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 駒月さん 「うちら、子どものころにね、お宮で遊んでるとね、こんな幅の脚絆をね、ぐるぐるに巻いてね。ダーン、ダーンとと杖ついてね。何人としらんが、来るんやで。そいで母親に、  「あのおばあさん、これからどこに行くの」と言うとね。「教如さんに参りに行くんや」と言うたわ。  教如さんの岩屋※1があってね、お堂もあったんやね。堰堤の山道の上、そこの横に平があってね、教如堂があった。岩屋の下にあってね。それを、壊してね。お堂壊して持ったんやで。そいで、農業協同組合建てた。組合が美束だけあった。いまのお地蔵さんの横にね。美束農業協同組合※」との話を聞いた。  教如上人史話 「駒月巌 郷土史話より」で、教如堂のことが詳しく載っていた。  「教如上人の春日村に於ける話は僅かに四百年前の史話であるので比較的事実が伝えられていて、教如上人自画像に依る八箇寺の五日講だけは毎月行われて来ている。しかし教如上人の旧蹟である國見岳の鉈ケ窟は村人さえも見に行く人もなく、荒れ果てて何処にあるやら知る人も少ない状態になっていた。昭和十年(1935年)春の頃、時の村長駒月巌は村會議員古田粂之丞(くめのじょう)を案内として、國見岳中腹にある鉈ケ窟の内大鉈ケ岩屋と小鉈ケ岩屋を実地調査した。   上にある大鉈ケ岩屋の中には史実に伝わるお枕石やお机石又、お高座岩などがあって、これこそ眞の鉈ケ窟であると断定した。直ちに小学校の高等科児童を引率し登山して、岩屋の中の土砂を掘り出し周囲を整頓し岩屋の中には駒月巌所有の阿弥陀如来像を佛壇に入れて安置した。古田幹寄附の半鐘を吊るして漸やく鉈ケ岩屋は教如上人の旧跡らしくなった。しかし斯かる深山幽谷では参詣の人も難儀するので、念佛掘りと称して毎月尾西から鉈ケ窟までの参道の改修を行って、女子や子供なども容易に参詣出来る様にした。    揖斐駅から尾西山の鉈ケ窟までの間に約百枚の板札を作って、道端に教如上人岩屋への指導標を吊るして歩き、一方では岐阜日日新聞紙上濃飛十名勝地の投票に参加して、村民も協力して投票を行い遂に四等に当選した。直ちに時の岐阜県知事であった宮脇知事に揮毫してもらって、三河の御影石で『濃飛十名勝地教如上人窟』の十一文字の石柱を作り上げて今も残る尾西の白山神社前に建立した。   次いで駒月巌村長や発心寺住職駒月善照や山田兼太郎、古田幹等が有志団結して、揖斐

案内地図

樋渡瀬と美束散策地図を作ってみた。 樋渡瀬は淀廻から品又へ。蛇行するカーブが目印である。 むつしは焼き畑という意味である。丈畑、むつし、深山という分類があるようである。 勇次郎新田は、勇次郎氏が山の中に開墾した田んぼである。馬も飼い、立派な小屋もあったということであるが、丈畑の中に田んぼを開墾した勇次郎氏の努力やいかに。現在は植林がされているが、それでも5枚ほどの水田跡を見ることができる。 平鍋、鈴谷、火越峠という鉱山を思わせる地名がある。 猪首とは、追い込まれた猪がかならず現れる場所であるとのこと。

足跡

 かべや谷に炭焼きに行った。雨降りにね、うさぎの踊りを見たことがある。小屋で飯を食ってて、何か来たと思ったら、後ろ足でピョンピョン、ピョンピョン。前足あげてピョンピョン踊りだして、一匹。  かべや谷では熊もしょっちゅう見た。子連れまでぶつかったことある。親があわてていってまう。荷物を置いて、3メートルから4メートルの下の川で顔を洗ってて。俺の荷物のそばで熊がひょん。これはどうしようと見てたら、親がひょこひょこ登っていった。うり洞。それから、子が後からついていった。100メートルぐらい行ってから、うおーっとよばった。それまでは呼ばらなんだな。  そしたらあくる日、炭焼きしたところから横をとことこ歩いていった。  川の中にボタボタ木を入れて、上から見とった。誰じゃしらん、魚釣りか来やがったか、俺においともいわんと見ていたら、川の中に熊がおる。こりゃ、やばいと思って。  うさぎは、なくよ。捕まえるとギャーっとね。  うさぎは狐に追われたって、下へは降りて行かん。後ろ足が長いで、捕まってまう。山の上に上って行く。うしろ足で飛んでく。漁師の犬でもね。途中まで負うとあきらめてく。下へいったら、つかまる。  雪山なんか見とると、きつねにぼわれたあのやろう、助かりゃいいと思っていると、雪の上で身が軽いでね。上手に。チョンチョンパタン。チョンチョンパタンと。  あまごは3年、あゆは1年。ますは10年。 さんしょう魚はこの辺りでは、10センチぐらいにしかならない。なめらかな肌しとるで。冬は葉っぱの中でも冬ごもりをするかしらん。    あゆは、昼間は早いけど、夜の2時ごろは寝てるでそこを狙うと釣れる。      

