは古い器も出ると言う。上ケ流は土岐家(室町時代)の伝説も持ち、畑近くには女郎谷がある。その谷の水を沸かすと血の色になると聞いて風光明媚な土地も、誰かの生の上にあることを実感させられる。    戦前、春日にも麻畑があった。麻を蒸すお釜があり、糸車があり、麻機があった。戦前まで、布は麻でつくられ、特に、戦争中は貴重な布として盛んに織られたが、麻は普通には見られない。  織った麻布の一部が残されているが、絡まらないように編まれていた。蛇のようだと思った。茶色い糸は一反分の長さであり、縦糸に使うものだった。  昔の物を復元することは大変なことだが、それ以上に、何かあるのは、布を織った時の記録のノートやら、100年も前の番茶から染めた暖簾のせいだった。人の残した物を大事にする人なのだ。  ノートは順調な機織のというより、糸つなぎの記録である。糸切れの原因と対処法、一日に織れた長さが集まってくる古老の言葉とともに書かれている。  「糸が切れたは結びもなるが、縁の切れたは結ばれぬ」。88歳の古老が、かけた言葉だ。そんな言葉があるくらいだから、昔から糸は切れやすかったのではないかと分析している。「だんだんと織らないかん」と古老が言う。古老も、本当は、そううまく行かないのはわかっている。    「糸が一本切れるごとに、機結びをし、かざりに通し、筬に入れ、糸を織前にマッチ針で止める。」。麻布の裏側は機結びにした糸がそのままになっている。  「縦糸が本当によく切れる。糸切れやかざりのゆるみ、つりひものゆるみ、いくつかのたてすじの原因」。  しげのさんの糸は縦糸だが、量が足りなかったので、縦糸に中国のリネンを薬草で染めて使った。  毛羽立ちがひどく、緯糸の杼が通らなくなる。隙間をあけ、杼を通す。乾燥をさけるために、植物の液を塗るといいと、アドバイスをするために工房にくる人。工房は美束の奥にあったが、訪れる人は多かった。  農作業の合間の機織だったが、機織を前にすると、おを績んだおばあちゃんの姿が浮かびあがったと、と書いている。しげのさんの糸には、太い部分がある。糸をつなげた場所で、おを績むのは冬の間の作業だった。  「麻を績むとは
 おなかの中に子どもがいた時でも、反俵っていう30キロを、田んぼにあったのをおねだした。谷山に行く途中に田があって、じいちゃん、ばあちゃんは、とまりこんで、田んぼをしていた。刈り取った俵をおねだすのは私の仕事、自転車で行って、歩いて、せたで負んで、道に出す。それを運ぶのは父さんの仕事。父さんは仕事から帰ると、私が田んぼからおねだした俵を取りに行く。 田植えや稲架かけも、生まれる寸前までやった。 茅刈っていって、茅をとる場所も谷山に行く途中にあった。川をこえて番線が伸びていて、自在鉤を茅にかけると、自動的に降りてくる。針金をたたくと来るという合図。針金のひびきでだーんと降りてきて、自在鉤と茅がどんどん降りてくる。 茅も夜にお父さんが道まで取りに行く。 春、草とった後に、草を畑にしきつめる。お茶畑に。いもくさといって、日照りが続くと、茅を入れる。 おじいさんの炭は売れていて、釜から出すのを手伝った。昭和50年生まれの子供は小さなそりをつくってもらって、それで釜から出した。上の子らは田んぼで遊んで、落ちてべたべたになって大変だった。 田んぼはいま、木を植えてある。
 デコボロ山 上ケ流 デコボロ山というのはね、デコボロって人形をつくっておいて、そこに人がいると思わせて、そこに敵を攻めさせる。実は人形で、そこへ攻めているようにみせかける。土岐の時代の話。 人形をデコボロと言うんだ。
  炭焼きの記録 昭和7年、89歳。川合 川村さん  京都の北桑田郡、小浜へ出る峠、つるがおかで炭焼き。子どもを義務教育へ入れる年まで。  自分は、親にね置いて行かれて、おじいさんとおばあさんに面倒見てもらたけど。親と別れるのがつらかった。そのつらさがあったので、そのつらさは子どもに味合わせたくないと。  小学校を卒業したら、炭焼きと軍隊しかなかった。川合で生まれ、30年に、家内と結婚。  小学校卒業して、飛騨の久々野の奥に。久々野から、あげみっていうところで、たかねとあおやで分かれる。あおやの方の奥へ炭焼きへ13年。冬場は12月にもどってくる。4月まで川合にいる。この近くに山が無かったので。  分焼きというのは、親方がおって、その親方の山をば一表いくらで焼かしてもらうこと。久々野からだったら、歩いて。5里あった。  家は行ってからつくる。はじめは親方の母屋にすまわしてもらって、そこから小屋をつくって。つくるとやうつりといって、親方のところから荷物を持っていって。窯をこしらえる。炭小屋も立てなければならない。それで、秤にかけて15キロ。すると、15キロきっちりで検査とおらんで、貫目にすると4貫6、7尺ないと検査が通らなかった。  「ぬしやがごきはざかす」。という言葉は、うるしは自分できれいにやってるので、ご飯を食べてるとおもってみたら、はげたっぷりの碗で食べていた。炭焼きも、くすぶったところや、めしは柴で。炭は、買ってもらわならんで。商売となると。  川合では、ひるがの高原へ、キンマつくって、ひっぱったという子が大分おるよ。  きんまは、にんわかにできんな。樫の木を立派なええものを、厚みがキンマにする材料、樫の木。板にひくのは5センチぐらいの厚みだね。板は25センチもあれば喜んだ。種油を塗ってね。それが上等な油だった。  リョウブとか楢とか、をばんぎにしいてね。二本のバンギにその板がのって。三本目にかかるぐらいな幅に。ばんきに三本にのらないかん。キンマの長さによって、ばんきの間隔は調整。間をあけると、用意するのが大変。  炭の出るまでが大変。炭竃をつくって、炭が出てくるころは、ほおの木が咲くころ。そのころには、それまで、親方に借りて食べとった味噌やしょうゆや米、借りていたやつを払わなければならない。また、お盆にくる、費用がいるやろ。大変なんじゃんね。  寝小屋ってつ
 戦争 昭和15年に古屋で火事があった。中山の製材までは道が来ていたが、それから先は道がなかった。20軒が小さい小屋をたてていた。大東亜戦争。アメリカとはまだ何もやとらん。 消火栓もポンプも何もない。 父親は戦争3回。訓練1回。フィリピンのルソンで亡くなったと一緒にいった人が教えてくれた。20年の3月。 この村は大東亜7人、シナ事変7人。院号がついてるので、戦争でなくなっているのがわかる。勲七等。四井4人、松井2人、宮内。 シナ事変は下の道にある。 農兵隊というのは、16、17で、まだ兵隊に入れない子供。 鐘は戦争に出して、戦後買ったんや。
