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11月, 2017の投稿を表示しています

足跡

 かべや谷に炭焼きに行った。雨降りにね、うさぎの踊りを見たことがある。小屋で飯を食ってて、何か来たと思ったら、後ろ足でピョンピョン、ピョンピョン。前足あげてピョンピョン踊りだして、一匹。  かべや谷では熊もしょっちゅう見た。子連れまでぶつかったことある。親があわてていってまう。荷物を置いて、3メートルから4メートルの下の川で顔を洗ってて。俺の荷物のそばで熊がひょん。これはどうしようと見てたら、親がひょこひょこ登っていった。うり洞。それから、子が後からついていった。100メートルぐらい行ってから、うおーっとよばった。それまでは呼ばらなんだな。  そしたらあくる日、炭焼きしたところから横をとことこ歩いていった。  川の中にボタボタ木を入れて、上から見とった。誰じゃしらん、魚釣りか来やがったか、俺においともいわんと見ていたら、川の中に熊がおる。こりゃ、やばいと思って。  うさぎは、なくよ。捕まえるとギャーっとね。  うさぎは狐に追われたって、下へは降りて行かん。後ろ足が長いで、捕まってまう。山の上に上って行く。うしろ足で飛んでく。漁師の犬でもね。途中まで負うとあきらめてく。下へいったら、つかまる。  雪山なんか見とると、きつねにぼわれたあのやろう、助かりゃいいと思っていると、雪の上で身が軽いでね。上手に。チョンチョンパタン。チョンチョンパタンと。  あまごは3年、あゆは1年。ますは10年。 さんしょう魚はこの辺りでは、10センチぐらいにしかならない。なめらかな肌しとるで。冬は葉っぱの中でも冬ごもりをするかしらん。    あゆは、昼間は早いけど、夜の2時ごろは寝てるでそこを狙うと釣れる。      

大木を伐るということ

             いまの中電はね、1000メートルばかり電気引いて下さいって言ったって。いやと言えんのやで。  でも、その当時はね、下の部落から電気引っ張って来にゃならん。美束中で40万円いったんじゃ。ほったところが、昭和22、23年に金がなかなか出来へんのやし。だから、お宮さんの木を伐って、売ったんや。どこのお宮さんの木も伐ってまって。  やったところが、神社庁に言わんでやったということを悪いことだと駒月巌が投書したんじゃ。神社庁から来た。木の切り株あるでわかるわな。40万円負担金で出して、電気は来たんだが、また、罰金40万円かかった。  払わんならん。右往左往。集落があの当時200件ぐらいあった。電気の40万円はお宮さんの木で出来て良かった。結果的にはあと罰金の40万円つくらないかん、ほうでしゃあないで、境内の木は神社庁の管轄であかんので、境外の木を伐ろうということになって、それを伐った。 駒月巌は、村の人が木を伐ったことについて、ただならぬ思いがあったようである。郷土史話では、次の話を収録している。 郷土史話 九曜星の袈裟(けさ)と尾光堂(おこどう)の橋    駒月巌 小寺四郎原典      美濃國池田郡糟河郷種本村、詳しく云えば濃尾平野西に尽きる処、揖斐川の支流、粕川の源、普く天下に知られた風光の地、伝説と落武者の別天地美束の安土にある尾光堂の橋と云うのがある。さらさらと流れる谷川の水に、純白の飛沫を上げて五つに折れた花崗岩の石橋の残骸を見る。雪の朝はつつましく綿帽子をかむり、春は花の香若葉の香、夏は新緑河鹿の声、秋満山の紅葉映えて幾十年、人の眼に物の憐れを訴へたことであろう。  この地は往時大垣藩戸田釆女正の所領であった。発心寺住職道悟は、一世に聞え再々其の藩公に拝謁し知遇浅からぬものがあった。その教えたるや心を治め、家を治め、人を治め、國を治めしむ、眞如一和の御佛の大寶悦のあふれるものがあった。藩主氏鉄公より九曜星の戸田家御定紋入りの袈裟を賜わったのは無上の光栄であった。  当時、戦国の後を受けて村はどん底に疲弊していた。偶々尾光堂橋架け換について、それに要する材木が村中に一本も無く、庄司小寺左衛門二郎も住職の道悟坊も手の施し様も無く頭を痛めていた。 或夜、発心寺の庭で何事かひそひそと語る二つの影があった。四