大木を伐るということ

             いまの中電はね、1000メートルばかり電気引いて下さいって言ったって。いやと言えんのやで。  でも、その当時はね、下の部落から電気引っ張って来にゃならん。美束中で40万円いったんじゃ。ほったところが、昭和22、23年に金がなかなか出来へんのやし。だから、お宮さんの木を伐って、売ったんや。どこのお宮さんの木も伐ってまって。  やったところが、神社庁に言わんでやったということを悪いことだと駒月巌が投書したんじゃ。神社庁から来た。木の切り株あるでわかるわな。40万円負担金で出して、電気は来たんだが、また、罰金40万円かかった。  払わんならん。右往左往。集落があの当時200件ぐらいあった。電気の40万円はお宮さんの木で出来て良かった。結果的にはあと罰金の40万円つくらないかん、ほうでしゃあないで、境内の木は神社庁の管轄であかんので、境外の木を伐ろうということになって、それを伐った。 駒月巌は、村の人が木を伐ったことについて、ただならぬ思いがあったようである。郷土史話では、次の話を収録している。 郷土史話 九曜星の袈裟(けさ)と尾光堂(おこどう)の橋    駒月巌 小寺四郎原典      美濃國池田郡糟河郷種本村、詳しく云えば濃尾平野西に尽きる処、揖斐川の支流、粕川の源、普く天下に知られた風光の地、伝説と落武者の別天地美束の安土にある尾光堂の橋と云うのがある。さらさらと流れる谷川の水に、純白の飛沫を上げて五つに折れた花崗岩の石橋の残骸を見る。雪の朝はつつましく綿帽子をかむり、春は花の香若葉の香、夏は新緑河鹿の声、秋満山の紅葉映えて幾十年、人の眼に物の憐れを訴へたことであろう。  この地は往時大垣藩戸田釆女正の所領であった。発心寺住職道悟は、一世に聞え再々其の藩公に拝謁し知遇浅からぬものがあった。その教えたるや心を治め、家を治め、人を治め、國を治めしむ、眞如一和の御佛の大寶悦のあふれるものがあった。藩主氏鉄公より九曜星の戸田家御定紋入りの袈裟を賜わったのは無上の光栄であった。  当時、戦国の後を受けて村はどん底に疲弊していた。偶々尾光堂橋架け換について、それに要する材木が村中に一本も無く、庄司小寺左衛門二郎も住職の道悟坊も手の施し様も無く頭を痛めていた。 或夜、発心寺の庭で何事かひそひそと語る二つの影があった。四

種本 太鼓踊り 

種本の太鼓踊り 聞き書き     念仏踊りです。流行り歌。踊りは江戸中期以降の流行った歌と言われている。 「梅の花」なんて、歌謡曲です。  「鎌倉御所のお庭に、日本で一の梅の花、いつぞや姫子と道づれしたら、此の花見事な見物しよ、姫御の鎧を見てやれば、中には唐絹合いには小袖、上には涼しのかたびら、下なる小袖を拝見すれば、一重咲いては春をくみ、二重咲いては咲き乱れ、末には小黄の梅がなる、とかく此の花御所の花、娑婆はわずかな間じゃほどに、妻よ願をよのや姫御」  大原の念仏踊りとか久多の花笠踊りとかありますが、ああいうものが余呉や伊吹町を伝わって入ってきたと思う。芸能ですから。  鎌倉の御所の踊り自体が江戸中期の流行り歌だから、それ以降ではないかと言われている。     種本と寺本で競争しあって、芸能を高めてきた。種本は寺本とライバル意識があって、競争しあって。聞いた歌を憶えてそれを高める。毎日練習します。自分で。集まってやるのは1、2週間前だけど、その前から自分でやってる。拍子を憶えるのは家の中でもやってるんです。  誰が持ってきたのかと言えば、伊吹殿上の歌がある。修験の信仰の影響がある歌があって、「我は遠国草深の、芝が庵を立ち出でて、伊吹殿上の見物に、山の麓で垢離を取り」これって禊するってことですよね。で登っていって、「弥勒菩薩は石の宮、石の扉を押し開き、有難殊勝と伏し拝む」。これは修験ですよ。  修験の人たちが伝えたとは思うけど、伊吹町のものを伝えてきたかと思うけどわからんです。峠を越えていくと伊吹町に鍬なんか買いにいって。  春日の修験の寺は、中山の観音寺だけ。美束の寺は天台宗から浄土真宗になっているんです。でも、伊吹山の7、8合目で修行していた播隆上人とか降りてきて、村の人に書きつけとかいっぱい渡しているんですよ。南無阿弥陀仏という掛け軸とか残っていたりとか。  ここの踊りは道路から踊り上がる。階段とお宮さんの踊り場で組み合わせてつくるのが面白いです。お宮さんへのアプローチをうまく使っているので、本社に来る前に時間がかかる。階段を上がってくる歌があって、上がってきたら、短い歌をやる。自分たちでつくったお宮さんを褒めたたえて、褒めたたえて上がってくるんです。  踊り子は大変です。太鼓の音と、笛、鉦の音、仲間だけに

