スキップしてメイン コンテンツに移動

大木を伐るということ

          

 
いまの中電はね、1000メートルばかり電気引いて下さいって言ったって。いやと言えんのやで。
 でも、その当時はね、下の部落から電気引っ張って来にゃならん。美束中で40万円いったんじゃ。ほったところが、昭和22、23年に金がなかなか出来へんのやし。だから、お宮さんの木を伐って、売ったんや。どこのお宮さんの木も伐ってまって。
 やったところが、神社庁に言わんでやったということを悪いことだと駒月巌が投書したんじゃ。神社庁から来た。木の切り株あるでわかるわな。40万円負担金で出して、電気は来たんだが、また、罰金40万円かかった。
 払わんならん。右往左往。集落があの当時200件ぐらいあった。電気の40万円はお宮さんの木で出来て良かった。結果的にはあと罰金の40万円つくらないかん、ほうでしゃあないで、境内の木は神社庁の管轄であかんので、境外の木を伐ろうということになって、それを伐った。


駒月巌は、村の人が木を伐ったことについて、ただならぬ思いがあったようである。郷土史話では、次の話を収録している。

郷土史話 九曜星の袈裟(けさ)と尾光堂(おこどう)の橋    駒月巌 小寺四郎原典
  
  美濃國池田郡糟河郷種本村、詳しく云えば濃尾平野西に尽きる処、揖斐川の支流、粕川の源、普く天下に知られた風光の地、伝説と落武者の別天地美束の安土にある尾光堂の橋と云うのがある。さらさらと流れる谷川の水に、純白の飛沫を上げて五つに折れた花崗岩の石橋の残骸を見る。雪の朝はつつましく綿帽子をかむり、春は花の香若葉の香、夏は新緑河鹿の声、秋満山の紅葉映えて幾十年、人の眼に物の憐れを訴へたことであろう。
 この地は往時大垣藩戸田釆女正の所領であった。発心寺住職道悟は、一世に聞え再々其の藩公に拝謁し知遇浅からぬものがあった。その教えたるや心を治め、家を治め、人を治め、國を治めしむ、眞如一和の御佛の大寶悦のあふれるものがあった。藩主氏鉄公より九曜星の戸田家御定紋入りの袈裟を賜わったのは無上の光栄であった。
 当時、戦国の後を受けて村はどん底に疲弊していた。偶々尾光堂橋架け換について、それに要する材木が村中に一本も無く、庄司小寺左衛門二郎も住職の道悟坊も手の施し様も無く頭を痛めていた。 或夜、発心寺の庭で何事かひそひそと語る二つの影があった。四つの眼は遠く尾光堂の橋を見つめていた。やがて静かに村の家々の灯りを見渡して、それから振り向いた二人の顔はニッコリとした様であったが、又、急に何事か難しそうな一種悲愴な気に満ちた。庄司と住職との月に照らされた横顔は、月のせいばかりでなく蒼かった。
 次ぎの日、種本村の家々へは至急相談致したき儀あり、庄司宅まで集り候へと云う觸れがあった。庄司は、鹿の角に大小を架けた床の間を背に道悟坊と並んで村人皆の集まって来るのを待っていた。
 やがて庄司が尾光堂橋架け換の事で談を始めた。用材には峠の大檜を伐ってくる事、今夜夜道で行くことなど申し渡された。村の衆は、「峠の大檜を伐るって・・・・・」と皆眼を見合した。「責任は庄司の小寺一家で引受ける、老も若きも皆力を合せてやってくれ」と申し加えた。
 其の夜峠の大檜の下で誠に奇妙な作業が行われていた。何十組も、藁縄で編んだもっこで担いで盛んに土を運んでいた。峠の大檜とは、隣村池田郡北山郷日坂村と種本村との境で稍日坂村に寄った所に生えていて長い年月、峠の大檜と皆から愛でられてきたものである。エッサエッサと運んだ土は大檜の北側、つまり日坂の方へどんどん盛り上げられているのだ、折柄東山の槍ヶ先から昇った鏡の様な月影を踏んで、誰もしわぶき一つせずに一生懸命に隠密作業は続けられた。影法師の影が小さく足許に鍬の先に吸いこまれる様に、眞上から月の光を浴び、庄司は初めてお月様を見たらしく「よい月じゃもうよかろう」と云った、この時峠の稜線(分水嶺)は大檜より北に移動していた。
 誰か水を、水をと云う声に、一同の喉はカラカラに渇からびていた。孟宗竹(たけ)で造った太い水筒が次々と廻されて音を立てて呑んでいた。誰かが次に廻す時、水筒を落して、その弾みで水は地面を低い方へ流れた。庄司は「皆の衆大檜の下の水は種本村へ流れるのう、種本村の大檜じゃのう」と云った。それから一里半の夜道を運び出され、夜明け方には尾光堂橋は架け換えられていた。あの峠の大檜で・・・
 峠の大檜が無くなったので日坂村の庄司高橋伊宮以下村人は大立腹であった。種本村庄司と立合談判をして大檜を取り戻そうと云うことになった。
 庄司の伊宮は「道悟の奴が九曜星の袈裟を掛けて来ると事面倒じゃのう」と村の衆に云いながら種本村へ押しかけた。種本村では庄司小寺左衛門二郎が折目正しく大小を帯びて一同を迎えた。村の者は庄司の三尺二寸の大刀をはらはらして見ていた。そこへ道悟が藩公恩賜の袈裟を掛けて出て来て、日坂村庄司の前で「衆生済度の為この道で御座る」と頭を下げた。日坂村の庄司は「ううむ、衆生済度の為、ううむ、皆の衆帰ろうぞ」と、くるりと後ろ向いて村の者を連れて帰って行った。たつた一言「事面倒じゃ」と云ったきりであつた。
 しかし、日坂村の向う見ずの一鉄と云う男、腹が立ってたまらず、一人で其の晩、尾光堂橋を切って落した。知った庄司伊宮は、「一鉄、何と云うことをでかしたぞ、たわけめが、事面倒じゃ、お上の掟に従えば十里四方の構え人(領外追放)じゃが、今夜の内に村を出て行け處構(ところかまい、村外追放)じゃ」と、やむなく一鉄は永い草鞋を履いた。
 庄司左衛門二郎と道悟坊とは「無理はあかんのう、こんどは皆で堅い橋を作ろうのう」と、それから江州曲谷村から石屋を呼んで御影石で見事な橋を架けて「末代橋(永久橋)を架けたなあ」と、三日三晩踊り且つ唄って喜んだ。
 それから二百余年、村の自慢として恩恵を受けたが、慶應2年(1866年)の水害で空しく昔の物語りとなった。
 昭和34年(1959年)の秋、美束地区に古今未曾有の被害をもたらした伊勢湾台風によって、正面谷の奥、瀬戸の山崩れで谷が大荒れし、尾光堂橋付近は川床の岩盤を表すまで流され昔の面影を偲ぶものは全て無くなった。
              
