おなかの中に子どもがいた時でも、反俵っていう30キロを、田んぼにあったのをおねだした。谷山に行く途中に田があって、じいちゃん、ばあちゃんは、とまりこんで、田んぼをしていた。刈り取った俵をおねだすのは私の仕事、自転車で行って、歩いて、せたで負んで、道に出す。それを運ぶのは父さんの仕事。父さんは仕事から帰ると、私が田んぼからおねだした俵を取りに行く。
田植えや稲架かけも、生まれる寸前までやった。
茅刈っていって、茅をとる場所も谷山に行く途中にあった。川をこえて番線が伸びていて、自在鉤を茅にかけると、自動的に降りてくる。針金をたたくと来るという合図。針金のひびきでだーんと降りてきて、自在鉤と茅がどんどん降りてくる。
茅も夜にお父さんが道まで取りに行く。
春、草とった後に、草を畑にしきつめる。お茶畑に。いもくさといって、日照りが続くと、茅を入れる。
おじいさんの炭は売れていて、釜から出すのを手伝った。昭和50年生まれの子供は小さなそりをつくってもらって、それで釜から出した。上の子らは田んぼで遊んで、落ちてべたべたになって大変だった。
田んぼはいま、木を植えてある。