貝原棚田 

貝原棚田      棚田の地形は谷が小さいのだけれど、水が少なくないんだけども、1メートル掘った所に砂利層がある。上の田んぼに水が入ると、そこからもれたのがしたの田んぼに。上から上から落ちて下へ下へと自然的に。下の方まで水がついてくる。特殊な地形じゃて貝原は。砂利層に染み込んでった水がつぎつぎ下へ落ちる。そいで水が冷えるもんじゃで、棚田の狭い所にでも、漏れてきた水をださないと冷たくなる。   棚田はね、山だから、水平にしようと思うと。傾斜を掘るもんだで、半分は盛り土する、半分はカットする。曲がって掘ってくと、わずかしかほらんでも出来る。  昔は、もっこって言ってね。縄で編んだのに泥をもって、地べたをひきづって、平にしていく。カットしてそいつに乗せて、埋め戻すところにほうっていけて。半分は地山を掘って、半分は盛り土にしてね。  山に沿って掘ってったもんだで、ぐねぐねと。土手の高さも均等にいったわけだ。  石垣の積み方によって、年代がわかる。  尾西にね、千疋城っていうのもある。あそこの石垣は古かった。川を渡ったところ。あの辺の上がっていってみたら、お城があれば、水平にしてあるで、それがあればあれば当たるわな。  いまの石垣は6個の石で一つを包む谷積み。明治の時代も谷積みもあった。  伊勢湾台風のときは、石を割って、石垣を積んだ。家の石垣も畑の石垣も全部自分でやった。  

祝うとは岩う

    大晦日の晩は、家に座っているようなものはたわけじゃった。  女の人が紡績に働きに行くじゃろ。大晦日は帰ってくるんやで。一晩で何軒も娘さん、見に歩いた。行かんとたわけじゃと。障子に指につばつけてちゃんとやると、障子に穴空く。15、16のころの話。「今夜のうちに家にいるたわけ、どこにおる。ほら来い」ということで。中山までも行ったんだ。雪の中。  山の神のキチンボもくじ引きで当たった人は、こんな大きいの負んでね。村中廻ったの。その夜さは、何を言っても、悪口言ってもいいの。悪口いいからかして。お前のところ、誰かが夜這いに来てるな、と大きな声で。  村中をそう呼ばって、歩いて。それから神様に収めると。おもしろかったよ。藁でつくるやろ。くじ引きで当たると担いだらなあかんな。  くじ引きのときは、祈っとるよ。当たらんように。こんな玉つくったやつにはね、こんな石なを三つぐらい入れてある。そいつが当たると、村中わあわあ、言って歩かなならん。雪のあるところを坂道を登っていって、皆が酒飲んどるで、酔って降りた。後ろにつかまって、ずるずるとひきずり、降ろされ、また、上がると、またやったろかと。三回ぐらい、引きずり降ろされると、おい、まあ、こらえてえのって。それが面白かった。  酒は、残ってるし。  いまは、昼間作って、それで終わり。  悪口は、20ぐらいまで言っていたかな。大きな声でよぼって歩いた。  結婚式もあると、今夜は祝ってやらないかんて、祝って、岩ったらな、あかんて。祝う。岩じゃな。こんな石なを藤で括って、結婚式の座敷の真ん中に持ってく。よそにとられたようなやつは必至こいて、かたきだと思って、もってくるやろ。そうすると、こんな大きな石を持ってくと床が落ちるとあかんで、家の人が、ちょっとまって下さい、板持ってきますと。  家の中は、酒も飲ませな、悪いことするし。10人も20人も担いだ石なを、座敷の、お膳の置いてある真ん中にどさんと。あくる日になると、自分で片づけなければならんで、大変。重いで。    それでも、お祝いだから文句は言えなかった。やっとこせ、するがごもんにすをかけた、と祝ってね。  やれやれ、ご苦労さんでした、お酒飲んでください、食べて下さいとね。

