【蚕と大般若】
大般若さんの季節がやってきました!!大般若さんの日に聞いたことをまとめておきます。
(中山観音寺、2019)
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行事はいろいろあるが、大般若には来ないかん。大般若さんは、なんでも願いが叶うありがたいお経を読む日だ。料理はいろいろやってあるけど、大般若さんには山のもので料理をつくる。昔は、食べ物がなかったでね。五穀豊穣とか祈った。
昔はね、7、8と2日あって、鳥居のとこに出店が出ていた。おっさんの声が大きいてね。外まで聞こえたと。中央の人たちはみんなお参りしたんだ。青年団がみんな、何十人もお参りした。礼儀作法を教えるためにね。村の役にここであいさつするわけ。区長さんとかがね。
虫供養の意味やったんや。虫供養というのはね、蚕を殺すやろ。虫とかいろいろ殺すけど、一番ひどいのは蚕。繭にして、蝶になるのが入ってて、それを殺すんやんで。繭を作ってまって殺されてまうやでね。
昔、寝るとこあらせなんだ。腹の上にも蚕。家中蚕だらけ。昭和37、38年ぐらいまでね。桑畑ばっかり。蚕の養蚕組合が川合の小学校のところにあってね。そこから小さいの持ってくるんや。
ゴミみたいのが3べん、4べんとやると、脱皮しておばあさんになってく。それを殺してまうんやでね。うちんなか繭かけておってね、この間まで、家にその跡が残っておった。最近、やっとその跡が消えたがな。
蚕の音がしてるんや。家中。
60戸のうち8戸が蚕を飼っていた。いまのお茶畑のところに桑を植えた。桑を植えなくなってから、杉の木を植えた。その杉の木も、立派になっている。蚕があかんようになってきてから、25歳から炭焼きをやっていた。
春日でやっていたのは春子と秋だ。秋子は炭とかぶらんようにやっていた。桑はセタで負んできた。50キロの桑を摘んで運んで、それから細こう切る。春子ってのは、前の年に伸ばした桑を切ると秋になると、切ったあとから芽が出る。秋は葉っぱをきって、春が出るように。1mぐらい。1年で枝は伸びる。葉は指輪に刃がついていて、ぷつっと、切れる。
蚕は4回、脱皮する。脱皮をするうち、うとうとする、うとうとすると繭のうちとなる、糸を吐き出す。
繭の値段には高い時と低い時がある。だんご繭がある。繭が2つ、ひっついているもの。製品にならないということで、母が出荷せず、家の真綿にするように、していた。製品にならんので、片一方を釘につけて、伸ばしたのだ。
3家族で飼っていた。ようけもらったんだもの。3つの部分が一つになってかっとった。2階なんか、蚕の道具であがれんぐらいあった。山の中にほかってまったが、てずってね、1メートルぐらいの上に飼ったんだ。竹であんだやつ。てずは5段ぐらい、横に棒があって、その上で飼った。じょうそってのは、大きいやつ。最後には、繭の糸がわかるようになる。その時期がきたら、拾って、そいつの中に、繭をかけさせるやつ、ちくっていう。藁で編んだ。しかくいかこはてづ、あとはじょうそ。
中山の人がなぜ、出ていってしまったかって。杉があったのは中山だけだったんだ。他の集落はあまり、植えてない。山に登る。中山の集落の廻りだけが、杉、ヒノキだけで黒々していた。その杉の木を売って、村を出ていったんだ。
終戦後は日本中が焼け野原になってまったんで、木は売れた。昭和40年までだな。わしはそんなことせずにぼやっとしておったっけど。木を売って出ていった人は得をしているかもしれんけど、ずっと、ここにおれて、これまで住めて、これもよし。いまは、お金を持った人が強いだけで、木という財産はあかんのや。
中山の人はお大臣。そういえば、この寺にもようけ寄進して、柱の巻物とかね、寄付した人に、大郷貫蔵さんと人がいる。わしが生まれたときは、おらんかったけど。その人が亡くなったときはね、御輿の上にさらしつけて、皆がつかまってったんやで。墓地は県道の下やでな。上の方の家から県道の下に行くまで、村中の人が白いさらしにつかまって送ったと。お金を持って、お寺でもどこでも寄付する気持ちがあったということだ。
中山は桑のために建てた家やで。2階が生活の場で、1階が蚕を飼う。蚕のために炭で暖をとる。炭は炭酸ガスが出るね。蚕がじょうぞくになると、仕事をせんようになった。これから繭をつくるところで。新しい家で空気が入らんから。中毒やね。蚕の。