 熊笹 熊笹は三メートルになる。だから、遭難するんだ。熊笹の中に入ると。
 津島神社は、おてんのうさん、っていう。 昔、笹なんかを備えて。それを持って帰って牛にくれると良いっていって。 家は田んぼが少なかったら牛はいないが、久瀬の方からでも参りにきた。 安土は牛をずっとひいて、奥の田んぼに。 向こうから帰ってくるときに、つなが外れた。だっと逃げ出してまって、家に帰ったら小屋にはいとった。 子供のころは2頭おった。養老にとさつ場があり、そこの人が買いに来た。車にのせるときは嫌がっていた。 わらくさ刈って、毎日。農耕用。 長者の里がまるやまっていうんだけど、あそこに共同で牧場つくっとった。市瀬の人。夏場は放し飼いをしていた。山がまるくて、良かった。
 美束の六社神社の鳥居は、いまでも石を切り出したところがわかる。 まつらって言って、田んぼのあるところ。 市瀬の下。バイパスみたいな新しい道をのぼりきったところの四つ角。その谷の奥やよ。
中山の麻 お父さんが麻をつくったの覚えてるよ。 長い棒みたいなのをゆでで、川はいで。 麻畑は貝洞にあった。不当ぼうになるね。おかまが宮ん谷にあって、そこに入れて蒸したね。 しゅーっとうちのお父さんがはいでおった。 きれに束にして。 麻は勝手ね。竹を刀のようにして、葉っぱとって、釜でゆでた。 釜でゆでたのが、今の拝殿の近くまで・道路の終点にね。あそこにゆで釜があったよ。 昔のこっちゃで、借りた。持ち寄ってね。束をぐるぐるっと立ててね。おおきおけを上にかぶして、麻を寸法決めてやった。 蒸すというのは、ふっとうして、みはからって、15、20分ではできん。 皮だけ、むければよい。 芯を麻木と言う。皮はいだ美しいのが麻木。麻木は、くずやの一番内側に並べて、かやの穂がのぞかんようにしたもんだ。 鬼皮をはぐ。カラムシもやっていた。カラムシは売買できた。 麻は冷たい水にさらして、繊維を真っ白にする。ひやけて。雪でさらした。 冬になる。そこから雪の中から掘り出す。 しゅうしゅう爪で。繊維がついたものが皮。皮をさらして、色をとおとして、雪にさらし。雪は白くする。鬼皮とってのこったものを。 それを二本、よりをかけてね。よって、結局、縄にする。一本でよりをかけてもよい。 上手に糸にしていくのがその人の技術。 麻は秋にかりとっておく、実がいって、葉っぱみればわかる。色んでこないとわからない。
中山 禰宜さん 禰宜も何回もやった。四つ足を食べてはいかんということは、終戦からこっちだけどね。 四つ足なんて、終戦から昔はあらせなんだ。あんなもんは昔からあらせん。肉みたいなものは。 中山の禰宜さんは、寒に入ると、寒のあきまで、1カ月間水垢離。水をかぶっていた。 ところどころ井戸があったので、その前で。水垢離するまえは、冷たいというものはない。わからん。通り越している。 寒いの入りとは1月の初めのころ。 かぶる杯数が決まっている。神様は奇数、仏さんは偶数ということになっていた。2468は仏さん。3579は神さん。3杯かぶるか、7杯かぶるか。 井戸の中に雪が入ると、水の上面に雪がある。それをひきわけといて。冷たいの冷たくないぞという話ではないぞ。 よう、あんなことやったと、ひどいもんじゃなと思っておるんだがな。人間って。 あんなことは中山だけじゃなかっただろうか。 中山はきつい部落のしきたりがあって、祢宜さんをやってると、火をたいた灰をかぶるようなことはあかんということで、炭焼きはあかん。 お医者さんがなかったもんで、悪くなると、何かの神さんの祟りじゃあらせんか。いっぺん、神さんに聞いてくれということをいうと、祢宜さんが参らなければならない。昔の祢宜さんは容易ではなかった。おみくじをひいて、この人は、いろいろ言わなければならない。昔の祢宜さんは容易ではなかった。氏子が祢宜さんを頼んで、神様に聞いてくれと、御無礼になったことがあらせんかと。  しきたりがあったもんで、中学生で祢宜をやらせた人もいる。親父が祢宜さんをやっとると手間がひけるもんで、中学生ぐらいの子を祢宜さんに出して、自分が炭焼きに一生懸命になっている人もいた。 節分のときは、祢宜さんが豆と豆をいるときに使った炭、あれと藁を短くきって、 祢宜さんが豆と豆をいるときに使った炭、あれと藁を短くきって、それを混ぜたものを、玄関入ってきて、台所から入って、座敷に向かって神さん拝んで、それから禰宜さんが祝詞をあげて、おにわそと、ふくわうち言って一部屋、一部屋、座敷も台所も部屋も炊事場も庭も。撒いて、帰ってたもんだ。朝から。40軒も50軒も参ってるで昔は。昼まで、えらかった。終戦で裃なかったんだね。 雪がふると大変だった。朝早いで、禰宜さんやってるんで。 家の人は寝てる人は寝てる。どこから歩くかわからん。三時ごろからや
 中山 太鼓踊り 祭りの記憶 覚えているのは、秋葉さんから降りてくること。親たちは、飲んどった。体 親父はスーツ着て、笛を吹いていた。 自分が中学のころはやってなかった。45年ぐらい前には終わってるということだ。 太鼓とふさふさで顔は見えない。まといだけは顔が見える。よく覚えてるな。着るものはみんな一緒。 神輿はよくつくった。新聞紙はって、そのあと絵をかく。三丈俵をつくった。鯛と宝船。子供はおっても2、30人いた。家のまえで神輿をわっしょいわっしょい。もらったお金で、秋と夏の何かでつくった。 一番上が中学生、中学生で音頭とる。家の前に神輿がいって。きよまさって家、こっちはゆのたにていう地域。ゆのたにの一番上に、みこし担いでいこうと行こうと、急でね。あそこは一つでいい、えらいで。 きよまささんの家のあるのはおけらむらっていった。いのたに、おけらむら、なかむら、ここは、しもむら。ゆいやま。おけらむらがあって、なかむら、しもむら。 青竹を渡してね、骨組みがあって、新聞紙はりつけて、最後に白い紙はって、色塗って。そのあとは、寺の130段から、だああと落として、壊した。怒られたことあったね。めちゃめちゃにしてまった。    
冬の食料  大根のじくを切って、葉っぱも入れない。軸のこんなところだけを兜付けっていって、冬場、寒くなるとあげてきて、焼いてたべて。それが中の葉っぱがあるのがおいしかったんだ。 葉っぱの上は茎っていって、そればかを細かく細かく切って、塩でつけた。 それを寒中にあげてきて、塩出しして、みそ汁にした。それが、おいしかったんだ。大根の葉を煮るだけよりおいしかった。 そういうことはみんな、忘れられたな。 田舎の冬は、そんなものばかり食べてた。 秋になると行商が来る。魚を50匹買うと、大皿に並べてな。塩ふって、塩づけした。生の魚を売りに来る。