江戸後期 大垣藩主と美束の庄屋きんべえとの会話 助成を申請し、殿様にいわれた言葉は

がいの橋の物語 庄屋 きんべえ 話者 山口 保氏 鉱山付近の対岸の山 鉱山(美束から川合集落へ下るところにあるドロマイトの鉱山の上を通って大垣藩に税を納めていた)の上の道はがん(岩)が悪くて、通るのに危険な所があった。だから、庄屋のきんべえが、大垣の戸田藩に行って、難工事だ、と訴えたところ、殿さんが何言ったかと言うと、「きんべえ、工事が難儀だ、難儀だと言うけれども、一日自分が、持ってった弁当の分だけ掘れないか」。しゃあないで「一日、持ってった弁当ぐらいは掘れます。」とこう言って。ほったところが、「それなら、辛抱して掘りなさい。」  補助金出す出さんはどうやったか、知らんが、それなら辛抱して掘る。きんべいは、帰ってきて、がいの橋を掘るようにした。  あの辺のがん(岩)はね、かねくいっていって、削岩機の削でさえも潰れるような固いがん(岩)。一日、昔でならノミで掘ったって、持ってった弁当の量っていったって、よほど辛抱すればできるわさ。そう言われて、そうですかと帰ってきた。で、通れるようにした。庄屋をやってたきんべえが、最後のお願いだった。  きんべえは、長年、庄屋をやっとって、「まあ、じじ、もう俺んところ来るな」と殿さんが言ったって。それほど長いこと、庄屋をやっとった。  この上の集落で、いま、屋敷があるけど、きんべえが滋賀県から土地をもらいに行ったというのは明治の代になってからだ。江戸時代と明治の境目に生きた人。(私の)おじいさんが明治8年生まれで、その人のおじいさんだで。きんべえは。  明治の代になってから、日坂の高橋さんに頼んで裁判して結局、大津の裁判で勝って、山林を何百町もらった。それが、経費がよけいかかった。集落で財産をもらったにもかかわらず、一代で炭焼いても焼ききれんほど土地が大きかったのに、集落で費用を出さなければならんので、そこで問題が起きた。  「新川きんべえが余分に使いこんでる」。ということがお寺の集会で出た。そんだけの財産を難儀してもらったくせに、悪者になったわけだ。(きんべえに)「文書を持って来い」と。そういことで、古い古い文書を持っていったら、目の前で火をつけて焼かれたと。裁判の書類は当たり前だが、それ以前の書類を目の前で焼いた。焼いたのは村のじん(人)。集落のじん(人)たが、金使いこんだじゃろうと、腹立ちまみれでや
台風迫るなか、春日村の生き字引、御大の話にあった、勇次郎新田、樋渡瀬に案内してもらう。場所は品又谷である。尾西集落から淀周りの分岐点を進行方向に向かって右の林道に入る。 春日村史の地図をもとに作成 林道の下にある樋渡瀬。樋のようになっているので名付けられたものと思われる。 林道終点にある看板。火越峠を越えて坂内に至る。 この辺りは、御大が若かりしころ、炭焼に山に入ったところである。 「ある雨の日だった。休んでいると、二本足でダンスするうさぎをみたのもこのあたりだ」と御大。うさぎのダンスは御大の脳裏に焼き付いているようだ。 ここから先は林道はないが、歩きにくい御影に足袋をおいて、御大の足形を掘った。御大にとっては、みかげ(花崗岩)に彫刻することなど、簡単なことなのである。弘法大師の杖の跡とはよく聞くが、御大の足跡は自ら残した足跡である。みやまに入ったら是非、御大の足跡を探してみて欲しい。地図にも記しておいた。 川にはあまごが。 しかし、杉には鹿や熊がはいだあとが、油をなめたものと思われるが、このようになった杉は枯れるのみである。山の現状を憂う御大である。 この辺りにサンショウウオがいるはずなのだが、と石をはがす御大。 茎がさける茸は毒がないと言う。 オコギの天ぷら はうまいと言う。 勇次郎新田は、勇次郎という人が開いた水田。5枚ほどあるが、このように植林してある。合掌造りの立派な小屋があり、牛も飼っていた。 村には、丈畑、むつし、みやまという区分があり、むつしは、焼き畑に適した標高。それより高いとみやま、深山になる。 むつしに近い山の中に、水田をつくった勇次郎さんの努力やいかに。 台風が近づくなか退散。 貝原棚田では、はさがけがたたずんでいる。
岩のいわれ  話者 山口 保氏  美束の地名を記録する。以下、聞き取り。 戸棚岩 こもん岩   きくせにあった。安部晴明がみたい  と言った。 みかげ石に黒い紋がついていた。台風で無くなった。 新川屋敷の五輪塔  月桂院と同じ石の五輪塔である。関ケ原合戦による落人を金のよろいかぶとをきたまま葬ったとの言い伝えがある。木をなぶるとたたりがあると伝えられた。立派な百日紅がある。石垣のつくりも、古いものである。  新川屋敷というのは、この当たりで唯一、門があった家である。  関ケ原の武将の敗走路であった。身分が高かったため、金を渡して始末をしてもらったものと思う。 高位神社   日坂の高橋さんに感謝して明治に祀った。日坂の高橋さんは、大平、品又800町歩の所有権を滋賀県側と争った時に、水の流れを見て、水の流れを境に当地を美束のものとして裁判の勝訴に尽力してくれたので、祀るものである。 神渡しぶち(みたらし岩 )  折本地内にあとかえり渕と名のある渕がある。水深3米は楽にある青く澄んだ流れである。対岸は三十米ぐらいの絶壁とその水面近くに高さ4米奥行六米ほどの蛇の穴と云う洞窟がある。いまは釣り人以外は訪れる人影もないが、昭和の時代には多くの子どもから大人まで水泳場としてにぎわったことでした。  あとかえりと言う名の如く不思議にも水が流れに反て上流に向って流れる時があり、不思議な所でもあり、大人同行でないと固く禁止された時もありました。  私ども子どもの頃はそんなのおかまいなしで泳いだものでした。又近くの蛇の穴に入り大声をあげ、時には、歌など大勢で歌ったのはありし日の思い出であります。春は、岩陰の中腹あたりに岩つつじがとってもきれいであります。また、フジの花見を対岸の砂場でたたづみ、カメラを向けたい場所であります。 貝原谷の七間岩  県道春日揖斐川線貝原谷入口より約100米上流。花崗岩の岩盤、谷の流れにそう様に岩肌の上に浮いたような状況であるのが七間岩である。  ある部落の古老の話によると台風等による増水時は少しずつ下流に流されるとのこと。伊勢湾台風時も礎石流発生時は6米くらい下流に押し出されたということである。   又、その台風の時、土石流は未曾有であり、県道春日揖斐線須磨地区では、道路3米もある転石が多々あり、土石流に押
春日村美束に西蔵寺というお寺がある。 昭和37年12月に焼けてから(報恩講の時)、再建はされていないが、東本願寺(大谷派)の開祖である教如上人が、関ケ原の戦い前夜、石田光成の追っ手から逃れて同寺に立ち寄った際、村人に贈るための自画像を描いた寺として知られる(春日村の東本願寺系の八つの寺では輪番で5日の上人の命日に、自画像を備えお供えをする五日講がある)。 火災の時、仏様は全部外に出したが、600年前からの古文書は消失した。その古文書を、西蔵寺坊守新川留美子氏が覚えおり、それを書き写したものを美束の駒月作治氏がまとめたものを頂いた。 新川氏は、昭和18年3月30日に四日市高女を卒業し、小学校の教員として勤務。西蔵寺に嫁いだ。 「昭和37年12月報恩講の時火災の為、本堂、お庫裏全焼の時、仏様は全部出したがお庫裏の中二階の古文書が出せなかったのが悔しい。」「昭和37年の火災の時仏様は一体残らず出したが真っ暗な中、ずし、火炎ひどい中で持ち出し出来なったことが悔やまれます」 「今更私がどうこう言っても貧乏寺故、黙っておりますが私が読んだのは昭和25年から昭和30年ころにチョコチョコと暗い中ずしで懐中電灯で、母(姑)、主人英春に遠慮しつつ読んだのです」 と綴っている。 字を書くのは苦手だったので、暗記が得意だったとのことで、「もっともっといろいろ調べたかったが、姑、夫の目を盗んでの事と今になってみればどうしてと思われるし悔しい」とも書いているが、得意な暗記でメモを残している。 以下、抜粋する。 「西蔵寺は、法相宗、天台宗、浄土宗、真宗本願寺、浄土真宗となり、現在に及ぶ。」    「鎌倉時代は天台宗で、竹専坊と称し、折本に草庵があったと言われている。 文安二年(1445年)は中郷竹専坊とある。 竹専坊時代の本尊は阿弥陀如来像であり、いまもあります。(立像阿弥陀様である。十五代常如上人の時代に御下賜あり。十二代釈道林院、了心和尚の時代である) それ以前は自然物の石仏であったが、火災のため、その石仏はわからなくなった。」 「永享時代(当院住職)了正和尚のころ、本願寺7台存如上人に帰依し、天台宗改め、真言宗に回収する。了正和尚は文政二年(1445年)西蔵寺開基了正和尚死亡したとある。」   「長禄時代 8代蓮如上人が尾西山を

