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 焼き畑 1

「8月に雪が降ったってのを知っているか」
  『天保七年八月五日雪降り五穀稔らず同八年大飢饉にて餓死するもの道路に満てると云ふ。寺本村七十餓死せりと云ふ。
天保8年米相場百文に三十八尺なり。大垣藩中より米一切を買うことできざりし。金を蓄えて死セシ多数あり。米の相場は百文で4号8尺。』(西濃春日村古今ノ事蹟明細記)
「火山の噴火だと思う」と駒月さんは言った。その時期、浅間山が噴火している。雪は灰かもしれない。
 天保7年1837年。江戸後期の大飢饉で、寺本だけでも70人 が死んだ。
「お寺さんが、よう供養してくれた、その時の恩があるよ」と山口さん。
 それから60年後の1897年。明治政府は焼畑を禁じる。禁令がどこまで、浸透していたかはわからない。古老には、焼き畑の記録がある。
 一年目はヒエ、二年目はアワ、三年目はエーを蒔いた。エーとは荏胡麻のこと。
 焼畑をムツシと言う。
 春日には、焼き畑をしていたころの、歌があり、昭和初期まで歌われていた(美束の民謡には、生涯無い(しょうがいない)という民謡があり稗・粟。胡麻、荏を採り、主食にしていた頃の哀歌と言う(駒月氏収録))。
その一、
しょうがいない、しょうがいないと言うたこてゃないが今年しゃしょうがいあのあたり年しょうがいない
その二
胡麻えがら三ばからげて四わ炊いた。
三ばからげて四わ炊いた。
 山口氏によると、焼畑は3年でまわす。ひえ、あわ、えが3年目だ。そばもまく。1年に2回。放っておいても薬草が育つ。
 春日村史によれば、共有林を個人に分割したため、焼畑が不可能になったこともあるが、個人では行われていたようである。
 ムツシという地名が残っている、春日から粕川上流に向かうと品又谷、大平谷に分かれる。王ムツシが大平に、繁ムツシが品又にある。ナギ、ソウリも焼き畑を示す言葉だ。
 昭和12年(1937年)。大きな開墾が長者平付近で行われる。春日村史には、「おりから日華事変ならびに第二次世界大戦のため、農業の資材も機械もなく、その上、働き盛りの若者は戦地や軍需工場に出て、農家の労力は極端に不足した。その中で、もっこ・つるはし等の原始的作業法で汗とほこりにまみれ、食料増産のため開墾した」。
 大開墾の地は、村から離れ1里。長者平といい、壬申の乱の落ち武者伝説を持つが、いまの、景観のもとができたのが、昭和12年当時ということができる。それまでは、水田というより、焼き畑の地である。
 さて、品又にゆうじろう新田がある。現在は、杉が植えてあるが、水田の形は明確で5枚ほどあるのが見える。集落から離れたところに、水田をつくったゆうじろうさん。家もあって、家畜も飼っていた。いまは、ゆうじろうしんでんという地名があるのみ。続く。

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