 薬草  中山の薬草は禿山にあった。禿山ってのは、伊吹登山道をいうとある。はげ山の途中は、尾根がこんだけしかないところがあるんだよ。 キボウは食べた。キンパイソウ。トウキは、匂いが良い。その次がクロモンジだでな。クロモンジは木だで。 トウキは伊吹山行くと、自然に生えているのだけど。育たない?そんなことはない。種まいて、簡単にできるよ。撒いたらはえるがや、3年経つと、成長してまってあかんだでな。多分、3年で終わってしまう。花咲かしてまってしまいやで、花を咲かせんでおくと長引く。結局、成長してまうんだでな。一生が済んだということや。 この辺では、ゲンノショウコやらウツボグサ、いろいろ細かにあるでな。 栽培するってったら、そりゃ。イカリソウの栽培から。これはええと思うよ。これも、自然にいろいろはえるんだで。日光半分あたるぐらいにしておいて。それが栽培だで。 林道いくと、いちめんこあるところがある。伊吹山のふもとでも、あるほどある。この辺でもあるけどさ。安土で自生している。そこにあるってことは、上手に栽培すれば、成就する。かきどおしってのは、自然にどんどん生える。強いでしょ。 ウドグサだって、種まいてやったらいくらでもできる。休耕田に撒いたらいくらでもできる。ウドグサは牛にも食わせるなっていったくらいでな。でも、お風呂には茶色い色になるで喜ばれるけど。 薬草は、自然に生まれたものは、薬害もないし、薬草はいいと思う。          
見られなくなったきのこ 山へ行って夜、ヒカルやつがある。倒木にこう一面。蛍の光のようなもん。 あおいような光。 杉の倒木から出たものは食べれる。足がなくて木にひらひらしてなるのは食べれる。 サンゴに似た栗拾う時季にあったのはが全く見られない。ネヅミダケ。 サンゴ礁のように点々と山にあった。宝のように。 それが不思議と何十年見たことがない。泥から出てくる。みんなも見たことがないと言う。
 麻糸を績む 糸車 麻の皮からいとを績む。 皮は90年近くたったものを。 鬼皮をはぐ。 皮をわる。 杯でつなげて、かごのなかに入れておく。 糸車でよりをかける。 糸車が壊れたので、y夫妻に直してもらう。 管木をさしこんで、糸によりをかけていく。
 家の茅は萱場があった。禿山の萱場は共有地。 茅の色味方をみて、秋。茅を束に、一束、一束。青い茅だと中がむさってまって、葉がばらばらと落ちてまう。雨にもぬれないようにうらっぽをからげて。秋になるとその葉で。 茅の口っていって、11月の25日ごろ刈るようにした。11月の25日ごろに雪が降ってね。茅の葉っぱが雪で抑えられてまう。すると、立った茅があらせん。20日にしてもあかんだ。15日ごろに引き下げて、茅刈をやったもんだ。村中の欲しい人が。全部、葛屋のうちだったで。 葛屋は20年も30年もするといたんでくると、減ったところに、さして補わなならん。村中の人が行ってると思う。   7月の20日からからかりぼし刈。草を刈っては、草を干す。鎌で刈っては一つかみ刈っては置き。二日三日干すと乾くでね。それを束にしてね、進みして、春、畑もっていく。 自分の畑で刈って茶畑にいれて。春に。茶の間に敷いて。草のはえるのを防ぐと、肥料になるというので、くりかえしてやっていた。それが、生活。 マナベとか、カラムシとかは、一雨降ると、葉っぱがばらばらと降りて、軸だけになるので、量が半分になって。からむしやまなべといった、柔らかい草はよろこばれない。茅は雨が落ちんでよい。    薬草は、せんじて飲むではないし。かぜひくと、どうきやら、うつぼぐさやら、その辺のおおばこやら、ゲンノショウコ。村中にあったということもないが、夏のかりぼしかるときは、ちょっと別に出しておいて、とっておくのもあった。学校で、ゲンノショウコもってこいということもあった。ゲンノショウコを供出した。そういうのがあると出しておいてくれた。
炭焼きは三ツ星を見て。四井 国正 さん  中山は6月半ばに梅雨に入る。20日に梅雨があける。 9月1日ごろ大雨になる。厄日だ。天の川を最近、見なくなった。星の川。 炭焼きは三ツ星を見て、起きなあかん。夜が明ける前に、水を背負って山車て、朝ごはんを食べて、道具を研いで、天気が良いなら、木を伐る。
船で琵琶湖をわたり本山参り  本願寺参、本山参り、国見から、長浜まで出て、船で大津へ。大津から京都まで歩く。 握り飯をつくる。あぶっておけば、3日は腐らん。船賃ぐらい。日が暮れると軒先で野宿して言ってきたと。 国見とは、行きたくなるような。人を通らせる重要な峠だ。 高島郡へ、みそたまりや、よき、おの、くわを会に行った。親父の時代(話者80代) 高島郡の鍛冶屋町。お蚕の繭をもっていくぐらい。 国見を越えて、お伊勢参り。お伊勢参りは一生に一度いけばよい
 川からせり上がる上ケ流の集落の情報でSさんが待っていてくれた。茶畑からは古い器も出る。対岸の山も見渡せる、土岐氏の時代に、戦いで殺された女郎の伝説を持つ谷も近い。  観光地となった風光明媚な風景も、誰かの生の上に立っていることを実感させられた。    Sさんは先人の営みを布や染め物のなかに込めてきた人。栽培が禁止される直前につくられた麻の糸を見付けた時は、実際に布に仕立ててしまった。  その記録のノートを見せてもらう。5センチ、8センチ、20センチと1日に織れた長さとともに、糸との格闘を残したものだ。  終戦直後、栽培が禁止された麻の糸を織物にするといっても、横糸が足りなかった。中国の真っ白いリネンを百草で染めたが、鉄の媒染を使用したこともあって、糸が切れやすかった。布を織ったのは森の文化博物館のアトリエだ。    夢の機織ができると思った佐名さんだが、トントンカラカラとはいかなかった。  「糸が切れたは結びもなるが、縁の切れたは結ばれぬ」  88歳のおじいさん。 織の音が村中に響き、古老が機織を応援していた。「独りで織り切りなさい」。「切れた糸の跡は残しておきなさい」。    「雨の日は糸がきれない」  「機をじっと見てると、昔のおばあちゃんの『おをうむ』姿がうかんでくる」  「機織の木材と麻から取り出す繊維にしか取り出せない音」  そう記している。  「麻を績むとはこの字で良いのかしら」とsさんが口にした。  私は柳田国男の「苧績み宿の夜」の一節を読んだばかりだった。  「苧の糸を績むということは、麻の皮を灰で蒸して乾かしてよく曝して、白くきれいな部分だけを、爪の先で細く割って、つないで撚りを与えて一筋の糸にして行くことで、蚕の吐く糸の細いものを五つ七つと合わせていくのとは、仕事が正反対になっている。」(苧績み宿の夜)  麻は蚕から糸をとるのと正反対の仕事と柳田が言う。昆虫と植物の違いとも言える。sさんも“績む”という言葉を麻の説明に添えている。ものづくりの人は言葉にも敏感だった。
