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6月, 2021の投稿を表示しています
 家の茅は萱場があった。禿山の萱場は共有地。 茅の色味方をみて、秋。茅を束に、一束、一束。青い茅だと中がむさってまって、葉がばらばらと落ちてまう。雨にもぬれないようにうらっぽをからげて。秋になるとその葉で。 茅の口っていって、11月の25日ごろ刈るようにした。11月の25日ごろに雪が降ってね。茅の葉っぱが雪で抑えられてまう。すると、立った茅があらせん。20日にしてもあかんだ。15日ごろに引き下げて、茅刈をやったもんだ。村中の欲しい人が。全部、葛屋のうちだったで。 葛屋は20年も30年もするといたんでくると、減ったところに、さして補わなならん。村中の人が行ってると思う。   7月の20日からからかりぼし刈。草を刈っては、草を干す。鎌で刈っては一つかみ刈っては置き。二日三日干すと乾くでね。それを束にしてね、進みして、春、畑もっていく。 自分の畑で刈って茶畑にいれて。春に。茶の間に敷いて。草のはえるのを防ぐと、肥料になるというので、くりかえしてやっていた。それが、生活。 マナベとか、カラムシとかは、一雨降ると、葉っぱがばらばらと降りて、軸だけになるので、量が半分になって。からむしやまなべといった、柔らかい草はよろこばれない。茅は雨が落ちんでよい。    薬草は、せんじて飲むではないし。かぜひくと、どうきやら、うつぼぐさやら、その辺のおおばこやら、ゲンノショウコ。村中にあったということもないが、夏のかりぼしかるときは、ちょっと別に出しておいて、とっておくのもあった。学校で、ゲンノショウコもってこいということもあった。ゲンノショウコを供出した。そういうのがあると出しておいてくれた。
炭焼きは三ツ星を見て。四井 国正 さん  中山は6月半ばに梅雨に入る。20日に梅雨があける。 9月1日ごろ大雨になる。厄日だ。天の川を最近、見なくなった。星の川。 炭焼きは三ツ星を見て、起きなあかん。夜が明ける前に、水を背負って山車て、朝ごはんを食べて、道具を研いで、天気が良いなら、木を伐る。
船で琵琶湖をわたり本山参り  本願寺参、本山参り、国見から、長浜まで出て、船で大津へ。大津から京都まで歩く。 握り飯をつくる。あぶっておけば、3日は腐らん。船賃ぐらい。日が暮れると軒先で野宿して言ってきたと。 国見とは、行きたくなるような。人を通らせる重要な峠だ。 高島郡へ、みそたまりや、よき、おの、くわを会に行った。親父の時代(話者80代) 高島郡の鍛冶屋町。お蚕の繭をもっていくぐらい。 国見を越えて、お伊勢参り。お伊勢参りは一生に一度いけばよい
 川からせり上がる上ケ流の集落の情報でSさんが待っていてくれた。茶畑からは古い器も出る。対岸の山も見渡せる、土岐氏の時代に、戦いで殺された女郎の伝説を持つ谷も近い。  観光地となった風光明媚な風景も、誰かの生の上に立っていることを実感させられた。    Sさんは先人の営みを布や染め物のなかに込めてきた人。栽培が禁止される直前につくられた麻の糸を見付けた時は、実際に布に仕立ててしまった。  その記録のノートを見せてもらう。5センチ、8センチ、20センチと1日に織れた長さとともに、糸との格闘を残したものだ。  終戦直後、栽培が禁止された麻の糸を織物にするといっても、横糸が足りなかった。中国の真っ白いリネンを百草で染めたが、鉄の媒染を使用したこともあって、糸が切れやすかった。布を織ったのは森の文化博物館のアトリエだ。    夢の機織ができると思った佐名さんだが、トントンカラカラとはいかなかった。  「糸が切れたは結びもなるが、縁の切れたは結ばれぬ」  88歳のおじいさん。 織の音が村中に響き、古老が機織を応援していた。「独りで織り切りなさい」。「切れた糸の跡は残しておきなさい」。    「雨の日は糸がきれない」  「機をじっと見てると、昔のおばあちゃんの『おをうむ』姿がうかんでくる」  「機織の木材と麻から取り出す繊維にしか取り出せない音」  そう記している。  「麻を績むとはこの字で良いのかしら」とsさんが口にした。  私は柳田国男の「苧績み宿の夜」の一節を読んだばかりだった。  「苧の糸を績むということは、麻の皮を灰で蒸して乾かしてよく曝して、白くきれいな部分だけを、爪の先で細く割って、つないで撚りを与えて一筋の糸にして行くことで、蚕の吐く糸の細いものを五つ七つと合わせていくのとは、仕事が正反対になっている。」(苧績み宿の夜)  麻は蚕から糸をとるのと正反対の仕事と柳田が言う。昆虫と植物の違いとも言える。sさんも“績む”という言葉を麻の説明に添えている。ものづくりの人は言葉にも敏感だった。
