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炭焼きの記録 昭和7年、89歳。川合 川村さん

 京都の北桑田郡、小浜へ出る峠、つるがおかで炭焼き。子どもを義務教育へ入れる年まで。

 自分は、親にね置いて行かれて、おじいさんとおばあさんに面倒見てもらたけど。親と別れるのがつらかった。そのつらさがあったので、そのつらさは子どもに味合わせたくないと。

 小学校を卒業したら、炭焼きと軍隊しかなかった。川合で生まれ、30年に、家内と結婚。

 小学校卒業して、飛騨の久々野の奥に。久々野から、あげみっていうところで、たかねとあおやで分かれる。あおやの方の奥へ炭焼きへ13年。冬場は12月にもどってくる。4月まで川合にいる。この近くに山が無かったので。

 分焼きというのは、親方がおって、その親方の山をば一表いくらで焼かしてもらうこと。久々野からだったら、歩いて。5里あった。

 家は行ってからつくる。はじめは親方の母屋にすまわしてもらって、そこから小屋をつくって。つくるとやうつりといって、親方のところから荷物を持っていって。窯をこしらえる。炭小屋も立てなければならない。それで、秤にかけて15キロ。すると、15キロきっちりで検査とおらんで、貫目にすると4貫6、7尺ないと検査が通らなかった。

 「ぬしやがごきはざかす」。という言葉は、うるしは自分できれいにやってるので、ご飯を食べてるとおもってみたら、はげたっぷりの碗で食べていた。炭焼きも、くすぶったところや、めしは柴で。炭は、買ってもらわならんで。商売となると。


 川合では、ひるがの高原へ、キンマつくって、ひっぱったという子が大分おるよ。


 きんまは、にんわかにできんな。樫の木を立派なええものを、厚みがキンマにする材料、樫の木。板にひくのは5センチぐらいの厚みだね。板は25センチもあれば喜んだ。種油を塗ってね。それが上等な油だった。

 リョウブとか楢とか、をばんぎにしいてね。二本のバンギにその板がのって。三本目にかかるぐらいな幅に。ばんきに三本にのらないかん。キンマの長さによって、ばんきの間隔は調整。間をあけると、用意するのが大変。

 炭の出るまでが大変。炭竃をつくって、炭が出てくるころは、ほおの木が咲くころ。そのころには、それまで、親方に借りて食べとった味噌やしょうゆや米、借りていたやつを払わなければならない。また、お盆にくる、費用がいるやろ。大変なんじゃんね。

 寝小屋ってつくる。寝小屋をつくて、屋移り。5日ぐらいかかるな。それから、釜をつくる。炭小屋をつくられねばならない。

 釜は一カ月ぐらいつくるな。ここらは、炭窯があるが、あらぶりばっかりいぇね。あらぶりというのは新たなことをつくる。石も全部拾わなならなん。つぎに、原木やら、寄せてくる。

 谷があって、向こうから原木を寄せるときは、さんばしって橋を架けてね。さんばしっていって、大きな木をば二本かけて、そいつに、木をしきつめて、そこをきんまで来なければならない。

 原木は一番いいのは、飛騨の方へいっても、みずなら、ならの木。りょうぶ。飛騨の方へいけば、かんばの木がおおいでね。しらかんばとかうだいかんばとかいろいろあるで。

 うだいかんばでも二種類あるで。男と女とあるように。二種類ある。男のほうが、炭にすると重い。ちょっと分がある。男に実がつく。男、女とはいわんけど、どんな木でも二種類あるね。さんしょの木でもある。春にあるやつは匂いがきついしね。ないのもある。

 うだいかんばも男のほうが、炭にくると分がある。みずならもある。りょうぶもある。どんな木でも二種類ある。学問的にはそんなこといわんやろ。

 二種類とかいておけば、どっちかが木炭にすると、分がくる、目方が重いというのがある。

 京都に行くと、違ったな。いろんな雑朴があるところだった。ささわらに熊はおる。ささというのは3メートルぐらいある。いまと違って、人を見たら逃げるばっかりやった。

鹿や猪は見たことがない。ウサギは、結構おった。ウサギの皮を供出。ソビエトの寒いところに。兵隊の服に使う。うさぎの耳を持っていかないと証明にならなかった。くくりをかけて、いろいろあってね。

 炭焼きに行っていたのは、中学1年生ぐらい。次男、三男も、この家におれん。食べ盛りだと、おじいさんとおばあさんのものを食べてしまう。炭焼きにいくと、食わせるために連れていかれた。ここにおれんということは、飯がなかった。畑がある人ならいいけれど、畑がない。美束あたりと違って山畑やで。

 おじいさんとおばあさんは、何を食べてのか。配給をこそこそ。山の草やら。たんぽぽやら、何でもかんでも。葉っぱも。リョウブも食べた。あれをもってきて、蒸して干して、それからもんで、こんこんにして。粉末の手前ぐらいまでこんこんにして、それをご飯にまぜて。りょうぶのこんこんにご飯を混ぜたということだな。ようみなんだら、ご飯がみれなかった。そんなん、山にいっても、リョウブの葉はあらせん。どこの山でもね。だまってても、とった。盗んだんじゃ。あざみ、ふき、わらび、ぜんまい。わらび、なんてのは上等、これ以上ないごちそう。冬はほしたのに、よもぎ。一番つらかったのはよもぎじゃな。よもぎのしもがあたるころ、あたらんところつんできて、あれは食べれんな。よもぎのね、かみかすが残る。それがはきだすと叱られる。呑み込まんならん。塩気のないものは呑みこめんじゃない。もったいないが離れるん。

 冬は、なんにも仕事はないじゃで。食べ物もちょことつず食う。ほんでね、わらうちっていってね。草履をつくらんならんで。わらうち石、木のつちで。


 

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