種本 太鼓踊り 

種本の太鼓踊り 聞き書き     念仏踊りです。流行り歌。踊りは江戸中期以降の流行った歌と言われている。 「梅の花」なんて、歌謡曲です。  「鎌倉御所のお庭に、日本で一の梅の花、いつぞや姫子と道づれしたら、此の花見事な見物しよ、姫御の鎧を見てやれば、中には唐絹合いには小袖、上には涼しのかたびら、下なる小袖を拝見すれば、一重咲いては春をくみ、二重咲いては咲き乱れ、末には小黄の梅がなる、とかく此の花御所の花、娑婆はわずかな間じゃほどに、妻よ願をよのや姫御」  大原の念仏踊りとか久多の花笠踊りとかありますが、ああいうものが余呉や伊吹町を伝わって入ってきたと思う。芸能ですから。  鎌倉の御所の踊り自体が江戸中期の流行り歌だから、それ以降ではないかと言われている。     種本と寺本で競争しあって、芸能を高めてきた。種本は寺本とライバル意識があって、競争しあって。聞いた歌を憶えてそれを高める。毎日練習します。自分で。集まってやるのは1、2週間前だけど、その前から自分でやってる。拍子を憶えるのは家の中でもやってるんです。  誰が持ってきたのかと言えば、伊吹殿上の歌がある。修験の信仰の影響がある歌があって、「我は遠国草深の、芝が庵を立ち出でて、伊吹殿上の見物に、山の麓で垢離を取り」これって禊するってことですよね。で登っていって、「弥勒菩薩は石の宮、石の扉を押し開き、有難殊勝と伏し拝む」。これは修験ですよ。  修験の人たちが伝えたとは思うけど、伊吹町のものを伝えてきたかと思うけどわからんです。峠を越えていくと伊吹町に鍬なんか買いにいって。  春日の修験の寺は、中山の観音寺だけ。美束の寺は天台宗から浄土真宗になっているんです。でも、伊吹山の7、8合目で修行していた播隆上人とか降りてきて、村の人に書きつけとかいっぱい渡しているんですよ。南無阿弥陀仏という掛け軸とか残っていたりとか。  ここの踊りは道路から踊り上がる。階段とお宮さんの踊り場で組み合わせてつくるのが面白いです。お宮さんへのアプローチをうまく使っているので、本社に来る前に時間がかかる。階段を上がってくる歌があって、上がってきたら、短い歌をやる。自分たちでつくったお宮さんを褒めたたえて、褒めたたえて上がってくるんです。  踊り子は大変です。太鼓の音と、笛、鉦の音、仲間だけに

貝原棚田 

貝原棚田      棚田の地形は谷が小さいのだけれど、水が少なくないんだけども、1メートル掘った所に砂利層がある。上の田んぼに水が入ると、そこからもれたのがしたの田んぼに。上から上から落ちて下へ下へと自然的に。下の方まで水がついてくる。特殊な地形じゃて貝原は。砂利層に染み込んでった水がつぎつぎ下へ落ちる。そいで水が冷えるもんじゃで、棚田の狭い所にでも、漏れてきた水をださないと冷たくなる。   棚田はね、山だから、水平にしようと思うと。傾斜を掘るもんだで、半分は盛り土する、半分はカットする。曲がって掘ってくと、わずかしかほらんでも出来る。  昔は、もっこって言ってね。縄で編んだのに泥をもって、地べたをひきづって、平にしていく。カットしてそいつに乗せて、埋め戻すところにほうっていけて。半分は地山を掘って、半分は盛り土にしてね。  山に沿って掘ってったもんだで、ぐねぐねと。土手の高さも均等にいったわけだ。  石垣の積み方によって、年代がわかる。  尾西にね、千疋城っていうのもある。あそこの石垣は古かった。川を渡ったところ。あの辺の上がっていってみたら、お城があれば、水平にしてあるで、それがあればあれば当たるわな。  いまの石垣は6個の石で一つを包む谷積み。明治の時代も谷積みもあった。  伊勢湾台風のときは、石を割って、石垣を積んだ。家の石垣も畑の石垣も全部自分でやった。  

祝うとは岩う

    大晦日の晩は、家に座っているようなものはたわけじゃった。  女の人が紡績に働きに行くじゃろ。大晦日は帰ってくるんやで。一晩で何軒も娘さん、見に歩いた。行かんとたわけじゃと。障子に指につばつけてちゃんとやると、障子に穴空く。15、16のころの話。「今夜のうちに家にいるたわけ、どこにおる。ほら来い」ということで。中山までも行ったんだ。雪の中。  山の神のキチンボもくじ引きで当たった人は、こんな大きいの負んでね。村中廻ったの。その夜さは、何を言っても、悪口言ってもいいの。悪口いいからかして。お前のところ、誰かが夜這いに来てるな、と大きな声で。  村中をそう呼ばって、歩いて。それから神様に収めると。おもしろかったよ。藁でつくるやろ。くじ引きで当たると担いだらなあかんな。  くじ引きのときは、祈っとるよ。当たらんように。こんな玉つくったやつにはね、こんな石なを三つぐらい入れてある。そいつが当たると、村中わあわあ、言って歩かなならん。雪のあるところを坂道を登っていって、皆が酒飲んどるで、酔って降りた。後ろにつかまって、ずるずるとひきずり、降ろされ、また、上がると、またやったろかと。三回ぐらい、引きずり降ろされると、おい、まあ、こらえてえのって。それが面白かった。  酒は、残ってるし。  いまは、昼間作って、それで終わり。  悪口は、20ぐらいまで言っていたかな。大きな声でよぼって歩いた。  結婚式もあると、今夜は祝ってやらないかんて、祝って、岩ったらな、あかんて。祝う。岩じゃな。こんな石なを藤で括って、結婚式の座敷の真ん中に持ってく。よそにとられたようなやつは必至こいて、かたきだと思って、もってくるやろ。そうすると、こんな大きな石を持ってくと床が落ちるとあかんで、家の人が、ちょっとまって下さい、板持ってきますと。  家の中は、酒も飲ませな、悪いことするし。10人も20人も担いだ石なを、座敷の、お膳の置いてある真ん中にどさんと。あくる日になると、自分で片づけなければならんで、大変。重いで。    それでも、お祝いだから文句は言えなかった。やっとこせ、するがごもんにすをかけた、と祝ってね。  やれやれ、ご苦労さんでした、お酒飲んでください、食べて下さいとね。

