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  伊勢湾台風 聞き取り 小宮神 走り書き

宮神の土地は、水がいざったときにできた土地だ。

 伊勢湾台風でも他の橋は通れなくなったけど、下の吊り橋だけは落ちはせなんだ。


 六合にもりもりの上の橋も残った。


 渡るところに木の橋があっちゃこっちゃあったけど、そんなもんは低いで流れてまう。ここで渡って、山を越えて行った。ひときりは。

 伊勢湾台風は美束がひどかった。美束の貝月が中心で、集中豪雨が伊勢湾台風。

 尾西はそうふらんなんだ。貝月が中心で降ったので、野営場の谷あたりは、まともに貝月。安土も貝月へ行ってる。付近谷も貝月。東谷の半ぺた貝月。あの辺はひどい荒れたんじゃ。大きな御影石でも落ちてきたんだ。

貝月の山が台風がいった後に見ると山が白かった。

谷口から抜けて。山がはげてまった。木はあったけど、美束の山は中がが花崗岩やで、上の泥が浅いで。

 美束は地が浅い。すべってまうので、抜けになってまった。いまこそ、大きい抜けだけがわかるが、一時は山が白かった。抜けた土砂がどっと川へ来たので、ぼうでつついてみた。土砂ばっかり。美束から抜けが、いくつもの谷を抜けて。一つの抜けがくると落ちてくる。

 下で見とると川の真ん中に山ができる。大きな石でも流れたんかと思ったら、山がいざってくる。

真ん中に山ができると、淵へ水がたまる。家の庭に水がついてくる。その山がいざって下へいくと、庭の水もさああとひいていく。何回も何回も土砂が流れる。そんだけ、美束だで遠ないで、土砂が波になってくる。大きな抜けごとに波になってくる。ひどいもんじゃ。

 この下の川がいま3分の1あるなしの川だった。

そのあとに、室戸台風が来た。そいつは、伊吹山さんが中心。

 その時分は大高線はないで、こちらから運ぶより仕方ない。古屋の分校にヘリコプターで食料を運んだ。



 川が高いところでも御影石がある。御影というのは、美束にしかない。

それなのに、ここらでも御影が出る。川が高かったんじゃ。ここでも、御影ばっかじゃ。ここらは石原。向こうへいくと、美束の砂ばっか。下の平いくと、砂地じゃ。形が変わってまった。伊勢湾なんてもんじゃない。





 小宮神も岩盤やし、発電所に水が落ちているのは当たり前だった。


 嵐が来て、向こうへ山が切れて、あっちへ川がいった。川がいざっていったので、ここらは、美束から来た御影ばかし。大昔の話だ。


 国見峠の山にある石も川石なんだ。山の石が割れて、かどかどの石ではない。水で擦れてまるうなった石が多い。琵琶湖の水が国見峠を超えて、こっちへ来ておったんじゃ。

 琵琶湖も嵐で掘れて、掘れてッて京都にいくようになった。それまでは、高かった。いまでも、こっちより琵琶湖は高いでな。滋賀県は土地が高い。長浜近辺から伊吹山を見てみな。伊吹山が低う見えるに。土地が高いんじゃ。もっともっと高かったんじゃ。

 琵琶湖の水がいくらでも来れた。向でも、まだまだ、高いところに美束の石がある。川があったということ。

 宮地の山麓道路も人間がすんだんだ。あんなところにすんでも、すみにくい。水がない。その時分、山の下が大きな川やった。そんで下のほうに、船着きがある。船がきたんだ。それが、だんだんだんだんに、川がいざってて現在のところまで。じゃりを


 ここらへんは、掘ったら、みかげばっか。よほど大きい台風。昔、昔の大昔の話。天台宗の時代。美束の泥が多い。赤土でも、美束の砂がはいっている。ここらへんは固い。石ばっか。いざっていったので、所によっては瀬になったところと、せじゃなくて、まきとになったところは砂ばかり。こっち入ってくる道路は砂ばかり。ここらはちょこっと掘ったら石ばかり。瀬になったとったんだ。小宮神の土地は、水がいざったときにできた土地だ。



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