  長者平には誰が住んでいたのだろうか。壬申の乱の落人がすみついたとか、長者が金を隠したとか、泥棒がすんでいたとかいろいろな伝説があるのだが、その反面、津島神社やお寺の五輪塔はあり、人の跡は残っている。縄文土器が出て、弥生文化の跡がない。  一帯は貝月山花崗が分布し、その東側に美濃帯堆積岩が分布する。貝月山花崗岩は白亜紀中期と言われている。平と言われているように、峠に近いこの地が平なのである。  粕川上流のこの地域は表側である。中山に流れるのは長谷川、美束の川は表川だ。  何の表なのだろうか。貝月の表なのだろうか。  美束には、縄文の跡がある。岩井谷、細野、長者平遺跡。不思議と弥生遺跡は見つからない。鉱物が採れたかののような地名が残っている。砂小畑、金小田、別所。このほかにあるたつわか、じょうぶだいら、といった地名。  名付けには何層かの段階がある。この大陸にはじめに住んだ人、移住してきた人、  春日のむかし話は、偉人の話や落人の話も全て昔話だが、古層をあらわす昔話があるものだ。どくじについて、村の人に聞いても、入ってはいけない土地だとか、良い土地だとかの解釈になるが、独自ばばの昔話こそが、古層をあらわしているのではと思うのだ。 少し長いが引用しよう。  独地ばば(「春日のむかし話」より) 長者平に「あそこは独地じゃ。」といって、人々がよりつかない場所がありました。どうして村人たちが、ここを嫌うようになったのかについて、こんなお話したが伝わっています。  この長者の里に一人の美しい娘さんがいました。ある日のこと、しんせきの家は遊びに行くと、とてもおいしいものを食べさせてくれました。自分の家でも作ってもらいたいと思い、 「このうまい物は、なんというのかいのう。」  とたずねました。親戚の人は、笑ながら教えてくれました。 「ぼたもちじゃよ。」  そこで忘れないようにと「ぼたもち、ぼたもち」と大きな声でとなえながら、家へ急ぎました。どんどん行くうちに小川がありましたので「ぽいとこせ」と言ってとびこしました。今度はそのまま「ぽいとこせ」とくりかえして歩きつづけました。  家へ着くと「ぽいとこせを食べたい」と、お母さんに頼むのですが、なんのことか分かりません。  うまいものと言えば、河原にあるみょうがのことだろうと思ったお母さんは、娘にみょうがをとってくるように言いつけました
松は腐らない  きんしょう   道をつくるときに松の木を四つに組んで石を入れる。 松は腐らない。 いまは松が枯れてしまった。 中山は松はいくらでもあった。いまは、松くい虫がついて、ほとんど枯れてしまった。日本全部。 ならも虫がついて、みずならも。 古屋の藤川谷にもあったんだけど、ほとんど枯れてしまった。(松の間違い? みずならは二メートル以上の大木はマイタケが出る。 枯れだしたらいっきに枯れる。夏に枯れる、いまは、ちょっと止まってきたけど。 皮と木の間につく。 木を枯らしたかったら、淵から水分を上げるので、くるくるって回して枯らす。二周回すと枯れるが早い。 岩出や垂井はみずならが枯れてしまった。坂内から発生した。
 栃餅づくり 栃をとってくる。 川に入れて水にさらすと泡が出る。袋のまま。 泡が出なくなるまで1週間。 長すぎても栃が減るので長すぎてもいけない。 栃をむくのが大変なんよ。 とちくじり、この辺はがじり。三代使っているもの。大変だけど、だんなさんもやってくれる。   計ったら5リットル。 灰を入れる前にも栃はあっためておく。 升に盛り上げて三升の栃の実。ひたひたに水を入れて、昔の人は栃一升に木の灰を一升。 「分量よりも一升分は灰を入れなければだめだ」ということをおじいらは言っていた。 今日は三升五合。 灰はすりきり。栃は盛り上げて測る。  ごとごと煮る。  湯が沸いたら混ぜて。混ぜないと灰ばかりが下に沈んでしまう。3時間ぐらい。  上の方がしょうゆみたいな色になると、とおってる(浸透している)。  浸透していると、灰汁をぬいて1週間(3、4日)。  すぐさますと、中が白い。それは浸透していないということ。全部が同じ色に。  通っていないときは、灰を足す。  灰は里芋の葉を乾かしたものを。おばあに教えてもらった。 今日は一升足す。 入れすぎてもいかん。 つく前に熱い湯に一晩。昔の人は水に二晩。 灰を入れてから餅をついたら、ビリーとして、入れ過ぎると良くないな。 昔は栃一升に三合のもち米しか入れなんだ。抹茶色の本当の栃餅。一升五号の餅米に二キロの栃だが、本当に赤いのは、栃一升にもち三合しかいれん。 お宮さんのところの小学校からこんな雪んなか帰ってくると親が栃持ち焼いてくれた。夕飯の前に味噌つけて食べた。
  恋折峠と鉱物    恋折峠では、マンガンが出たが、掘りつくされて閉山した。さくらマンガンといって色の赤くついたマンガンだ。  マンガンは、桂谷に出た。みやうちさんは中学生のころ、背負って出した。奥の方は飾り物になるようなものはあったけど、入口は飾り物になるようなサクラマンガンではなかった。子供にはかなりの距離だった。  貝月山花崗岩は白亜紀中頃の約9500万年前に、美濃帯堆積岩類を貫いて形成され、2・5から3キロの範囲で接触変成作用を与えている。だから、貝月山花崗岩の南東側にあたる川合には、石灰岩が帯状に分布し、ドロマイトやスカルン鉱物が作られている。鉱物組み合わせは変成の程度によって異なる。  ドロマイトは、珊瑚などの生物が海底に堆積して石灰岩になった後、カルシウムの一部が海水中のマグネシウムで置き換わって生成したもの。畑に入れると良いという。  峠からはなすび平に行ける。ししがいる。柔らかい泥だから掘って、ししが水を浴びる水たまりがいくつもある。獣の匂いで担う。三滝谷をのぼっていくことができる。  草場があった。カタクリの花盛りだった。春いくといちめんこ。先織った。山の向こうがおかぼら。どんどこ。えぼし岩へもそこから行けるんだ。国見も禿山もおねばかりで行ける。こっちへ降りてくればこより峠だ。