江戸後期 大垣藩主と美束の庄屋きんべえとの会話 助成を申請し、殿様にいわれた言葉は

がいの橋の物語 庄屋 きんべえ 話者 山口 保氏 鉱山付近の対岸の山 鉱山(美束から川合集落へ下るところにあるドロマイトの鉱山の上を通って大垣藩に税を納めていた)の上の道はがん(岩)が悪くて、通るのに危険な所があった。だから、庄屋のきんべえが、大垣の戸田藩に行って、難工事だ、と訴えたところ、殿さんが何言ったかと言うと、「きんべえ、工事が難儀だ、難儀だと言うけれども、一日自分が、持ってった弁当の分だけ掘れないか」。しゃあないで「一日、持ってった弁当ぐらいは掘れます。」とこう言って。ほったところが、「それなら、辛抱して掘りなさい。」  補助金出す出さんはどうやったか、知らんが、それなら辛抱して掘る。きんべいは、帰ってきて、がいの橋を掘るようにした。  あの辺のがん(岩)はね、かねくいっていって、削岩機の削でさえも潰れるような固いがん(岩)。一日、昔でならノミで掘ったって、持ってった弁当の量っていったって、よほど辛抱すればできるわさ。そう言われて、そうですかと帰ってきた。で、通れるようにした。庄屋をやってたきんべえが、最後のお願いだった。  きんべえは、長年、庄屋をやっとって、「まあ、じじ、もう俺んところ来るな」と殿さんが言ったって。それほど長いこと、庄屋をやっとった。  この上の集落で、いま、屋敷があるけど、きんべえが滋賀県から土地をもらいに行ったというのは明治の代になってからだ。江戸時代と明治の境目に生きた人。(私の)おじいさんが明治8年生まれで、その人のおじいさんだで。きんべえは。  明治の代になってから、日坂の高橋さんに頼んで裁判して結局、大津の裁判で勝って、山林を何百町もらった。それが、経費がよけいかかった。集落で財産をもらったにもかかわらず、一代で炭焼いても焼ききれんほど土地が大きかったのに、集落で費用を出さなければならんので、そこで問題が起きた。  「新川きんべえが余分に使いこんでる」。ということがお寺の集会で出た。そんだけの財産を難儀してもらったくせに、悪者になったわけだ。(きんべえに)「文書を持って来い」と。そういことで、古い古い文書を持っていったら、目の前で火をつけて焼かれたと。裁判の書類は当たり前だが、それ以前の書類を目の前で焼いた。焼いたのは村のじん(人)。集落のじん(人)たが、金使いこんだじゃろうと、腹立ちまみれでや
台風迫るなか、春日村の生き字引、御大の話にあった、勇次郎新田、樋渡瀬に案内してもらう。場所は品又谷である。尾西集落から淀周りの分岐点を進行方向に向かって右の林道に入る。 春日村史の地図をもとに作成 林道の下にある樋渡瀬。樋のようになっているので名付けられたものと思われる。 林道終点にある看板。火越峠を越えて坂内に至る。 この辺りは、御大が若かりしころ、炭焼に山に入ったところである。 「ある雨の日だった。休んでいると、二本足でダンスするうさぎをみたのもこのあたりだ」と御大。うさぎのダンスは御大の脳裏に焼き付いているようだ。 ここから先は林道はないが、歩きにくい御影に足袋をおいて、御大の足形を掘った。御大にとっては、みかげ(花崗岩)に彫刻することなど、簡単なことなのである。弘法大師の杖の跡とはよく聞くが、御大の足跡は自ら残した足跡である。みやまに入ったら是非、御大の足跡を探してみて欲しい。地図にも記しておいた。 川にはあまごが。 しかし、杉には鹿や熊がはいだあとが、油をなめたものと思われるが、このようになった杉は枯れるのみである。山の現状を憂う御大である。 この辺りにサンショウウオがいるはずなのだが、と石をはがす御大。 茎がさける茸は毒がないと言う。 オコギの天ぷら はうまいと言う。 勇次郎新田は、勇次郎という人が開いた水田。5枚ほどあるが、このように植林してある。合掌造りの立派な小屋があり、牛も飼っていた。 村には、丈畑、むつし、みやまという区分があり、むつしは、焼き畑に適した標高。それより高いとみやま、深山になる。 むつしに近い山の中に、水田をつくった勇次郎さんの努力やいかに。 台風が近づくなか退散。 貝原棚田では、はさがけがたたずんでいる。