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江戸後期 大垣藩主と美束の庄屋きんべえとの会話 助成を申請し、殿様にいわれた言葉は



がいの橋の物語 庄屋 きんべえ 話者 山口 保氏

鉱山付近の対岸の山
鉱山(美束から川合集落へ下るところにあるドロマイトの鉱山の上を通って大垣藩に税を納めていた)の上の道はがん(岩)が悪くて、通るのに危険な所があった。だから、庄屋のきんべえが、大垣の戸田藩に行って、難工事だ、と訴えたところ、殿さんが何言ったかと言うと、「きんべえ、工事が難儀だ、難儀だと言うけれども、一日自分が、持ってった弁当の分だけ掘れないか」。しゃあないで「一日、持ってった弁当ぐらいは掘れます。」とこう言って。ほったところが、「それなら、辛抱して掘りなさい。」
 補助金出す出さんはどうやったか、知らんが、それなら辛抱して掘る。きんべいは、帰ってきて、がいの橋を掘るようにした。
 あの辺のがん(岩)はね、かねくいっていって、削岩機の削でさえも潰れるような固いがん(岩)。一日、昔でならノミで掘ったって、持ってった弁当の量っていったって、よほど辛抱すればできるわさ。そう言われて、そうですかと帰ってきた。で、通れるようにした。庄屋をやってたきんべえが、最後のお願いだった。
 きんべえは、長年、庄屋をやっとって、「まあ、じじ、もう俺んところ来るな」と殿さんが言ったって。それほど長いこと、庄屋をやっとった。

 この上の集落で、いま、屋敷があるけど、きんべえが滋賀県から土地をもらいに行ったというのは明治の代になってからだ。江戸時代と明治の境目に生きた人。(私の)おじいさんが明治8年生まれで、その人のおじいさんだで。きんべえは。
 明治の代になってから、日坂の高橋さんに頼んで裁判して結局、大津の裁判で勝って、山林を何百町もらった。それが、経費がよけいかかった。集落で財産をもらったにもかかわらず、一代で炭焼いても焼ききれんほど土地が大きかったのに、集落で費用を出さなければならんので、そこで問題が起きた。
 「新川きんべえが余分に使いこんでる」。ということがお寺の集会で出た。そんだけの財産を難儀してもらったくせに、悪者になったわけだ。(きんべえに)「文書を持って来い」と。そういことで、古い古い文書を持っていったら、目の前で火をつけて焼かれたと。裁判の書類は当たり前だが、それ以前の書類を目の前で焼いた。焼いたのは村のじん(人)。集落のじん(人)たが、金使いこんだじゃろうと、腹立ちまみれでやった。だから、集落の歴史は一切ない。
 あまりにも、むごい結果だったもんで遺言をした。「まごこ(孫子)の代まで、村の役は絶対やるな」。

 きんべえ、猟の名手じゃった。猪首(追われたししが必ず出て来る所、大平林道沿い)や、寺本の神さんの製材のところにも猪が来るで、あそこで鉄砲持って待っとると、方々から追われた猪が必ず来た。そうすると、きんべえは、猪や何やらにツルを付けて引っ張るが如く上手やったと。

 あるとき、ヒヒ、猿を二匹、鉄砲で撃って持って来て、昔はね、二階からぶらさげて、おった。そしたらね、死んでるはずのヒヒが生きり返って、そしたらね、怖い怖い目できんべえを睨んだんだっていうんだ。鉄砲で撃ったのに。死んでると思うのに、睨まれた。  そしたらね、自分の大事な大事な男の子供を兄弟があった。はやてっていう、今でいうなんぞな伝染病だ。コンコロコと二人とも死んだ。ほんで、改心しなあかん、と思って、鉄砲を止めて、それから昔は善光寺参り。善光寺参りというのは乞食をして参る。1カ月はかかるでな、托鉢をして、もらってもらって参る。罪滅ぼしに。参る人と一緒になった。同じ理由で善光寺に参る人やった。その人も懺悔して、きんべえも懺悔して。

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