 中山 鳥居の話 川合から奥の道は大正10年ごろに出来た。だから、中山の鳥居も川をひいてもってきた。 石は川合と小宮神の間でとった。 春日の人全員集めてニンプでててもらった。 川に道をつくってコロひいて、ぐうぐうと手で引っ張ってくるんや。 春日中の人がほとんどくらいひっぱったらしい。何百人て来たんだ。もともとある石を、きれいに割って持ってきた。 お宮の鳥居のところで、きれいに成形した。成形するのは石工さん。 川をきれいにならして、木をひく。その上を転がしながら人力でひっぱった。 ころっていうのは、丸い木を下にひくと、木がコロコロ回るので、これをコロという。 それまでは鳥居がなかった。ニンプを頼むぐらいだから、中山の人はお金があった。鳥居ができたのが大正10年だ。 おじいさんが、きへいといって区長をやっておった。おじいさんはこんな縄を二階においておいた。なった縄を、なって。幾重にもして、それをみんなで引っ張った。何百人。春日中から来て。 三トン。重機がなかったので、起こすのに、ぐるぐる回して。 中山に金があった。木とか炭焼きで潤っていた。中山は、集落の付近が中山の山。他の集落は、山が無かった。 中山は背負っておったもんで、ちょっと裕福。ああいう大きな鳥居が出来たと私は思う。
恋折峠に登ってみた。    道はいくら探してもない。表面にじゃりが一杯できている。表土が流れて、じゃりがでた。畑してあったんで、もっと良い泥がなければいかんのに、流れてしまった。  落葉樹は道がわかる。表面に昔の道が必ずある。杉の木の植林がしたりきってあるので、怖い存在だよ。よけいな土砂がますます流れる。  登り谷なんか行くと、岩が出てる。土が流れてまって。いかに水が流れているかということだ。  金ほど重たい石もある。マンガンが出るようなところで、そういう石がある。  
 地名 古木洞は、蛇が住んでいると言われていた。おじいさんが蛇が鳴くのを来たと言った。穴があいていた。気持ち悪いのでよういかん。 大平では、大蛇が死んでいた。骨だけになって、その水は臭くて飲めなかった。 なすび平 昔、おじいさんが勾玉を拾った。ししがおるぞ。柔らかい泥だでな。猪が水を浴びる。 池がいくつもあるよ。ちいさいけどさ。臭いぞ。動物のにおい。 みたき谷から登れる。V字になったところ、檜は100年以上経っている。 V字の向こうは、植林していないところは、春はカタクリの花盛り。それが終わると鬼百合がイチメンコに咲くんだ。
 地名 恋折峠   美束から中山への道は恋折峠(こより峠)を超える。地蔵様はみちわけ地蔵というのは、中山の四井国正さんだ。  「地蔵は道分地蔵じゃないかと思う。お道を、右へ本道、左を山道。左へ行くと山の中に入ってしまうという。そんな案内。恋折峠にある地蔵は美束へいく道と山に入っていく道を分けている」と中山の四井さん。「その地蔵を頼って旅した人がおるわけで」  「俺ら子供のころは花があるとちぎって、地蔵さんに備えた。なんでもかんでも、供えておけと」。  恋折峠は、四井さんの郵便屋さんお父さんも通った。香六、小宮神配って、こうもり山を通って寺本。尾西めぐって、それから、恋折越えて中山に戻って。それから古屋行って郵便局へ。これで1日。時間があるときは六合も配った。  道分地蔵は、集落の最後にも、廣澤にもある。 道分地蔵がなければ、迷ってしまう。「小学生のころだか、禿山から漁師が骨を拾ってきたのを見た。行方不明になった人で、着物かなんか知らんが、破れた着物を広げて見せた人があった。山に迷ったんじゃないやろか。禿山で。中山の墓地、杉の木の下に埋めた。  恋折峠には百日紅があり、お地蔵さんがある。降りないと、山に入っていってしまう。山はなすび平に続く。   中山へは裸ろうそくで行くんだ。裸ろうそくって、ふところに入れてと聞いたのは美束。恋折って、恋が折れたからだよ。そんな話なんで、誰から聞いたのか名前は伏せておこう。 「てつゆきやま、もんきちやま、じゅうきちやま、いさおやま、げんしろうやま、こより峠」 美束側の名前だ。お寺の山もある。  中山と美束と、どっちが峠かと争って、30人も40人も行って争った。水の流れで境を決めた。50、60年も前の話。お寺の山が境だ。  地蔵が倒れたのでおこした。水で洗わな。もっと、下にあったと思う。山の境がわからなくなったって、それは俺らが死んだあとのことだ。山に帰っていくだけ。
  焼き畑 1 「8月に雪が降ったってのを知っているか」   『天保七年八月五日雪降り五穀稔らず同八年大飢饉にて餓死するもの道路に満てると云ふ。寺本村七十餓死せりと云ふ。 天保8年米相場百文に三十八尺なり。大垣藩中より米一切を買うことできざりし。金を蓄えて死セシ多数あり。米の相場は百文で4号8尺。』(西濃春日村古今ノ事蹟明細記) 「火山の噴火だと思う」と駒月さんは言った。その時期、浅間山が噴火している。雪は灰かもしれない。  天保7年1837年。江戸後期の大飢饉で、寺本だけでも70人 が死んだ。 「お寺さんが、よう供養してくれた、その時の恩があるよ」と山口さん。  それから60年後の1897年。明治政府は焼畑を禁じる。禁令がどこまで、浸透していたかはわからない。古老には、焼き畑の記録がある。  一年目はヒエ、二年目はアワ、三年目はエーを蒔いた。エーとは荏胡麻のこと。  焼畑をムツシと言う。  春日には、焼き畑をしていたころの、歌があり、昭和初期まで歌われていた(美束の民謡には、生涯無い(しょうがいない)という民謡があり稗・粟。胡麻、荏を採り、主食にしていた頃の哀歌と言う(駒月氏収録))。 その一、 しょうがいない、しょうがいないと言うたこてゃないが今年しゃしょうがいあのあたり年しょうがいない その二 胡麻えがら三ばからげて四わ炊いた。 三ばからげて四わ炊いた。  山口氏によると、焼畑は3年でまわす。ひえ、あわ、えが3年目だ。そばもまく。1年に2回。放っておいても薬草が育つ。  春日村史によれば、共有林を個人に分割したため、焼畑が不可能になったこともあるが、個人では行われていたようである。  ムツシという地名が残っている、春日から粕川上流に向かうと品又谷、大平谷に分かれる。王ムツシが大平に、繁ムツシが品又にある。ナギ、ソウリも焼き畑を示す言葉だ。  昭和12年(1937年)。大きな開墾が長者平付近で行われる。春日村史には、「おりから日華事変ならびに第二次世界大戦のため、農業の資材も機械もなく、その上、働き盛りの若者は戦地や軍需工場に出て、農家の労力は極端に不足した。その中で、もっこ・つるはし等の原始的作業法で汗とほこりにまみれ、食料増産のため開墾した」。  大開墾の地は、村から離れ1里。長者平といい、壬申の乱の落ち武者伝説を持つが、いまの、景観のもとができたのが、
