美束にあった信仰の話。教如堂。
うちら、子どものころにね、お宮で遊んでるとね、こんな幅の脚絆をね、ぐるぐるに巻いてね。ダーン、ダーンとと杖ついてね。何人としらんが、来るんやで。そいで母親に、
「あのおばあさん、これからどこに行くの」と言うとね。「教如さんに参りに行くんや」と言うたわ。
教如さんの岩屋※1があってね、お堂もあったんやね。堰堤の山道の上、そこの横に平があってね、教如堂があった。岩屋の下にあってね。それを、壊してね。お堂壊して持ったんやで。そいで、農業協同組合建てた。組合が美束だけあった。いまのお地蔵さんの横にね。美束農業協同組合※2。
昔、露天で焼くさんまいがあったの。死んだ人を。せんだんぎする、若い人が。せんだんぎってね、木を交差して組んで、死骸をひきづりあげてね焼いた。
ここの高い所から、お葬式の日に火が見えて気持ち悪かった。子どものころ、火の番。火の番とはね、火の用心っていうの。燃えてる日に来なん、ならんなら、さびしいて、さびしいて。3人くらいで、中学の人と、「火の用心、火の用心」って歩いたの夕方。そしたら、燃えてるやろ、その火が。この細い道、それから尾西まで降りていくんやけど、それがいややった。
ここからちょっといったところに、墓地があるの。そこには墓がつくってあるし、小さい子が亡くなると昔は埋めたね。私が子どもの時には親と廻る。石でね、ここに埋けたとか、言ってね。おそなえさ、そなえたり、ともらったね。そこの、ちょっとした平に、米軍の死んだ人も一時埋めといたと。
虎子で飛行機落ちてね。墓場に一時期埋めといた。米軍やがな。日本人ではない。米軍が死んだもんでな。兄が言うにはアメリカ兵が美束の宿に泊まっておったと。そのままにいけといた。
うちにもあったんよ。「これ何」言ったら、飛行機のかけらや、と。拾いにいったんやもんな。3つ上の兄がね、飛行機が来ると、戦争終わってた、びーにじゅうくう、びーにじゅうくう、ってね。通る飛行機をね。そう言うとったよ。私は戦争が終わってから生まれた。
土曜日になると、「これから掃除やる、箒もって来いっ」ていて、白山神社の掃除を夕方になるとみんなで。お宮さんの掃除した。「遊んでるのだから、掃除しろ」って、上の子が掃除するから、私らは箒とりに行った。
※1 鉈が岩のこと 尾西谷の奥江州越街道の近くにある。西円寺に逗留していた教如上人に対して石田三成が兵を向かわせたことを知った粕川27人の信徒が偏光寺、寂静寺、明随寺を立ち寄り、美束に入り、閑窓寺、長光寺、発心寺、西蔵寺、法性寺へと逗留。さらに、尾西、国見岳の鉈が岩で隠れる。徳川の勝利により、東本願寺を創立。
※2美束農業協同組合は戦争が終わって、(山口さん)6年生。立派な材木があった美束でなく、お堂を壊して農協を建てた。同時期、神社の樹木を伐採した事件があったとのこと。