  長者平には誰が住んでいたのだろうか。壬申の乱の落人がすみついたとか、長者が金を隠したとか、泥棒がすんでいたとかいろいろな伝説があるのだが、その反面、津島神社やお寺の五輪塔はあり、人の跡は残っている。縄文土器が出て、弥生文化の跡がない。  一帯は貝月山花崗が分布し、その東側に美濃帯堆積岩が分布する。貝月山花崗岩は白亜紀中期と言われている。平と言われているように、峠に近いこの地が平なのである。  粕川上流のこの地域は表側である。中山に流れるのは長谷川、美束の川は表川だ。  何の表なのだろうか。貝月の表なのだろうか。  美束には、縄文の跡がある。岩井谷、細野、長者平遺跡。不思議と弥生遺跡は見つからない。鉱物が採れたかののような地名が残っている。砂小畑、金小田、別所。このほかにあるたつわか、じょうぶだいら、といった地名。  名付けには何層かの段階がある。この大陸にはじめに住んだ人、移住してきた人、  春日のむかし話は、偉人の話や落人の話も全て昔話だが、古層をあらわす昔話があるものだ。どくじについて、村の人に聞いても、入ってはいけない土地だとか、良い土地だとかの解釈になるが、独自ばばの昔話こそが、古層をあらわしているのではと思うのだ。 少し長いが引用しよう。  独地ばば(「春日のむかし話」より) 長者平に「あそこは独地じゃ。」といって、人々がよりつかない場所がありました。どうして村人たちが、ここを嫌うようになったのかについて、こんなお話したが伝わっています。  この長者の里に一人の美しい娘さんがいました。ある日のこと、しんせきの家は遊びに行くと、とてもおいしいものを食べさせてくれました。自分の家でも作ってもらいたいと思い、 「このうまい物は、なんというのかいのう。」  とたずねました。親戚の人は、笑ながら教えてくれました。 「ぼたもちじゃよ。」  そこで忘れないようにと「ぼたもち、ぼたもち」と大きな声でとなえながら、家へ急ぎました。どんどん行くうちに小川がありましたので「ぽいとこせ」と言ってとびこしました。今度はそのまま「ぽいとこせ」とくりかえして歩きつづけました。  家へ着くと「ぽいとこせを食べたい」と、お母さんに頼むのですが、なんのことか分かりません。  うまいものと言えば、河原にあるみょうがのことだろうと思ったお母さんは、娘にみょうがをとってくるように言いつけました
松は腐らない  きんしょう   道をつくるときに松の木を四つに組んで石を入れる。 松は腐らない。 いまは松が枯れてしまった。 中山は松はいくらでもあった。いまは、松くい虫がついて、ほとんど枯れてしまった。日本全部。 ならも虫がついて、みずならも。 古屋の藤川谷にもあったんだけど、ほとんど枯れてしまった。(松の間違い? みずならは二メートル以上の大木はマイタケが出る。 枯れだしたらいっきに枯れる。夏に枯れる、いまは、ちょっと止まってきたけど。 皮と木の間につく。 木を枯らしたかったら、淵から水分を上げるので、くるくるって回して枯らす。二周回すと枯れるが早い。 岩出や垂井はみずならが枯れてしまった。坂内から発生した。
 栃餅づくり 栃をとってくる。 川に入れて水にさらすと泡が出る。袋のまま。 泡が出なくなるまで1週間。 長すぎても栃が減るので長すぎてもいけない。 栃をむくのが大変なんよ。 とちくじり、この辺はがじり。三代使っているもの。大変だけど、だんなさんもやってくれる。   計ったら5リットル。 灰を入れる前にも栃はあっためておく。 升に盛り上げて三升の栃の実。ひたひたに水を入れて、昔の人は栃一升に木の灰を一升。 「分量よりも一升分は灰を入れなければだめだ」ということをおじいらは言っていた。 今日は三升五合。 灰はすりきり。栃は盛り上げて測る。  ごとごと煮る。  湯が沸いたら混ぜて。混ぜないと灰ばかりが下に沈んでしまう。3時間ぐらい。  上の方がしょうゆみたいな色になると、とおってる(浸透している)。  浸透していると、灰汁をぬいて1週間(3、4日)。  すぐさますと、中が白い。それは浸透していないということ。全部が同じ色に。  通っていないときは、灰を足す。  灰は里芋の葉を乾かしたものを。おばあに教えてもらった。 今日は一升足す。 入れすぎてもいかん。 つく前に熱い湯に一晩。昔の人は水に二晩。 灰を入れてから餅をついたら、ビリーとして、入れ過ぎると良くないな。 昔は栃一升に三合のもち米しか入れなんだ。抹茶色の本当の栃餅。一升五号の餅米に二キロの栃だが、本当に赤いのは、栃一升にもち三合しかいれん。 お宮さんのところの小学校からこんな雪んなか帰ってくると親が栃持ち焼いてくれた。夕飯の前に味噌つけて食べた。
