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炭焼の記憶 70歳女性 岐阜県


(滋賀県の板並は土曜日は行かない)。土曜日は昼前に学校、行ったでしょう。土曜日はいかない。日曜日に。歩いて(親が炭焼きをしている滋賀県に行く)。

こーーーんな細い道をな。いまみたいな道ではなく、落ちそうなところ。国見峠、歩いて、あそこがこんないい道路じゃないの。谷伝いにこうして行ってね。少し間違ったら落ちるようなところを。 
上がって峠から、またずーっと。板並にずーっと歩いて行ったの。

 親は毎日、帰ってくる。帰ってこないと、炭をセタっていうので負んでくるでしょう。帰ってこないと、つくった炭が出せない。滋賀県からここ(岐阜)まで持ってきたんだ。
 
私ら、団体で連なってったんやね。子供が何十人と親と。私ら(子ども)は、炭みたいなものよう負んでこなかった。焚物みたいなもの。小さい子おるでしょ。弁当の空とかね。

 尾西の人が、2人ぐらいは同じところでやったけど、違う谷とかね。

 小学校3年先生からの話。いつまでかと言うと、中学ん時は、寺本山の勇次郎新田。おじいと兄がやった。兄が一人前になってから、おじいはおじいで火入れしとった。
 


新しく窯をうつやね。新しく炭窯をうつことを、昔の人は「火入れした」って言ったよね。
結っていってね、結い返し、兄のところの窯打ちだっというとね。。
尾西中の炭焼いているひとがほとんどくらい、来てくれた。次は、誰かのところに結い返しに行って。昔は食糧がないでね。缶詰とかおはぎとか、もらってきてくれて、楽しみで。楽しみで。広げるの。そんくらい食べ物なかった。

ぼたもちってね、窯打ちを頼んだ人がご馳走持ってね。それをうちで分けてね。
窯打ちのご馳走って、ご馳走はそんな時にしかなかった。
窯打ちは、泥をのして、ペターン、ペターンと。
何年に一回というか、次の年も、その窯がペターんと落ちないと使える。落ちると、打ちなおさなければいけんし、場所が変わると打たなあかんし、何年に一回とか、それはない。

次の炭が出るまでに、ここに持ってきていた。
六俵ぐらい負う。
炭の検査が1カ月か2カ月に1回あった。これだけ売りたいと思うと、毎日、帰りに負んでくるの。
女の人は3俵。それに子どもつけてなあ。4貫。240キロ。
昼はお弁当を持っていく。
夕飯、ここで泊まって食べて、そんなもの朝、明けぬうちから。行く。

私らは子どもやで、明るいうちに帰ってくるけど、山で日が暮れることはないけど、途中で日が暮れるぐらいで帰ってきた。大人は暗いうちから暗いうちまで働いた。


尾西谷ってのは、白山神社から登っていくところ。教如上人の岩屋へ着く。
古田谷というのは、スキー場の谷じゃよ。

細野。古田谷の手前に、私ら田んぼつくってるところ。あれは、谷じゃないわね。川、越えて、田んぼがあるんやわな。
細野に行けば、いくら大きい台風が来ても、美束中の谷が無くても、細野に行けば、米があるといわれるぐらい。荒れなんだわね。
柿の木坂。細野よりちょっと下のところで。
尾西谷を越えると梨谷。越えると細野へ。

美束ではね、炭を焼いた後は、草場にした。田んぼに草を入れなければならない。夏休みに草を刈っておいて、次の日に、私と弟と妹が遊んでいると親が、草をひっくり返しておけと言う。

草がかわくと、大人がまとめて小屋の中にどんどんつめていく。春になると、おいだす。へびが越冬している。

草は、カヤとか、こまぐさとか、刈ったんだけど、うどぐさはきらった。なぜかな、乾かないからじゃないかね。

昔は獣なんかおらん。子供が山にいても平気。いまは、木を伐らんやろ。大きくなってしまって、登れん。仕方なく里へ来るもんで。昔なんか、田んぼのあぜに、豆を植えたら、うさぎがくる。炭の俵で囲いをつくった。そのくらい。猪がくると、夜、ぼろきれをもやした。そんなくらい。
 
 



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