スキップしてメイン コンテンツに移動

祝うとは岩う


   
大晦日の晩は、家に座っているようなものはたわけじゃった。
 女の人が紡績に働きに行くじゃろ。大晦日は帰ってくるんやで。一晩で何軒も娘さん、見に歩いた。行かんとたわけじゃと。障子に指につばつけてちゃんとやると、障子に穴空く。15、16のころの話。「今夜のうちに家にいるたわけ、どこにおる。ほら来い」ということで。中山までも行ったんだ。雪の中。

 山の神のキチンボもくじ引きで当たった人は、こんな大きいの負んでね。村中廻ったの。その夜さは、何を言っても、悪口言ってもいいの。悪口いいからかして。お前のところ、誰かが夜這いに来てるな、と大きな声で。
 村中をそう呼ばって、歩いて。それから神様に収めると。おもしろかったよ。藁でつくるやろ。くじ引きで当たると担いだらなあかんな。
 くじ引きのときは、祈っとるよ。当たらんように。こんな玉つくったやつにはね、こんな石なを三つぐらい入れてある。そいつが当たると、村中わあわあ、言って歩かなならん。雪のあるところを坂道を登っていって、皆が酒飲んどるで、酔って降りた。後ろにつかまって、ずるずるとひきずり、降ろされ、また、上がると、またやったろかと。三回ぐらい、引きずり降ろされると、おい、まあ、こらえてえのって。それが面白かった。
 酒は、残ってるし。
 いまは、昼間作って、それで終わり。
 悪口は、20ぐらいまで言っていたかな。大きな声でよぼって歩いた。

 結婚式もあると、今夜は祝ってやらないかんて、祝って、岩ったらな、あかんて。祝う。岩じゃな。こんな石なを藤で括って、結婚式の座敷の真ん中に持ってく。よそにとられたようなやつは必至こいて、かたきだと思って、もってくるやろ。そうすると、こんな大きな石を持ってくと床が落ちるとあかんで、家の人が、ちょっとまって下さい、板持ってきますと。
 家の中は、酒も飲ませな、悪いことするし。10人も20人も担いだ石なを、座敷の、お膳の置いてある真ん中にどさんと。あくる日になると、自分で片づけなければならんで、大変。重いで。
 
 それでも、お祝いだから文句は言えなかった。やっとこせ、するがごもんにすをかけた、と祝ってね。
 やれやれ、ご苦労さんでした、お酒飲んでください、食べて下さいとね。

このブログの人気の投稿

木地屋のはなし

 折口信夫『被差別の民俗学』(河出書房新社)の「木地屋のはなし」には、春日村の米神が登場する。米神とは春日村の小宮神のことである。十数年前に、小宮神の木地屋さんから系図を鑑定してくれと頼まれていた折口が、十数年後にやっと小宮神を訪れるという話だ。「都合がついたら 惟喬親王の御陵を見に来てくれ」と頼まれている。 「切り立った崖の狭間に出来ている村落で、そこに猟師村のように家がごちゃごちゃ並んでおり、その中に本家というのが三軒程あるので、惟喬親王の御陵といっているのは、実は、その本家の先祖らしいのです。とにかく、私どもの知識では、何の根拠もないということがはっきり呑みこめましたので、これは「小野宮御陵伝説地」というくらいならよいかもしれないが、それ以上のことをいうのはよくないだろうと申しておきました。尚、ここの木地屋は、この第二図、即ち、金龍寺から出している方を掛けているので、採色をした極新しいものでした。」  折口は小宮神の木地屋から、系図の鑑定を頼まれ、系図を返すついでに、小宮神を訪れたのである。親王の御陵は本家の先祖らしい、 惟喬親王 伝説の地くらいならよいかもしれないと言っておいた、とある。   木地師は木から器をつくる職業だ。山の木を伐ってつくるため、山から山を渡って歩く定住しない生活が漂白民のようにも考えられ、ノスタルジックに語られることも多い。しかし、折口が「詩的に考えると、大昔から山に居った一種の漂泊民が、まだ、生活を改めないでいたように考えられるのであるが、そこまで考えるのはどうかと思います。とにかく、昔は、幾度も氏子狩り(氏子をつきとめて戸籍に登録)ということを致しております。ちょうど、山に棲む動物を探すように、氏子をつきとめて、戸籍に登録するので、こんな点から考えると、昔の民生もそうだらしのないものではなかったことがわかります。」と述べているように、民生は幾度も氏子狩りをし、山に棲む動物をさがすように戸籍を登録。木地師も氏子であることを利用して、関所を超えた。全国の木地師は二つの神社の氏子となっており、折口の言葉を借りれば、民生が行き届いた証拠であるが、祭神の一つが、小宮神の 惟喬親王である。器をつくるのに必要な轆轤を発明されたということで神となった(もう一つの祭神は筒井八幡である)。 惟喬親王は 清和天皇の兄弟。父は...