         

このブログの人気の投稿

木地屋のはなし

 折口信夫『被差別の民俗学』(河出書房新社)の「木地屋のはなし」には、春日村の米神が登場する。米神とは春日村の小宮神のことである。十数年前に、小宮神の木地屋さんから系図を鑑定してくれと頼まれていた折口が、十数年後にやっと小宮神を訪れるという話だ。「都合がついたら 惟喬親王の御陵を見に来てくれ」と頼まれている。 「切り立った崖の狭間に出来ている村落で、そこに猟師村のように家がごちゃごちゃ並んでおり、その中に本家というのが三軒程あるので、惟喬親王の御陵といっているのは、実は、その本家の先祖らしいのです。とにかく、私どもの知識では、何の根拠もないということがはっきり呑みこめましたので、これは「小野宮御陵伝説地」というくらいならよいかもしれないが、それ以上のことをいうのはよくないだろうと申しておきました。尚、ここの木地屋は、この第二図、即ち、金龍寺から出している方を掛けているので、採色をした極新しいものでした。」  折口は小宮神の木地屋から、系図の鑑定を頼まれ、系図を返すついでに、小宮神を訪れたのである。親王の御陵は本家の先祖らしい、 惟喬親王 伝説の地くらいならよいかもしれないと言っておいた、とある。   木地師は木から器をつくる職業だ。山の木を伐ってつくるため、山から山を渡って歩く定住しない生活が漂白民のようにも考えられ、ノスタルジックに語られることも多い。しかし、折口が「詩的に考えると、大昔から山に居った一種の漂泊民が、まだ、生活を改めないでいたように考えられるのであるが、そこまで考えるのはどうかと思います。とにかく、昔は、幾度も氏子狩り(氏子をつきとめて戸籍に登録)ということを致しております。ちょうど、山に棲む動物を探すように、氏子をつきとめて、戸籍に登録するので、こんな点から考えると、昔の民生もそうだらしのないものではなかったことがわかります。」と述べているように、民生は幾度も氏子狩りをし、山に棲む動物をさがすように戸籍を登録。木地師も氏子であることを利用して、関所を超えた。全国の木地師は二つの神社の氏子となっており、折口の言葉を借りれば、民生が行き届いた証拠であるが、祭神の一つが、小宮神の 惟喬親王である。器をつくるのに必要な轆轤を発明されたということで神となった(もう一つの祭神は筒井八幡である)。 惟喬親王は 清和天皇の兄弟。父は