春日村美束 六社神社 昭和23年 水田をつくるために岩をあけようとした話 

まんじろうさんが岩に穴をあけようとした話 話者 山口さん夫妻  岩に穴をあけて、自分の畑に水を通そうとした人がいた。岩はみたらし渕と言う六社神社のところにある。昭和23年ごろの話。 水田が無かったまんじろうさんは岩に穴をあけることで、畑に水を通したかったのだ。 水田にして米をつくるのだという、まんじろうさんが岩に穴を開けている姿を見たのが子供のころの山口さん夫妻である。  「カンテラを照らしてな、水盛をしていた。」 手伝っている人が一人いたことはある。水路は完成しなかった。 それほど、米がなかった。食べ物がないときは、リョウブの葉を茹でて乾かしたものを食べた。りょうぶ飯である。りょうぶ飯は黒かった。 貧しい食べ物ことについては、駒月作弘さんが記録している「美束の民謡」でも歌われる。   「美束の民謡には生涯無い(しょうがいな)という民謡がある。胡麻柄、えがらが最も古くから唄われ先人達が焼畑を作り、稗・粟・胡麻・えを採り主食としていた頃の哀歌である。 其の一節  しょうがいないしょうがいないと言うたことないが  今年しゃしょうがいないのあたり年しょうがいな(世の中が豊作をよろこんだ歌) 其の二節  胡麻柄えがら三ばからげて四わ炊いた、  三ばからげて四わ炊いた  (年暮れ近く寒くなってからの焼き畑仕事の哀歌と思われる) その後、よそやま(村外の山)へ出稼ぎに行くようになり(大方は炭焼き)、根尾・方面からほっそれ民謡が入り、そして嗚呼盆はなあヨイショ盆は嬉しや別れた人も 晴れてこの世に会いに来る。この歌は、発心寺・善照師匠が京都東本願寺へご奉公お勤めに行かれた時お習いになり、お盆にみんなで盛んに踊ったようである。 それから、年月たち昭和初期教如上人洞窟の発掘教如堂の建立等当時尊重の駒月巌が主体となり美束の有識者が名を連ね広く教如上人を宣伝し小冊子を発刊、全村に配布されたので70年程度を経過して居れど、どこかにお持ちの方があるはずです。 もともと美束は国見峠を越して、江州との交流が盛んであり、その頃すべての文化等も京都・長浜・長岡・そして美束へと経路が考えられるなか、その教如上人を讃える歌や滋賀県小津原にあり美束寺本の民謡や踊りの好きな人達が教如上人の宣伝に加勢したというか、煽られたというか(駒月巌の出版の記

