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栃餅づくり 大雪の降った日 

大雪のある日、春日村で栃餅づくりを見学。

 熊の足跡を調べる御大と中坊
「そんなに大きな熊じゃないぞ」と御大。
 


さて、栃餅づくりを見学。
以上聞き取り。


升に盛り上げて三升の栃の実。それに対し、水分をひたひたと水をい入れ。
昔の人は、栃一升に木の灰を一升。

 「分量よりも一升余分に杯を入れなければだめだ」ということを私らのおじいは言っていたが、今日は三升五合。灰はすりきり。栃は盛り上げて測る。

それを入れてごとごと煮る。入れて湯が沸いたら混ぜてね。混ぜないと灰ばかりが下に沈んでしまう。11時ごろからやったのでいまは3時間ぐらい経った。栃を入れたら苦土だと火をさげる。こうも燃やしておったら、焦げてしまう。
 冷めんようにしておくのが大事。

上の水がしょうゆみたい色になると、とおっている(浸透している)と思う。栃に灰がとおってると思う。浸透すると灰汁を抜いて1週間(3、4日)。すぐさますと浸透せん。中が白いと通っていない。全部が同じ色に。




 通っていないときは、混ぜるか灰を足す。灰は、里芋の葉を乾かしたもの。おばあに教えてもらった。里芋の葉ね。知らんやろ。今日は1升足す。入れ過ぎてもいかん。
 つく前に熱い湯に一晩。昔の人は水に2晩。

 栃を剥くのが大変なんやって。ギュッとやってむく。大変、大変、トチクジリ、この辺りではガジリとよぶ。三代使っているもの。大変だけど(だんなさんもやってくれる)。むくのな。
 
 川に入れて水にさらす。泡が出る。袋のままふる。泡がでなくなるまで1週間。
長すぎても栃が減るので長すぎてもいかん。
 栃がひたひたとする水。今日、測ったら5リットルあった。
 灰を入れる前にも栃はあっためておくとよい。

 分量わからない時に、灰をたくさん入れてみて、餅をついた。ピリーとっして。内臓悪うなると思って。入れすぎも良くないな。おばあに聞いたら、栃一升、灰一升。水も栃が隠れるくらい。

 こんにゃくも同じ。飴色になった色になった木の灰汁でつくるとおいしい。灰をたいて、上澄みをとってつくってな。よい灰汁でつくるとおいしい。こんにゃく1キロやったら、灰汁水は3リットルから4リットル。ねっとって灰水をまぜながらやると、かたまってくる。こんにゃくの弾力がつたわってくる。玉にならない時は、もっと入れる。

 今日は、夕方になるととおるよ。もう茶色になってるじゃ。

 昔は栃一升に三合の落ち米しか入れなんだ。まっ茶色の本当の栃餅。1升5号の餅米に、2キロの栃だが、本当に赤いのは栃一升にもち米三合しかいれん。
 夏はつかない。冬だけ。

 お宮さんのところの小学校からこんな雪んなか帰ってきた親が栃餅やいてくれて、夕飯の前に、味噌つけて栃餅食べた。

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