中山観音寺 3月第2日曜日の大般若さんの 聞き取り

 岐阜県揖斐郡揖斐川町春日中山観音寺は江戸時代は大垣藩が再興、関ケ原の戦いでは小西行長を匿った歴史ある曹洞宗の寺である。   観音寺は山間の中山集落の上方、山間の急な石段を上った場所にある。社叢は深く、「お宮さんからの風でいつも寒いんじゃ」と言われたことを思い出す。  創建は養和元年(1181)で、関ケ原の合戦時には荒廃していたものの、小西行長を菩提をともらうために、さらに山を越えた集落である美束種本より、十一面千手観音像と大日如来、釈迦如来像仏像三体を譲り受けたが、十一面千手観音像にご利益があった。  村自体も源平の落人伝説、さらには壬申の乱の落人伝説をもち、村の由来は1500年さかのぼる。いまは、岐阜県に位置するが、村の先祖は、山間部の中から、中山という集落をつくったのである。   しかし、その集落も17戸になり、80歳前後の村人が寺を守ろうと、花祭り、御汁講、施餓鬼と行事が行われている。  なかでも人を集めるのが大般若だ。村の人は「だいはんにゃさん」と呼ぶが、寺の守である宮内さんによれば「なんでも願いが叶うありがたいお経を読む日」である。  村人は2月から準備をする。2月末日は小西行長をともらう小西神社のお祭りがあり、さらにの中の神社かあ寺におり、村の人はりんとうを磨き、寺を飾り付け、経典を点検する。 この日は、掃除するりんとうが並べてあった。 小西神社のお祭りが終わると、お寺に行く   りんとう磨き 女性たちは、数週間をかけて、この日のための食事の用意をする。食事は山のものである、白和え、蕗みそ。大根。全てが山のものである。人数分つめる。今年は雪がひどかったが、それでも何とか蕗のとうを拾ってきた。 「先代のおっさんは、それはそれは厳しい人じゃった」という治子さん。礼儀作法を学校さながらに厳しく寺から教わった。   「昔は、食べ物がなかった。五穀豊穣とかね。祈ったんですよ」と宮内さんから、教わる。僧侶の読経が響く。    「昔はね、出店が出ておった」と言うのは、四井(83)さんだ。  「おっさんの声が大きいてね。外まで聞こえたと。俺ら、青年団でね。礼儀忘れると、怒られたもんだ

春日村美束 六社神社 昭和23年 水田をつくるために岩をあけようとした話 

まんじろうさんが岩に穴をあけようとした話 話者 山口さん夫妻  岩に穴をあけて、自分の畑に水を通そうとした人がいた。岩はみたらし渕と言う六社神社のところにある。昭和23年ごろの話。 水田が無かったまんじろうさんは岩に穴をあけることで、畑に水を通したかったのだ。 水田にして米をつくるのだという、まんじろうさんが岩に穴を開けている姿を見たのが子供のころの山口さん夫妻である。  「カンテラを照らしてな、水盛をしていた。」 手伝っている人が一人いたことはある。水路は完成しなかった。 それほど、米がなかった。食べ物がないときは、リョウブの葉を茹でて乾かしたものを食べた。りょうぶ飯である。りょうぶ飯は黒かった。 貧しい食べ物ことについては、駒月作弘さんが記録している「美束の民謡」でも歌われる。   「美束の民謡には生涯無い(しょうがいな)という民謡がある。胡麻柄、えがらが最も古くから唄われ先人達が焼畑を作り、稗・粟・胡麻・えを採り主食としていた頃の哀歌である。 其の一節  しょうがいないしょうがいないと言うたことないが  今年しゃしょうがいないのあたり年しょうがいな(世の中が豊作をよろこんだ歌) 其の二節  胡麻柄えがら三ばからげて四わ炊いた、  三ばからげて四わ炊いた  (年暮れ近く寒くなってからの焼き畑仕事の哀歌と思われる) その後、よそやま(村外の山)へ出稼ぎに行くようになり(大方は炭焼き)、根尾・方面からほっそれ民謡が入り、そして嗚呼盆はなあヨイショ盆は嬉しや別れた人も 晴れてこの世に会いに来る。この歌は、発心寺・善照師匠が京都東本願寺へご奉公お勤めに行かれた時お習いになり、お盆にみんなで盛んに踊ったようである。 それから、年月たち昭和初期教如上人洞窟の発掘教如堂の建立等当時尊重の駒月巌が主体となり美束の有識者が名を連ね広く教如上人を宣伝し小冊子を発刊、全村に配布されたので70年程度を経過して居れど、どこかにお持ちの方があるはずです。 もともと美束は国見峠を越して、江州との交流が盛んであり、その頃すべての文化等も京都・長浜・長岡・そして美束へと経路が考えられるなか、その教如上人を讃える歌や滋賀県小津原にあり美束寺本の民謡や踊りの好きな人達が教如上人の宣伝に加勢したというか、煽られたというか(駒月巌の出版の記