伊勢湾台風

伊勢湾台風で家が流され、あくる日の朝、ほっぺたをなんどもつねった。話者 山口保さん 伊勢湾台風が来た日、夕方5時まで青空だったことを覚えている。 夜の8時に土砂降りとなり、石が流れていく音が響いた。 猫が家の中を走るようになり、これはおかしいという話になった。山津波が来たのが11時。わずか3時間の間にどれだけ降ったかわからんが、猫の様子を見て、神さん、仏さんを袋の中に入れ、家族を逃がした。 牛を出さねばならないので、ひっぱって、水が来ても頭だけ浮くぐらいの高さに括り付けておいて、自分は小屋へ逃げた。小屋には隣の人がいたが、隣の人の家が流れたことは言えなかった。自分の家は、残ってはいたが、家の中に川が流れていた。 いまだ、1人、行方不明。この下の人も流れてまった。 美束が一番ひどかった。美束中の橋は、尾西の支流にかかる橋だけを残して、全て流された。白子への橋。落合橋。六社神社の前にかかる橋。美束中、集落どおしで行き来ができない。向かいの集落の人も、手を振ってるだけ。食糧分け合ったり、炊き物たいたりしていた。小学校にヘリが下りた時は、走って見に行ったものだ。 自分の家は、有名な大工が建てた家なので、全壊せずに残った。瓦屋根が重いのもあった。 一晩開けて、傾いた家の前まで来たとき、こんなすさまじい状況のなかで、よく生きられたな、とほっぺたをつねった。この県道にひざぐらいの水が来ていた。 当時は、機械があるわけじゃない。ブルドーザーもない。泥の中をかき分けていれて、ダイナマイトをはざかすと穴になる。そうやってかきわけた。 あの当時は人がおって、ひと手間があった。労力があったから、復旧できた。いま、災害受けたら、10年かかると思うよ。 欅の木が、風速45メートルで倒されて流れてきた。欅のなんては20トンの重機でひっぱったって折れんよ。そんな木が山ほど積みあがるほど流れた。怖いのなんのって。 着の身着のままで、これから家族がどうやってやっていくと思ったときのさみしさはなかった。広島もあったけど九州もむごいと思うよ。愛知ぐらいなら、機械一台もって、ボランティアいってやるんだけど。 人間、一人死ぬということはよほどの災害と思う。 伊勢湾で石が落ちてきて、復旧に必要ということで落ちてきた石を売ったら金になった。1つ35円で、人を頼んで