  恋折峠と鉱物    恋折峠では、マンガンが出たが、掘りつくされて閉山した。さくらマンガンといって色の赤くついたマンガンだ。  マンガンは、桂谷に出た。みやうちさんは中学生のころ、背負って出した。奥の方は飾り物になるようなものはあったけど、入口は飾り物になるようなサクラマンガンではなかった。子供にはかなりの距離だった。  貝月山花崗岩は白亜紀中頃の約9500万年前に、美濃帯堆積岩類を貫いて形成され、2・5から3キロの範囲で接触変成作用を与えている。だから、貝月山花崗岩の南東側にあたる川合には、石灰岩が帯状に分布し、ドロマイトやスカルン鉱物が作られている。鉱物組み合わせは変成の程度によって異なる。  ドロマイトは、珊瑚などの生物が海底に堆積して石灰岩になった後、カルシウムの一部が海水中のマグネシウムで置き換わって生成したもの。畑に入れると良いという。  峠からはなすび平に行ける。ししがいる。柔らかい泥だから掘って、ししが水を浴びる水たまりがいくつもある。獣の匂いで担う。三滝谷をのぼっていくことができる。  草場があった。カタクリの花盛りだった。春いくといちめんこ。先織った。山の向こうがおかぼら。どんどこ。えぼし岩へもそこから行けるんだ。国見も禿山もおねばかりで行ける。こっちへ降りてくればこより峠だ。
 中山 鳥居の話 川合から奥の道は大正10年ごろに出来た。だから、中山の鳥居も川をひいてもってきた。 石は川合と小宮神の間でとった。 春日の人全員集めてニンプでててもらった。 川に道をつくってコロひいて、ぐうぐうと手で引っ張ってくるんや。 春日中の人がほとんどくらいひっぱったらしい。何百人て来たんだ。もともとある石を、きれいに割って持ってきた。 お宮の鳥居のところで、きれいに成形した。成形するのは石工さん。 川をきれいにならして、木をひく。その上を転がしながら人力でひっぱった。 ころっていうのは、丸い木を下にひくと、木がコロコロ回るので、これをコロという。 それまでは鳥居がなかった。ニンプを頼むぐらいだから、中山の人はお金があった。鳥居ができたのが大正10年だ。 おじいさんが、きへいといって区長をやっておった。おじいさんはこんな縄を二階においておいた。なった縄を、なって。幾重にもして、それをみんなで引っ張った。何百人。春日中から来て。 三トン。重機がなかったので、起こすのに、ぐるぐる回して。 中山に金があった。木とか炭焼きで潤っていた。中山は、集落の付近が中山の山。他の集落は、山が無かった。 中山は背負っておったもんで、ちょっと裕福。ああいう大きな鳥居が出来たと私は思う。
恋折峠に登ってみた。    道はいくら探してもない。表面にじゃりが一杯できている。表土が流れて、じゃりがでた。畑してあったんで、もっと良い泥がなければいかんのに、流れてしまった。  落葉樹は道がわかる。表面に昔の道が必ずある。杉の木の植林がしたりきってあるので、怖い存在だよ。よけいな土砂がますます流れる。  登り谷なんか行くと、岩が出てる。土が流れてまって。いかに水が流れているかということだ。  金ほど重たい石もある。マンガンが出るようなところで、そういう石がある。  
 地名 古木洞は、蛇が住んでいると言われていた。おじいさんが蛇が鳴くのを来たと言った。穴があいていた。気持ち悪いのでよういかん。 大平では、大蛇が死んでいた。骨だけになって、その水は臭くて飲めなかった。 なすび平 昔、おじいさんが勾玉を拾った。ししがおるぞ。柔らかい泥だでな。猪が水を浴びる。 池がいくつもあるよ。ちいさいけどさ。臭いぞ。動物のにおい。 みたき谷から登れる。V字になったところ、檜は100年以上経っている。 V字の向こうは、植林していないところは、春はカタクリの花盛り。それが終わると鬼百合がイチメンコに咲くんだ。