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 中山の禰宜さん 年間行事 話者 宮内さん

1月1日

1月1日の2時ごろ、皆さんがお参りするので、焚火を炊いて。暗いうちから参った。お神酒とかいろんなお供えをみなさんがして、禰宜さんがその家の御祈祷をした。

お供えものとしては、お鏡。丸いのを二個のせて、その上にミカン。本当は橙。

鳥居には、橙、炭とか末広がり、センスとかぶらけて1月1日の朝。みかんでなくて橙。橙は村になく買ってきた。あるいは、川合小学校の下に橙をつくっていた人がいた。

きりぞめ

この辺はみんな、炭焼きだった。みかんと、おけそく、鏡餅を紙に包んで、ぶらさけて、2日にきりぞめ、1年切らしてもらう、だから、きりぞめ。きりぞめは、個人個人がやる。きりぞめはそれぞれやった。2日の日。

おのらい

3日もお参りして、3日は、鏡もちをのらう。おのらい。おのらいという。

どしこし

6日、どしこしといって、それも、お宮へお参りして。

七草雑炊

7日は七草雑炊といって、神様にお供えする。

山の神

10日には山の神といって、しめなわをつくる。昔は、四井と松井、大郷、宮内と三本。いまは、1本。同じところに3本。山の講がすむまでは山に入れなかった。

じゅんごんちしょうがつ

15日正月。どんどん焼き、村からもってきて、火を焚いてもやした。家にもしめ縄があるので、それも焼く。いまでも15日。いまは、8時から。昔は夜が明けたころから。


月参りとして16日も。今度は24日も月参り。1日、16、24日が月参り。水はかぶって、いま、死んでまう。昔は、わしは3杯。水をかけたら、かけたそばから凍ってまう。裸になって井戸まで。いまは、お風呂にはいって、シャワーかけてお参り。楽なもんじゃ。水は、あったかい日に日中かぶると息がとまる。冬の方が大丈夫。


2月は節分。昔は村中をお清めの豆をまく。悪を出すように。入り豆に、藁をきざんで。家の中に入って一軒、一軒。祝詞をあげて。家中。炭の切れもいれて、混ぜた。豆は重い。自分のところで炒って。鬼は外、ふくのうち。

おおにのめ、おおにのめ。鬼の目、鬼の目といって鬼の目にぶつける。おおにのめ、おおにのめ、と。いまは、お寺と神社でまく。



昔は24日ごろに、まゆだんごといって、繭のようにだんごをこしらえて、お宮さんにお供えした。お蚕さんの。わしらもやりました。たくさんつくる。米のここを練って、ゆでて、食べられるようにしておそなえする。真ん中がくぼんでいる、落花生のまるっこいやつ。親指ぐらいの大きさ。


3月は3日はひな祭り。ひしもちをつくって供える。染めるのは食紅。いまもやってるけど、買ってくる。米の粉。


4月の11、12は春祭り。太鼓踊りがあった。禰宜さんは踊らない。

たわおどり。フチで踊りながらひょうしをとる。

ざいを振る人は戦の指揮者だから。ざいにあわせて太鼓をうつ。少ない人でも、5畳はざいにつけた、多い人は7畳。それからひょうたんつけて、しでをつけて。ざいふりは体の小さい人。太鼓のことを思ったら軽い。太鼓も頭に三畳や4畳もつけてある。傘をつけて、五色のもつけて、重い。太鼓からまねきとか、わらじとか履いて。太鼓を踊る人がえらい。大太鼓が一番えらい。

 大太鼓は一台。春祭りの神様は六社神社。秋葉神社でも踊った。お寺とお宮で踊った。


5月は1日参り。5日の日に、巻という、おもちをつつむ、まき、米のこおでねったやつを新しい笹で巻いて、蒸して、それを神様に。いい匂いがした。家でつくる人は結構いた。これもやめた。男の節句。ちまきと言う。

7月は月参り。お盆にならないまえに、2日ばかり参る。24日に参る。盆の月は終わり。禰宜さんはお寺には参らない。いまも、お盆は控えている。無くなった人の所へは禰宜さんは寄り付かない。けがれたところ。お盆はしょうらい、仏をむかえて流して、また、来年も、そういう行事だもんで、禰宜さんはやらない。


9月も3回。


10月になると、9日にも山の講。年間に2回。いまは1回。10月に藁が撮れるので。16日に17日に、中央で祭り、川合と一緒にやった。運動会もある。休みじゃなくても運動会をやった。

11月になると、1日が月参りを普通にやって、11月の11日に禰宜渡しといって、新しい禰宜をおみくじで選ぶ。

つくりはつお、おはつお、小豆とか米、芋といって畑でとれたものをお供えする。お供えして、昔は餅も撒いた。お宮さんの屋根から餅を撒いた。屋根越しで投げる。屋根の上をぴゅーっと2,3個投げると、あとは、撒く。屋根越し。なんでかわからない。お清めかもわからんわね。そいで、禰宜渡し。禰宜渡しというのも、昼間じゃない。夜、11時かにおみくじ。新しい禰宜さんを選ぶ。普通だったら明るいうちにやる。夜中にやる。夜中に動かす。祝詞をあげてお清め。ごく、おみき、塩。

ろうそくをつけなければわからない。のりとをあげた。生まれたとき、中山に電気はあった。美束、古屋はなかった。発電所から近いもんで、あった。水力は三つある。遠いところは、まかなえた。8ワット。一軒につき。暗いけど蝋燭よりまし。5ワットも晩なら明るい。字も読めた。1軒に一つ。ラジオもない。中山でも二軒。終戦はラジオ。


12月になると、門松をたてたり、お宮さんの掃除。1年に1回は、マスクあてて、昔から。掃除。美濃紙でこしらえて、掃除をした。神聖なものだから。お宮さんの掃除を24日ごろにする。どんどん焼きのお柴を寄せたりして1月1日に使う。


12月30日は最後のお参り。年間60回、いまは、25回ばか。月に2回ぐらい。


行事は徐々に減らしてきた。まず、無くなったのが太鼓踊り。50年になる。15から踊って、30ぐらいになるまで踊るには踊った。えらい。中山の踊りは激しい。首を振り振り。激しかった。太鼓は牛革。衣装はまだ持っている。ほとんどの人がほかってまった。まねきにも五色の。女の人は触れん。


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