春日から 国見を超えて 長浜までしょうゆがしを買いに行く話

冬になるまえにしょうゆがしを滋賀県まで買いにに行く話。 話者 駒月さん 冬になる前に、しょうゆがしを滋賀の長浜に買いに行く。長浜は、国見峠を越えて、板並を越えてさらに先。しょうゆがしというのは、しょうゆを絞った糟だ。糟がなければ冬が越せないということは当時の貧しさをあらわしている。  夜、2、3時に出かけていく。その前に、しょうゆがしを欲しいと手紙出しておく。向こうから、何日なら、しょうゆがしを出すと返事が来て、それで行くんだ。    国見峠で夜が明けるので、そこにカンテラ置いて行くんだ。帰るころに母親が迎えに行く。八貫目買って来たら、半分ずつ背負う。  冬には行かない。秋休みが済んでから行ったもんだ。秋休みが20、21日。それが済んで、種本、中郷は屋根普請を組でふく。屋根は10年、15年しか持たないでね。屋根ふきたい人は区長に申し込んでおく。1年、5軒ぐらいなので多いと、1年待てと。  11月の終わり、1軒で茅を八束ずつもっていく。  茅場は安土のお寺を越して吹谷というところだけれど。私は若い時にね、青いような茅をもってくわけだが、ぎゅうぎゅうに詰めて持っていく、「こんな重たい束(そく)を」、と言われた。 昼前に一回、夕方に一回。  後家さんは、ゆるいのを持ってくる。春もってくるものもあった。秋に刈っておくと、茅が軽くなるから。  それが終わってから、みそ(しょうゆがし)買い、雪になったかもわからん。みそ買いに行って、遭難したものもおるんやし。  国見まではね、寝仏を越してね、寝仏は寺本と同じ石の質の仏さん。みかげ石。江州と同じもの。
駒月さんに聞いた 神社の不思議な話 昭和19年、子どもの時にね、必勝祈願に、毎朝、神さんに行くようにと学校から言われとって、終戦の前の年にわしらが見つけたんじゃが、御殿の付近からお庭に白い皮蛇がどんどこどんやったね。無数に。 蛇は一匹も見なんだ。親達に言うたら、宮の下の近くの人がろうそくともして、それならば、御神体を拝謁しようかということになった。 いまでもケガしてござるが、御神体が爪でひっかれたような血膿が無数にあった。戦争に行って、ケガされたんじゃということになった。 御殿を直す時とか、御神体を移動させるときは、夜中に移動する。 禰宜やってたときは、扉を開けて拝む。神様は六人の人や。 六社神社の御拝殿には、和紙で書いたもんがたくさんあった。平成の2年に。役の連中が、元旦のかがり火で焼いてまった。何て書いてあったかもしれんが、あれがあるとわかるが、あきめくらってやっちゃ。 だから、祢宜をやったときに、先人の書いたのをまとめた。神社庁が検閲してね。鳥居や御殿の建て方から、お宮さんに奉納してある。 六社神社の不思議の話は、駒月巌著「郷土史話」にも収録されている。  著者駒月巌は県会議員として揖斐町または池田町に居住し居りたる為比の六社神社の不思議を眼に見るを得ざりしも、故駒月留吉氏の実話の中にて信ずるに足るものを左に記述することにする。 其の一、千背負うも追々と進みて大東亜戦争の難戦となるや、六社神社の正面杉の二本の枝に、無数の白蛇の皮が簾の如く垂れ下がって、その数は到底数へられるのほどの多数にて村人達はただ不思議不思議と眼を見張るのみにて、中には神様の御使ひとして比の多数の白蛇が戦地へ出征したるならんと語り合う者もありたり。 其の二、それより少し遅れて、今度は六社神社の御手洗い(ミタラシ)に、これ又無数の白蛇の卵が一面に真になるほど産み落とされて居る有様に村人たちは二度の不思議に惟あきれんばかりなりしと云う。 其の三、当時安土の駒月善吉が禰宜なりしに、戦勝祈願のために毎夜六社神社に参拝したりたるに或夜参り見れば御戸扉が少しく開き居りたるに驚き、之は神様が日本を助けるために戦地へ出征し下されたるものと信じ、村人達に話したりと云ふ。
5月、美束駒月さんより、文書を見せてもらう。 春日にあった美束の江戸時代の飢饉の記録である。 「天保7年8月5日雪降り五穀実らず同8年大飢饉にて餓死するもの道路に満てりと云ふ  寺本村だけでも七十人餓死せりと云ふ  天保8年コメ相場百文に三合八尺なり。大垣藩中より米一切を買うことできざりし、金を蓄えて死せし多数あり」  
炭焼の記憶 70歳女性 岐阜県 (滋賀県の板並は土曜日は行かない)。土曜日は昼前に学校、行ったでしょう。土曜日はいかない。日曜日に。歩いて(親が炭焼きをしている滋賀県に行く)。 こーーーんな細い道をな。いまみたいな道ではなく、落ちそうなところ。国見峠、歩いて、あそこがこんないい道路じゃないの。谷伝いにこうして行ってね。少し間違ったら落ちるようなところを。  上がって峠から、またずーっと。板並にずーっと歩いて行ったの。  親は毎日、帰ってくる。帰ってこないと、炭をセタっていうので負んでくるでしょう。帰ってこないと、つくった炭が出せない。滋賀県からここ(岐阜)まで持ってきたんだ。   私ら、団体で連なってったんやね。子供が何十人と親と。私ら(子ども)は、炭みたいなものよう負んでこなかった。焚物みたいなもの。小さい子おるでしょ。弁当の空とかね。  尾西の人が、2人ぐらいは同じところでやったけど、違う谷とかね。  小学校3年先生からの話。いつまでかと言うと、中学ん時は、寺本山の勇次郎新田。おじいと兄がやった。兄が一人前になってから、おじいはおじいで火入れしとった。   新しく窯をうつやね。新しく炭窯をうつことを、昔の人は「火入れした」って言ったよね。 結っていってね、結い返し、兄のところの窯打ちだっというとね。。 尾西中の炭焼いているひとがほとんどくらい、来てくれた。次は、誰かのところに結い返しに行って。昔は食糧がないでね。缶詰とかおはぎとか、もらってきてくれて、楽しみで。楽しみで。広げるの。そんくらい食べ物なかった。 ぼたもちってね、窯打ちを頼んだ人がご馳走持ってね。それをうちで分けてね。 窯打ちのご馳走って、ご馳走はそんな時にしかなかった。 窯打ちは、泥をのして、ペターン、ペターンと。 何年に一回というか、次の年も、その窯がペターんと落ちないと使える。落ちると、打ちなおさなければいけんし、場所が変わると打たなあかんし、何年に一回とか、それはない。 次の炭が出るまでに、ここに持ってきていた。 六俵ぐらい負う。 炭の検査が1カ月か2カ月に1回あった。これだけ売りたいと思うと、毎日、帰りに負んでくるの。 女の人は3俵。それに子どもつけてなあ。4貫。240キロ。 昼はお弁当を持っていく。 夕飯、ここで泊まって食べて

