ショウガイナ
美束の博物館で灯篭祭りについての企画展が行われた。展示されいたショウガイナは、しょうがいになったり、しょんがいな、になったり、しょんがえになったりする。
囃子言葉として使われているのは、全国だけではない。同じ美束の盆踊りの記録にも「しょうがいな」が踊られたとある。
美束の駒月作弘氏の記録。
「美束の民謡には生涯無い(しょうがいな)という民謡がある。胡麻柄、えがらが最も古くから唄われ先人達が焼畑を作り、稗・粟・胡麻・えを採り主食としていた頃の哀歌である。
其の一節
しょうがいないしょうがいないと言うたことないが今年しゃしょうがいないのあたり年しょうがいな(世の中が豊作をよろこんだ歌)
其の二節
胡麻柄えがら三ばからげて四わ炊いた
三ばからげて四わ炊いた。
「年暮れ近く寒くなってからの焼き畑仕事の哀歌と思われる」との分析。
「その後、よそやま(村外の山)へ出稼ぎに行くようになり(大方は炭焼き)、根尾・方面からほっそれ民謡が入った。
発心寺・善照師匠が京都東本願寺へご奉公お勤めに行かれた時にも、盆踊りを伝えた。紡績工場で盆踊りを習ってきた少女たちも郡上節、高山音頭を習ってきた。
「昭和12年品事変勃発。続いて第二次大戦となり青年たちは戦場へ出征。盆踊りは中止され敗戦後昭和21年、食料不足に苦しむなか、すこしばかりの憩いにと盆踊りを再開。その年の踊りは、ショウガイナ、嗚呼盆わな、高山音頭、郡上節。翌年からは拡声器を揖斐町の大野ラジオ店から借りて流行りの炭坑節、その翌年はトンコ節とだんだんとテンポの速い流行ものを追うようになり、昭和初期まで流行った。」
「神社のお庭に花輪を下げ、音頭とる人は花輪の真ん中で蛇の目の傘をさして若い男女2人で踊っていた姿が夢のような記憶に残っている。それは著者70年前のこととなった。」との記録も美しい。
盆踊りをを踊りながら、この世の厳しさを忘れる踊りとして書いたものに、柳田國男の清光館哀史がある。
「雪国の春」に収録され、柳田1920年、1926年と、三陸海岸の漁村、小子内を訪れた時の記録である。
「おとうさん。今まで旅行のうちで、一番わるかった宿屋はどこ。そうさな。別に悪いというわけでもないが、九戸の小子内の清光館などは、かなり小さくて黒かったね。」から始まる記録は教科書にも載っている有名なものだ。
1926年、鮫の港に軍艦が入ってきて混雑し泊まるのがいやになった柳田は、6年前にとまった清光館を訪ねてみようとするが、宿はない。主人は漁に出て帰らなかったのである。没落した宿の前で6年前の宿の主人がよみがえる。
「盆の十五日で精霊様のござる晩だ。活きた御客などは誰だつて泊めたくない。定めし家の者ばかりでごろりとして居たかつたらうのに、それでも黙つて庭へ飛び下りて、先づ亭主が雑巾がけを始めてくれた」。
清光館の思い出は、盆踊りとともにある。柳田は単調な歌詞を聞きまわったが、だれも取り合わなかったので、今回は、採録しようと聞いて廻る。6年後の村は、軍港の賑わいとともに、すれているようにも思える。今回も、やはり、反応は悪い。
「あの歌は何といふのだらう。何遍聴いて居ても私にはどうしても分らなかつたと、半分独り言のやうに謂つて、海の方を向いて少し待つて居ると、ふんと謂つたゞけで其問には答へずにやがて年がさの一人が鼻唄のやうにして、次のやうな文句を歌つてくれた。
「なにヤとやれ
なにヤとなされのう
あゝやつぱり私の想像して居た如く、古くから伝はつて居るあの歌を、此浜でも盆の月夜になる毎に、歌ひつゝ踊つて居たのであつた。」
「何なりともせよかし、何うなりとなさるがよいと、男に向つて呼びかけた恋の歌である。」ものの、「忘れても忘れきれない常の日のさまざまの実験、遣瀬無い生存の痛苦、どんなに働いてもなほ迫つて来る災厄、如何に愛しても忽ち催す別離、斯ういふ数限りも無い明朝の不安があればこそ はアどしよそいな あア何でもせい と歌つて見ても、依然として踊の歌の調は悲しいのであつた。」と続く。
「痛みがあればこそバルサムは世に存在する」と 柳田は結ぶ。
駒月氏の採録にある、「花輪の真ん中で蛇の目の傘をさして若い男女2人が踊っていた姿が夢のような記憶に残っている」との70年前の記録に、バルサムの記憶を見るのである。