 ショウガイナ  美束の博物館で灯篭祭りについての企画展が行われた。展示されいたショウガイナは、しょうがいになったり、しょんがいな、になったり、しょんがえになったりする。  囃子言葉として使われているのは、全国だけではない。同じ美束の盆踊りの記録にも「しょうがいな」が踊られたとある。  美束の駒月作弘氏の記録。  「美束の民謡には生涯無い(しょうがいな)という民謡がある。胡麻柄、えがらが最も古くから唄われ先人達が焼畑を作り、稗・粟・胡麻・えを採り主食としていた頃の哀歌である。 其の一節  しょうがいないしょうがいないと言うたことないが今年しゃしょうがいないのあたり年しょうがいな(世の中が豊作をよろこんだ歌) 其の二節  胡麻柄えがら三ばからげて四わ炊いた  三ばからげて四わ炊いた。  「年暮れ近く寒くなってからの焼き畑仕事の哀歌と思われる」との分析。 「その後、よそやま(村外の山)へ出稼ぎに行くようになり(大方は炭焼き)、根尾・方面からほっそれ民謡が入った。  発心寺・善照師匠が京都東本願寺へご奉公お勤めに行かれた時にも、盆踊りを伝えた。紡績工場で盆踊りを習ってきた少女たちも郡上節、高山音頭を習ってきた。  「昭和12年品事変勃発。続いて第二次大戦となり青年たちは戦場へ出征。盆踊りは中止され敗戦後昭和21年、食料不足に苦しむなか、すこしばかりの憩いにと盆踊りを再開。その年の踊りは、ショウガイナ、嗚呼盆わな、高山音頭、郡上節。翌年からは拡声器を揖斐町の大野ラジオ店から借りて流行りの炭坑節、その翌年はトンコ節とだんだんとテンポの速い流行ものを追うようになり、昭和初期まで流行った。」  「神社のお庭に花輪を下げ、音頭とる人は花輪の真ん中で蛇の目の傘をさして若い男女2人で踊っていた姿が夢のような記憶に残っている。それは著者70年前のこととなった。」との記録も美しい。  盆踊りをを踊りながら、この世の厳しさを忘れる踊りとして書いたものに、柳田國男の清光館哀史がある。  「雪国の春」に収録され、柳田1920年、1926年と、三陸海岸の漁村、小子内を訪れた時の記録である。  「おとうさん。今まで旅行のうちで、一番わるかった宿屋はどこ。そうさな。別に悪いというわけでもないが、九戸の小子内の清光館などは、かなり小さくて黒かったね。」から始まる記録は教科書にも載っている有名なものだ。
 地名 寺谷 不動の滝 大吹はお天王さんから行った谷。 大原林道の行き止まりは昔、茅場があったけど、いまはありゃせん。雑木やら杉やら植えている。   田んぼの中歩いていってね。大きな梨があってね。おじさんが、とってくれた。    大原谷の上にいらす谷ってのもある。こやん谷も。 砂小畑はならん谷の奥。板立、つくり道。 龍若はお天皇さんの下、スキー場の谷が蝮畑。まむしばたの反対がろくほら。 あなくぐりは上手に歩かんとならんところ。曽番谷の下。 さすら谷は曽播谷の上。板立はならん谷の下やでな。   丈夫平はスキー場の上。丈夫平と何やらの滝)野営場の奥の滝、少々渕)はつながってるもんで、娘の時、一人で行ってね。 渡瀬で顔洗ったり何らしてきたら、おじいさんに叱られた。   寺谷。字は別所。 寺谷から上にはいかいいかい石があってね。そこを水が流れとるよ。 お経さん読んで参ったりしたら、えーっとよけい落ちるような気がした。 寺谷の奥の方やわ。雪あるのにお母さんが滝にうたれに行って装束着て、ぬれた足袋はいて、 すぐ降りて来て、びちゃびちゃになって、飛び降りてきた。風呂沸かしてね。   かぐらはここから橋渡るとかぐらだけど。姫なしは、かぐらってとこ。広い田んぼがあるのが姫なし。 たとらだにには、栃の木あるけどね。ならん、栃の木だ。   曽幡谷の下があなくぐり。さすら谷は曽幡谷より上。
 蚕で川が白い おじいさんは賢い人だから人の家の蚕を見て歩いた。 中山なんか、蚕のために建てた家だ。 二階が生活の場で、一階が蚕を飼う場所。 暖を炭で取った。蚕のために。 炭は炭酸ガスが出る。青い灯がでる。 蚕がじょうぞくになると、仕事をせんようになった。 じょうぞく、これから繭をつくるところで、仕事をせんようになった。新しい家を建てたら、空気が入らんの。頭がいかれてまって。 長谷川が蚕で白くなった。蚕をもって流すもんで。 うちばっかりじゃあらせん。あかんうちは全部流すやろ。 しんくろ渕が白かった。
 トチシタ 栃は昔から大事なんで、この栃はこの人のもの。その土地が誰のものであっても、その栃はその人のものだった。 兄弟でも栃がないと土地を分ける。トチシタというのはその権利のこと。栃の実ほど大事なものはなかった。 ヨモギ ヨモギも苗代をするまではどこにあってもいいけど、苗代してからはとってはいかん。 苗代をするのは八十八夜。 人のところのヨモギをとってはいかん。 草にもこだわりがあった。草を田んぼに入れるから、他所の田んぼに入って草を刈ることはいかん。下の人に勝手もらうという格好だあったが、届くとこだけ刈る。二件で話し合う。
  【蚕と大般若】 大般若さんの季節がやってきました!!大般若さんの日に聞いたことをまとめておきます。 (中山観音寺、2019) ★ ★ ★ ★ ★ 行事はいろいろあるが、大般若には来ないかん。大般若さんは、なんでも願いが叶うありがたいお経を読む日だ。料理はいろいろやってあるけど、大般若さんには山のもので料理をつくる。昔は、食べ物がなかったでね。五穀豊穣とか祈った。 昔はね、7、8と2日あって、鳥居のとこに出店が出ていた。おっさんの声が大きいてね。外まで聞こえたと。中央の人たちはみんなお参りしたんだ。青年団がみんな、何十人もお参りした。礼儀作法を教えるためにね。村の役にここであいさつするわけ。区長さんとかがね。 虫供養の意味やったんや。虫供養というのはね、蚕を殺すやろ。虫とかいろいろ殺すけど、一番ひどいのは蚕。繭にして、蝶になるのが入ってて、それを殺すんやんで。繭を作ってまって殺されてまうやでね。 昔、寝るとこあらせなんだ。