中山観音寺 3月第2日曜日の大般若さんの 聞き取り

 岐阜県揖斐郡揖斐川町春日中山観音寺は江戸時代は大垣藩が再興、関ケ原の戦いでは小西行長を匿った歴史ある曹洞宗の寺である。   観音寺は山間の中山集落の上方、山間の急な石段を上った場所にある。社叢は深く、「お宮さんからの風でいつも寒いんじゃ」と言われたことを思い出す。  創建は養和元年(1181)で、関ケ原の合戦時には荒廃していたものの、小西行長を菩提をともらうために、さらに山を越えた集落である美束種本より、十一面千手観音像と大日如来、釈迦如来像仏像三体を譲り受けたが、十一面千手観音像にご利益があった。  村自体も源平の落人伝説、さらには壬申の乱の落人伝説をもち、村の由来は1500年さかのぼる。いまは、岐阜県に位置するが、村の先祖は、山間部の中から、中山という集落をつくったのである。   しかし、その集落も17戸になり、80歳前後の村人が寺を守ろうと、花祭り、御汁講、施餓鬼と行事が行われている。  なかでも人を集めるのが大般若だ。村の人は「だいはんにゃさん」と呼ぶが、寺の守である宮内さんによれば「なんでも願いが叶うありがたいお経を読む日」である。  村人は2月から準備をする。2月末日は小西行長をともらう小西神社のお祭りがあり、さらにの中の神社かあ寺におり、村の人はりんとうを磨き、寺を飾り付け、経典を点検する。 この日は、掃除するりんとうが並べてあった。 小西神社のお祭りが終わると、お寺に行く   りんとう磨き 女性たちは、数週間をかけて、この日のための食事の用意をする。食事は山のものである、白和え、蕗みそ。大根。全てが山のものである。人数分つめる。今年は雪がひどかったが、それでも何とか蕗のとうを拾ってきた。 「先代のおっさんは、それはそれは厳しい人じゃった」という治子さん。礼儀作法を学校さながらに厳しく寺から教わった。   「昔は、食べ物がなかった。五穀豊穣とかね。祈ったんですよ」と宮内さんから、教わる。僧侶の読経が響く。    「昔はね、出店が出ておった」と言うのは、四井(83)さんだ。  「おっさんの声が大きいてね。外まで聞こえたと。俺ら、青年団でね。礼儀忘れると、怒られ...

木地師のふるさと 君が畑へ

 春日の小宮神で木地師の掛け軸を見せていただいたのが春の始まりだった。木地師とは、山から山へと木地を求めて移動する人々。しかし、木地師が移動した山にはすでに人の村がある。  「やたら木を伐ってしまうで、恨まれて、恨まれて」    藤原さんは、木地師の祖先が定着する過程であった苦労のことをお聞きした。その一つがお寺の話で、明治まで自分の寺を持つことができなかった人たちは、明治になって、自分の寺を手に入れる。明治の話だから、そう遠いことではない。  祖先は、木地師は惟喬親王に親王にお仕えした藤原定勝ということだ。御存じだとは思うが、惟喬親王は伝説の人物。実際には、 文徳天皇の第一皇子である。 皇太子に弟(清和天皇)が立ったところで、身の危険を感じ京都から逃れ、滋賀県で亡くなっている。伝説では山中にたどりき、轆轤を生み出したことになっているが、それ以前にも、当然に轆轤の技術はあった。  流浪の皇子ということで伝説の題材になったのだろう。 親王との関係を記す掛け軸が藤原家にあるが、集落には石碑もたっている。これは折口信夫が、先祖の墓と言ったぐらいがいいだろうとアドバイスを送っている。  伝説では先祖は、始めは古屋に入る。しかし、そこは雪が深い。小宮神に土地があったので、そこに住み着いたことになっている。 お寺の話は、また後に書くことにしよう。  今回は、木地師の発生の地である君ケ畑に行った。君ケ畑は滋賀県にある。ちなみに春日は岐阜県にあっても滋賀県境の村である。  君ケ畑に向かうのに一冊の本を携えた。君ケ畑について書いてある白洲正子の『近江山河抄』である。君ケ畑は「鈴鹿の流れ星」に出て来る。君ケ畑は白洲の『隠れ里』でも紹介しているが、鈴鹿山脈で十一面観音を追いながら、その帰りに北上し小椋谷の君ケ畑に寄ったのものである。その時の紀行文が自分は好きなのである。 白洲は、木地師の祖 惟喬親王について このように書いている。 「鈴鹿山脈の西側は亀山市で日本武尊の遺跡が至るところに見出されるが、それと呼応するように、近江の側に惟喬伝説が現れるのは、両者の間に何か関係がありそうな気がする」  日本武尊も親王も確かに敗者の話である。貴種が流れる話である。しかし、私の世代では日本武尊や有名なところでは源義経は知っても 惟喬親王は知らない。  全国の...