フチと水神
聞き書きのあとの感想文
人はどのように織ることや布とかかわってきたのだろうか。「織る」も「績む」も無関係になった自分には、佐名さんのノートや、古老の聞き書きから、その意味を考えるしかない。佐名さんのノートを読んで織るには音があることを知った。麻を織る音は独特で、「植物の繊維と木にしか生み出せない音」だと分析している。また、織る音が、機織の記憶も呼び寄せると佐名さんが書いている。
績み、織る。麻の種を撒く、皮をはぐ、蒸すお釜を峠を越えて買いに行く。90年前の出来事は記憶の中にとどまる。
麻は縄文には既に栽培されていたと言う。古代、さらには遥かに昔の人が無関係にいられなかった織るは、日常を超えて信仰や儀礼とも深くかかわってきた。
古代を考えさせる折口信夫の「死者の書」は、藤原南家の郎女が奈良県当麻寺に伝わる「当麻曼荼羅」を一夜にして織り上げた「中将姫伝説」からモチーフを得た物語である。仕上げたのは曼荼羅だが、初めは非業の死を遂げた皇子に着せる布を織っていた。なぜ、郎女が布を織るのかは、郎女の出自を理解しなければならない。折口信夫氏の論文「水の女」によれば、藤原氏は水の女の系譜である。即位の儀礼で沐浴にかかわった聖職があり、代替わりの物忌みがあける際に新たな衣を着せるのが「水の女」であり、その役割を藤原氏が担っていたと言う。
主人公である南家郎女が蓮の糸で死者に着せる布を織るのは、「水の女」を物語で語らせたに過ぎない。
「水の女」では、「ふぢはふちと一つで淵(フチ)と固定して残った古語である」との指摘が興味深い。
「フチ」が水神に関わるとは折口の論文に過ぎないのではない。春日の聞き取りで「フチ」や水の神につながる類似の話を聞くことができた。
川合の川村氏の聞き取りで「フチ」と名のつく、神様の名前を聞いた。川合には、たつかぶちさまという雨乞いの神様がいる。たつかぶちさまは、尾根のみ伝って、夜叉が池からやってきた、蛇体であり、雨乞いでは雨に濡らしてはならず、七反の布に巻いたうえで、傘をさす。
フチとは、水の神をあらわす古語であるとする説を踏まえて、人は織ることで、どう水の神にはたらきかけたのか。神様を待つ間に水のほとりで布を織っているとの「たなばたつめ」の存在も、水の女で指摘されている。 水を治めることが必要な時代、蛇も布も水も神も一つだった。