腹の上にも蚕。家中蚕だらけ。昭和37、38年ぐらいまでね。桑畑ばっかり。蚕の養蚕組合が川合の小学校のところにあってね。そこから小さいの持ってくるんや。 ゴミみたいのが3べん、4べんとやると、脱皮しておばあさんになってく。それを殺してまうんやでね。うちんなか繭かけておってね、この間まで、家にその跡が残っておった。最近、やっとその跡が消えたがな。 蚕の音がしてるんや。家中。 60戸のうち8戸が蚕を飼っていた。いまのお茶畑のところに桑を植えた。桑を植えなくなってから、杉の木を植えた。その杉の木も、立派になっている。蚕があかんようになってきてから、25歳から炭焼きをやっていた。 春日でやっていたのは春子と秋だ。秋子は炭とかぶらんようにやっていた。桑はセタで負んできた。50キロの桑を摘んで運んで、それから細こう切る。春子ってのは、前の年に伸ばした桑を切ると秋になると、切ったあとから芽が出る。秋は葉っぱをきって、春が出るように。1mぐらい。1年で枝は伸びる。葉は指輪に刃がついていて、ぷつっと、切れる。 蚕は4回、脱皮する。脱皮をするうち、うとうとする、うとうとすると繭のうちとなる、糸を吐き出す。 繭の値段には高い時と低い時がある。だんご繭がある。繭が2つ、ひっついているもの。製品にならないということで、母が出荷せず、家の真綿にするように、していた。製品になら
  植物で調べたこと教わったことを掲載しておきます。 【フシの木と虫こぶ】  春日では江戸時代の年貢として一斗の五倍子、18リットルの五倍子ですからかなりの量です。五倍子ともいい、「フシ」の木にできる虫こぶで、ショウガのような形をしています。お歯黒の原料になったそうです。フシの実は塩辛い味がします。  「虫こぶである五倍子は、フシの木に白膠木アブラムシが寄生してできる。タンニン60~80%を含む」  採取して熱湯で中の昆虫を殺して陰干しにします。使用するときは、粉末にし、鉄片を加えとのことです。写真がフシの木です。しょっぱい味がして、山の中でなめたそうです。 【ヌベシ】  写真はヌベシというそうで、ノリの役目。機織りをした最後の始末に使ったようです。 ヨモギと鉄砲  伊吹山で織田信長が薬草を栽培しようとしたらしい。伊吹の博物館で見たことがありますが、ヨモギで鉄砲の火薬をつくろうとしたという展示を見ました。 ヨモギから火薬をつくる焔硝製造法は白川郷にもあったようで、その作り方は、まず一年目に、床下に縦横4m深さ2mくらいの土穴を掘り、そこに稗枝を敷き、その上に交互に蚕の糞やヨモギ・キツネウドなどの山草を20㎝ほど重ねてそれを年に1から3回まぜあわせます。その上に糞尿をかけると5年目になって煙硝土が出来、煙硝土から冬場に灰汁あくに煙硝土を桶に入れ、桶底から灰汁をとりだして煮詰め、灰汁汁を中煮・上煮と何回も煮詰めると煙硝の結晶ができ、これを土用前後の暑い季節に20日ほど天日に干して乾燥するという驚くほど手間のかかるものです。  また、中国地方の口伝では本願寺門徒の間でヨモギの根に尿をかけたものを一定の温度で保存することにより、ヨモギ特有の根球細菌のはたらきで硝酸が生成されることを発見し、大量の火薬となったことが伝えられています。
中山  道分地蔵 80代 男性 恋折の地蔵は道分地蔵じゃないかと思う。お道を、右へ美束、左を山という。 恋折峠は昔の大通りだ。 村の中には、廣澤にも地蔵がある。古屋へ行くのと、はげ山へ行くのと別れるところにもあった。 道分地蔵とは、その地蔵を頼って旅した人がおるわけで。俺ら子供のころは花があると地蔵さんにちぎって、そなえたね。子供のころから、そういう教えを守っておる。なんでもかんでも、備えておけと。 廣澤の地蔵さんは、林道の上。禿山へ行くのと、三ノ瀬を降りて古屋へ行くのとあった。古屋へ行くのに、河原へ降りると橋はあるが、岩盤があるもんで、橋ばっか渡る。橋なんてのも丸太、切ってきてね。2本、3本と並べたようなもの。ちょっと大水が出ると橋が流れる。橋をくくって、そこに大体、大きな石にばんせんでくくりつけておいて、水が流れるとそう流れるままに。そして、また、ひっぱり。橋を渡らなくてもいいように、中山の部落を通って、いまの天理教さんの前をとって、製材へ。そこが三ノ瀬。迷わないように。禿山へ行く道と分けて。 いの谷の終点にもみちわけ地蔵。屋敷を通り、恋折峠へいく道を教えとる。その家から、尾根を伝って上がって行くの。尾根を伝って、露天掘りのところへつながる。露天掘りのところを行けば、そこが恋折峠の道になる。 地蔵さんが道を教えてる。小学生のころだが、禿山から漁師が骨を拾ってきてね。人間のさ。行方不明になった人だわね。着物かなんか知らんが、敗れた着物を広げて見せた人があった。こわかった。猟師があっちこっち歩いたもんで、そういうものを見たんじゃないか。回収してきて。山に迷ったんじゃないやろか。禿山で。中山の墓地、杉の木の下に埋めた。
弥三郎 アニメ おかげか、本屋にいっても鬼の話が目につきます。鬼とは怨霊?征服された民族?鬼にびびるのは、本当は正当性があるのに、滅ぼしたことにやましいこころがあるからでしょうか。 春日の昔話の伊吹弥三郎は伊吹童子、ざっくりいえば、鬼退治の話ですが、滋賀県側の弥三郎伝説になると、退治された弥三郎が祟りとして大風をおこすので、神様として祀ることになります。 この弥三郎伝説は全国にあるそうで、一カ所だけ弱点があるのを攻めて倒すというのがポイントだそうです。(「鍛冶屋の母」谷川健一)。鉄人伝説の一つというのを「鍛冶屋の母」が紹介しています。この本で興味を持つのは「千疋狼」です。これも鍛冶の話ですが、春日には千疋という地名があるからです。伊吹童子の伝説では、鬼退治のための馬をつないだところになっているし、同様の話は見つからないので、何とも言えないのですが。千疋というのは鍛冶集団に見られる地名のようです。 伊吹山周辺は盗賊が住んでいたようですが、鍛冶集団も住んでいたかもしれない。いろいろな時代があったように思いますが、この千疋には応仁の乱の時代の山城があったということで一度登ってみました。石垣のようなものはありませんでしたので、本当かどうかはわかりません。あそこの家の畑を使うなとか、五輪塔が出てきたり、いわれはたくさんあるみたいです。 ※大河も問題になってるみたいなんで、あくまで伝承ということで書いております。