美束にあった信仰の話。教如堂

美束にあった信仰の話。教如堂。  うちら、子どものころにね、お宮で遊んでるとね、こんな幅の脚絆をね、ぐるぐるに巻いてね。ダーン、ダーンとと杖ついてね。何人としらんが、来るんやで。そいで母親に、  「あのおばあさん、これからどこに行くの」と言うとね。「教如さんに参りに行くんや」と言うたわ。  教如さんの岩屋 ※1 があってね、お堂もあったんやね。堰堤の山道の上、そこの横に平があってね、教如堂があった。岩屋の下にあってね。それを、壊してね。お堂壊して持ったんやで。そいで、農業協同組合建てた。組合が美束だけあった。いまのお地蔵さんの横にね。美束農業協同組合 ※2 。      昔、露天で焼くさんまいがあったの。死んだ人を。せんだんぎする、若い人が。せんだんぎってね、木を交差して組んで、死骸をひきづりあげてね焼いた。  ここの高い所から、お葬式の日に火が見えて気持ち悪かった。子どものころ、火の番。火の番とはね、火の用心っていうの。燃えてる日に来なん、ならんなら、さびしいて、さびしいて。3人くらいで、中学の人と、「火の用心、火の用心」って歩いたの夕方。そしたら、燃えてるやろ、その火が。この細い道、それから尾西まで降りていくんやけど、それがいややった。  ここからちょっといったところに、墓地があるの。そこには墓がつくってあるし、小さい子が亡くなると昔は埋めたね。私が子どもの時には親と廻る。石でね、ここに埋けたとか、言ってね。おそなえさ、そなえたり、ともらったね。そこの、ちょっとした平に、米軍の死んだ人も一時埋めといたと。  虎子で飛行機落ちてね。墓場に一時期埋めといた。米軍やがな。日本人ではない。米軍が死んだもんでな。兄が言うにはアメリカ兵が美束の宿に泊まっておったと。そのままにいけといた。 うちにもあったんよ。「これ何」言ったら、飛行機のかけらや、と。拾いにいったんやもんな。3つ上の兄がね、飛行機が来ると、戦争終わってた、びーにじゅうくう、びーにじゅうくう、ってね。通る飛行機をね。そう言うとったよ。私は戦争が終わってから生まれた。  土曜日になると、「これから掃除やる、箒もって来いっ」ていて、白山神社の掃除を夕方になるとみんなで。お宮さんの掃除した。「遊んでるのだから、掃除しろ」って、上の子が掃除するから、私らは箒とりに行った。

中山観音寺 3月第2日曜日の大般若さんの 聞き取り

 岐阜県揖斐郡揖斐川町春日中山観音寺は江戸時代は大垣藩が再興、関ケ原の戦いでは小西行長を匿った歴史ある曹洞宗の寺である。   観音寺は山間の中山集落の上方、山間の急な石段を上った場所にある。社叢は深く、「お宮さんからの風でいつも寒いんじゃ」と言われたことを思い出す。  創建は養和元年(1181)で、関ケ原の合戦時には荒廃していたものの、小西行長を菩提をともらうために、さらに山を越えた集落である美束種本より、十一面千手観音像と大日如来、釈迦如来像仏像三体を譲り受けたが、十一面千手観音像にご利益があった。  村自体も源平の落人伝説、さらには壬申の乱の落人伝説をもち、村の由来は1500年さかのぼる。いまは、岐阜県に位置するが、村の先祖は、山間部の中から、中山という集落をつくったのである。   しかし、その集落も17戸になり、80歳前後の村人が寺を守ろうと、花祭り、御汁講、施餓鬼と行事が行われている。  なかでも人を集めるのが大般若だ。村の人は「だいはんにゃさん」と呼ぶが、寺の守である宮内さんによれば「なんでも願いが叶うありがたいお経を読む日」である。  村人は2月から準備をする。2月末日は小西行長をともらう小西神社のお祭りがあり、さらにの中の神社かあ寺におり、村の人はりんとうを磨き、寺を飾り付け、経典を点検する。 この日は、掃除するりんとうが並べてあった。 小西神社のお祭りが終わると、お寺に行く   りんとう磨き 女性たちは、数週間をかけて、この日のための食事の用意をする。食事は山のものである、白和え、蕗みそ。大根。全てが山のものである。人数分つめる。今年は雪がひどかったが、それでも何とか蕗のとうを拾ってきた。 「先代のおっさんは、それはそれは厳しい人じゃった」という治子さん。礼儀作法を学校さながらに厳しく寺から教わった。   「昔は、食べ物がなかった。五穀豊穣とかね。祈ったんですよ」と宮内さんから、教わる。僧侶の読経が響く。    「昔はね、出店が出ておった」と言うのは、四井(83)さんだ。  「おっさんの声が大きいてね。外まで聞こえたと。俺ら、青年団でね。礼儀忘れると、怒られたもんだ