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  長者平には誰が住んでいたのだろうか。壬申の乱の落人がすみついたとか、長者が金を隠したとか、泥棒がすんでいたとかいろいろな伝説があるのだが、その反面、津島神社やお寺の五輪塔はあり、人の跡は残っている。縄文土器が出て、弥生文化の跡がない。

 一帯は貝月山花崗が分布し、その東側に美濃帯堆積岩が分布する。貝月山花崗岩は白亜紀中期と言われている。平と言われているように、峠に近いこの地が平なのである。

 粕川上流のこの地域は表側である。中山に流れるのは長谷川、美束の川は表川だ。

 何の表なのだろうか。貝月の表なのだろうか。

 美束には、縄文の跡がある。岩井谷、細野、長者平遺跡。不思議と弥生遺跡は見つからない。鉱物が採れたかののような地名が残っている。砂小畑、金小田、別所。このほかにあるたつわか、じょうぶだいら、といった地名。

 名付けには何層かの段階がある。この大陸にはじめに住んだ人、移住してきた人、

 春日のむかし話は、偉人の話や落人の話も全て昔話だが、古層をあらわす昔話があるものだ。どくじについて、村の人に聞いても、入ってはいけない土地だとか、良い土地だとかの解釈になるが、独自ばばの昔話こそが、古層をあらわしているのではと思うのだ。

少し長いが引用しよう。

 独地ばば(「春日のむかし話」より)

長者平に「あそこは独地じゃ。」といって、人々がよりつかない場所がありました。どうして村人たちが、ここを嫌うようになったのかについて、こんなお話したが伝わっています。

 この長者の里に一人の美しい娘さんがいました。ある日のこと、しんせきの家は遊びに行くと、とてもおいしいものを食べさせてくれました。自分の家でも作ってもらいたいと思い、

「このうまい物は、なんというのかいのう。」

 とたずねました。親戚の人は、笑ながら教えてくれました。

「ぼたもちじゃよ。」

 そこで忘れないようにと「ぼたもち、ぼたもち」と大きな声でとなえながら、家へ急ぎました。どんどん行くうちに小川がありましたので「ぽいとこせ」と言ってとびこしました。今度はそのまま「ぽいとこせ」とくりかえして歩きつづけました。

 家へ着くと「ぽいとこせを食べたい」と、お母さんに頼むのですが、なんのことか分かりません。

 うまいものと言えば、河原にあるみょうがのことだろうと思ったお母さんは、娘にみょうがをとってくるように言いつけました。娘さんは、ぼたもちのことはとっくに忘れて、みょうがをたくさん取ってきました。

 取ってきたみょうがを洗うように言われた娘さんは、川でみょうがの皮をむきましたが、むいてもむいても川ばかりで、とうとう何もなくなってしまいました。

 あきれはてたお母さんはなにも言いませんでしたが、このことは村人たちのうわさになり、誰もあいてにしなくなりました。いく年もたつうちに心はすこしずつひねくれていきました。

 何十年かたって年老いたおばあさんは、子供がほしくなり、長者平にある子宝を願う岩場に住みついてお祈りをはじめました。でも、子宝には恵まれず、だんだん恐ろしい顔の鬼ばばになり、村人に当たりちらすようになりました。

 人々は、この鬼ばばをただ遠くからながめて、誰一人としておばばと付き合う人もなくなりました。夜になると村へ出ていたずらをするおばばに、うんざりした人々はみんなでこのおばばをこらしめることになったのです。

 土に穴を掘り、おばばを生き埋めにしてしまったのです。

 土に穴を掘り、おばばを行く目にしてしまったのです。三日三晩泣き叫んで、おばばはついに声も出なくなりました。

「ここへは誰も来るな。おれの地じゃ。独りの地じゃ。」

 鬼ばばが鳴きさけびながら、しぼり出した最後の悲しい声でした。

 今もおばばのたましいは、夜の小鳥にのりうつり夜半になると、「ノーイ、ニョーイ」と鳴き、谷のかなたから「チーン」と答える声がします。この声が人びとに悲しいばあさんの胸の内を知らせくれます。

 この生き埋めにされたあたりは、独地といって誰も村人たちは近づかないようになりました。

 言葉には時代の層があると言ったのは柳田国男だった。現代の人が入ってはいけない土地は、おばあさんが埋められた土地と考えられていた土地である。おばあさんには次の特徴がある。


 おばあさんは若いころ、ちょっと頭が弱い。

 おばあさんは、おばあさんになってから子供が欲しくなったができなかった。

 おばあさんは、土地の人に悪さをして、その復讐に埋められててしまう

 おばあさんの埋められたところがドクジになる。

 話にはないが、挿絵のどくじは大きな岩である。キャンプ場にあるどくじの岩が使われている。

 長者平には、山芋ばばあの伝説もある。

 やまんばのおばあさんは、山芋のありかを教えた。

 独自ばばは埋められただけだが、おばあさんは食べ物の起源である。おばあさんは殺され、その岩から食べ物が生えるのである。

殺された女が食べ物になるのはハイヌウェレ型の神話であり、古い神話のお話が長者平に残っているのである。類似の話が、岩井谷近くの岩にも伝わっている。しょうば岩といって、おばあさんが岩で出産した話だ。ここも縄文遺跡がある。

春日には縄文遺跡があるが、弥生遺跡は聞いたことがない。どくじに人々は反応するのではないだろうか。


どくじばばの話は、岩場に住みついてお祈りをはじめたのが、おばあさんであることが重要な点と思うのである。


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