横蔵寺 前回触れた横蔵寺に白洲正子氏が訪れているのはご存じでしょうか。「十一面観音巡礼」(講談社文芸文庫)のなかに出てきます。奈良の聖林寺で初めて十一面観音寺に出会った氏が始めた巡礼。訪れた寺の一つが横蔵寺なのです。 横蔵寺は、「白山ひめの幻像」という章のなかに出てくるように、白山信仰のなかで語られます。  「仏はつねに在せども    うつつならぬぞ哀れなる    人の音せぬあかつきに    ほのかに夢に見えた給ふ」  梁塵秘抄の今様の景色を神戸の日吉大社の十一面観音に見ることから始まった旅は養老、美江寺を経て横蔵寺で終わります。  横蔵寺は胎蔵界峰と金剛界峰の峰の間に寺院が築かれ、中心に「白山」と書いてあります。「いこいの森」という原っぱから、胎蔵、金剛の峰が見え、二つの峰の間には、今も旧堂の礎石が残っているらしい。 横蔵寺はミイラや仏像が有名なお寺ですが、横蔵寺では白山信仰に終始します。 白洲氏は揖斐川流域の寺に対して、白山信仰を通した神仏混合があらわれたか形を見ているからでしょう。「日本の信仰は、山と川によって発展したといっても過言ではない」という白洲氏の審美眼に叶った、神像や仏像や信仰の形が揖斐川流域にあり、それは山や川を敬うなかで現れた形なのです。  この章のなかには、揖斐川を ろく川と紹介しているところがあります。ろくという言葉が、霊を意味するらしく、「揖斐川とはよほど恐ろしい川だったのであろう」と指摘しています。霊ともいうべき 川への畏怖が日本の信仰をつくった。血があらわれている像こそ、本当の仏像や神像がある。そういった視点なのでしょうか。  紀行文であり、学術論文でもなんでもない文です。証拠のないところから発想しているはずなのに、書いていることが妄想に思えない。これが、本来の知性の有り方です。
  伊吹山 中山観音寺】  そろそろ春日に入っていこう。伊吹山の話が続いた。  岐阜県揖斐郡揖斐川町春日中山観音寺は、伊吹山の西の麓。その前身である元正庵が関ケ原の戦いでは小西行長を匿った伝説を持つお寺である。小西行長伝説は数カ所あるので、事実かどうかは明らかではないが、小西行長伝説が息づいている。  伝説というように、事実とは確定できないものの、何等かの真実があるものと学んでいるのである。私が知らないことをいうときは、私が原子力について言うようなものである。引用には注意されたし。  中山観音寺には小西行長伝説とともに、十一面千手観音、大日如来、釈迦如来は長国寺にあったとの伝説がある。伝説というように、この長国寺、実態はよくわかっていないのである。土岐頼康の再興とか、長者とか、ありとあらゆる伝説をうけとめている。仏像は、長国寺が無くなったあと、美束の小さいお堂に置いてあったということになっている。  その観音堂はいまでも残っていて、小豆と交換してもらってきたというが、 小豆八斗、1・8リットルが一升。八斗は120キロである。美束の太鼓踊りには、種本観音様として現世利益的な歌詞があるので、確かに観音様はいたのだろう。  大日如来は、禅定印を結び、ほっそりとした腕の美しい仏様である。釈迦如来はふくよか。自分には二体の仏像は別のものに思われるが、まったく門外漢であるので、ご存じの方ががいたらご教示いただきたい。一木づくりで京都から来た、平安後期、平泉中尊寺と同じ作風とだけお聞きした。  平安後期の大日如来像で有名なものに、横蔵寺の大日如来像がある。こちらの方は、1183年、筑前講師作。高く結い上げほうけいや、腕や衣の感じが自分には似ているようにも見える。時代区分や地理的な近さからして何等かの関係があるのか。専門家の意見を聞きたい。ちなみに、  三体の仏像が中山観音寺に移ったのは1600年の関原の戦いの後との伝承であるが、この大日如来、釈迦如来には昔話が残っていないのだ。一方、観音様だけ言い伝えがある。江戸初期、目をわずらった大垣藩主のお姫様おさいさんが「中山の観音寺に参れば、眼が治る」と夢に見た。おさいさんが、観音寺に籠ると果たして、目が治った。姫は、中山への道は険しいということで、栄春院を下に建て、観音寺をこの山寺からもっていってしまった。  観音様は下にいきたくないと
  【伊吹山 今昔物語集】  先ごろお話した宇治拾遺物語の伊吹の聖は今昔物語にもあります。こちらでは、聖が伊吹山の三修禅師と実在の人物にしています。美濃国は春日と言いましたが、美濃国不破郡となっています。伊吹山ということでお許しを。  この話は聖が天狗の演出した阿弥陀仏の来迎に誘い出され、僧房の法師に救出されたものの、正気がないまま死んでしまったという不思議な話です。  聖が念仏を唱えていると阿弥陀仏が聖を迎えにきます。しかし、7、8日経って僧たちがみたものは、高い杉の木のうえで裸で縛り付けられている聖。ひどい話なのですが、聖を三修禅師と解説しているのもポイントです。三修禅師は日本三代実録にも見える人物で、伊吹山寺の開祖であり、長尾寺などを始めた人です。伊吹修験の開祖である聖が天狗にたばかられる念仏聖人になって、往生に失敗するというところが価値観の変わりようや、今昔物語側の意図が見えて、興味をそそります。ということで、今回も春日に至らず、次回は伊吹山と春日について、調べてみましょう。  物語は以下のようなもの。コピペしておきます。 巻20第12話 伊吹山三修禅師得天狗迎語 第十二 今昔、美濃の国に伊吹の山と云ふ山有り。其の山に久く行ふ聖人有けり。心に智り無くして、法文を学ばず。只、弥陀の念仏を唱ふるより外の事を知らず。名をば三修禅師とぞ云ひける。他念無く念仏を唱へて、多の年を経にけり。 而る間、夜深く念仏を唱へて、仏の御前に居たるに、空に音有て、聖人に告て云く、「汝、懃ろに我れを憑めり。念仏の員多く積りにたれば、明日の未時に、我れ来て汝を迎ふべし。努々念仏怠る事無かれ」と云ふ。聖人、此の音を聞て後、弥よ心を至して念仏を唱へて、怠る事無し。 既に明る日に成ぬれば、聖人、沐浴し清浄にして、香を焼き、花を散じて、弟子共に告て、諸共に念仏を唱へて、西に向て居たり。 而る間、未時下る程に、西の山の峰の松の木の隙より、漸く曜き光る様に見ゆ。聖人、此れを見て、弥よ念仏を唱へて、掌を合せて見れば、仏の緑の御頭、指出給へり。金色の光を至せり。御髪際は金の色を磨けり。眉間は秋の月の空に曜くが如くにて、御額に白き光を至せり。二の眉1)は三日月の如し。二の青蓮の御眼見(まみ)延べて、漸く月の出るが如し。又、様々の菩薩、微妙の音楽を調へて、貴き事限無し。又、空より様々の花降る事、雨の如し。仏