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春日から 国見を超えて 長浜までしょうゆがしを買いに行く話

冬になるまえにしょうゆがしを滋賀県まで買いにに行く話。
話者 駒月さん

冬になる前に、しょうゆがしを滋賀の長浜に買いに行く。長浜は、国見峠を越えて、板並を越えてさらに先。しょうゆがしというのは、しょうゆを絞った糟だ。糟がなければ冬が越せないということは当時の貧しさをあらわしている。

 夜、2、3時に出かけていく。その前に、しょうゆがしを欲しいと手紙出しておく。向こうから、何日なら、しょうゆがしを出すと返事が来て、それで行くんだ。
 
 国見峠で夜が明けるので、そこにカンテラ置いて行くんだ。帰るころに母親が迎えに行く。八貫目買って来たら、半分ずつ背負う。

 冬には行かない。秋休みが済んでから行ったもんだ。秋休みが20、21日。それが済んで、種本、中郷は屋根普請を組でふく。屋根は10年、15年しか持たないでね。屋根ふきたい人は区長に申し込んでおく。1年、5軒ぐらいなので多いと、1年待てと。

 11月の終わり、1軒で茅を八束ずつもっていく。
 茅場は安土のお寺を越して吹谷というところだけれど。私は若い時にね、青いような茅をもってくわけだが、ぎゅうぎゅうに詰めて持っていく、「こんな重たい束(そく)を」、と言われた。
昼前に一回、夕方に一回。

 後家さんは、ゆるいのを持ってくる。春もってくるものもあった。秋に刈っておくと、茅が軽くなるから。

 それが終わってから、みそ(しょうゆがし)買い、雪になったかもわからん。みそ買いに行って、遭難したものもおるんやし。

 国見まではね、寝仏を越してね、寝仏は寺本と同じ石の質の仏さん。みかげ石。江州と同じもの。

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