スキップしてメイン コンテンツに移動

なぜ炭焼きを始めたか 話者 新川茂至 さん

なたーしゃ、ふじみさんとしげさんの家でフィールドワーク


 庭師で、伐った木がもったいないで、それを活用したいということで。

木をほかるところもない。森林組合にもっていくと、銭、払わなならん。

伐った木を炭に焼いたらどうだろうということで、窯をつくったらどうだろう。


窯をつくりだしたら原木がない。山を分けてもらって、いまは、3カ所め。

山は頼んで分けてもらう。

炭焼きにする木は、一番良いのはカシ。


ここら付近はカシはすくない。ここら付近はスカヤマといって、砂が多い。


次はナラの木、ホウソウともいう。熊とかシシの餌だわな。

ナラでも種類があるでね、オオナラ、コナラ。粒を見るとわかる。


今年は月に3はい焼いた。30俵焼いた。


魚を焼くところや、バンガローも買ってくれる。


刃物の焼きを入れるのに、松の木とか、栗といった火力の少ない、クズ炭、そういうものがほしいと県庁から電話がかかってきた。

 

ほおの木を焼くとふかふかみたいな炭になる。それが結構ある。

 

固い炭でも、柔らかい炭でも使い用。

 

火力が強いと、刃物をあかみすぎる。だから、火力が弱い炭ではないと、ということ。


鍛冶屋は松の木の炭をつかった。

 

A gardener, concerned about the waste of felled trees, wants to make good use of them. There is nowhere to dispose of the wood. If taken to the forestry association, a fee must be paid. The idea is to make charcoal from the felled wood by building a kiln.

Once the kiln is built, there is a shortage of raw logs. Currently, we have access to three locations, having requested permission to use the mountains. 

The best wood for charcoal making is oak, known as "kashi." Unfortunately, oak is scarce in this area called "Skayama," where there is a lot of sand.

Next in line is the oak tree, also known as "nara" or "hoso." It serves as food for bears and deer. Among oaks, there are different types such as "oonara" and "konara," distinguishable by examining the acorns.

This year, we have burned charcoal three times a month, totaling 30 barrels.

we also sell the charcoal for grilling fish and for bungalows.

The prefectural office called to request low-intensity charcoal, like that made from pine or chestnut wood, for tempering blades.

Beech wood yields a soft, fluffy charcoal. There is an ample supply of it.

Both hard and soft charcoal are used.

Excessive heat can damage blades. Therefore, it's essential to use charcoal with lower heat intensity.

Blacksmiths use charcoal made from pine wood.


このブログの人気の投稿

木地屋のはなし

 折口信夫『被差別の民俗学』(河出書房新社)の「木地屋のはなし」には、春日村の米神が登場する。米神とは春日村の小宮神のことである。十数年前に、小宮神の木地屋さんから系図を鑑定してくれと頼まれていた折口が、十数年後にやっと小宮神を訪れるという話だ。「都合がついたら 惟喬親王の御陵を見に来てくれ」と頼まれている。 「切り立った崖の狭間に出来ている村落で、そこに猟師村のように家がごちゃごちゃ並んでおり、その中に本家というのが三軒程あるので、惟喬親王の御陵といっているのは、実は、その本家の先祖らしいのです。とにかく、私どもの知識では、何の根拠もないということがはっきり呑みこめましたので、これは「小野宮御陵伝説地」というくらいならよいかもしれないが、それ以上のことをいうのはよくないだろうと申しておきました。尚、ここの木地屋は、この第二図、即ち、金龍寺から出している方を掛けているので、採色をした極新しいものでした。」  折口は小宮神の木地屋から、系図の鑑定を頼まれ、系図を返すついでに、小宮神を訪れたのである。親王の御陵は本家の先祖らしい、 惟喬親王 伝説の地くらいならよいかもしれないと言っておいた、とある。   木地師は木から器をつくる職業だ。山の木を伐ってつくるため、山から山を渡って歩く定住しない生活が漂白民のようにも考えられ、ノスタルジックに語られることも多い。しかし、折口が「詩的に考えると、大昔から山に居った一種の漂泊民が、まだ、生活を改めないでいたように考えられるのであるが、そこまで考えるのはどうかと思います。とにかく、昔は、幾度も氏子狩り(氏子をつきとめて戸籍に登録)ということを致しております。ちょうど、山に棲む動物を探すように、氏子をつきとめて、戸籍に登録するので、こんな点から考えると、昔の民生もそうだらしのないものではなかったことがわかります。」と述べているように、民生は幾度も氏子狩りをし、山に棲む動物をさがすように戸籍を登録。木地師も氏子であることを利用して、関所を超えた。全国の木地師は二つの神社の氏子となっており、折口の言葉を借りれば、民生が行き届いた証拠であるが、祭神の一つが、小宮神の 惟喬親王である。器をつくるのに必要な轆轤を発明されたということで神となった(もう一つの祭神は筒井八幡である)。 惟喬親王は 清和天皇の兄弟。父は

竹屋谷 大平八滝に金属を探して ②

大平八滝は北伊吹鉱山のあった場所である。北伊吹鉱山との出逢いは「日本の鉱物」という図鑑に始まるという人が多い。そこには、全国の有名な石が載っている必携の一冊というとこだが、本の「ガドリン石」という立派な標本の産地がまさに大平八滝のある春日村北伊吹鉱山。 標本は次のように書いてある。 「日本ではまれな大きな結晶の集合体」(横125mm、神谷標本) 春日村と言えば、さざれ石が村の石であるが、このガドリン石も春日を代表する石ということになる。  この鉱物図鑑には次のような説明がある。 「新鮮なものは緑色だが、ウランやトリウムを含んでいるものは、放射能で黒くなり結晶構造が破壊されている。」  写真を見てのように黒いので、ウランやトリウムといった放射性物質を含んでいたことになる。この図鑑、山を滋賀県伊吹町では射能山と読んでおり実際に探していたこと、鉱山があったのが昭和30年代ということ、この鉱山跡からは立派なケーブルとかが伸びていることから、北伊吹鉱山では放射性のある岩石を探したのだろうという憶測を呼んだ。 北伊吹鉱山で検索すると、ここで働いていた人の証言が出ており、白い石は放射能があるので触るなと言われたとある。 いまでも、ここで産出された長石や煙水晶として売り買いされていたりする。ガドリン石の売買はないようである。 そんな妄想を抱いて訪れた春日村。北伊吹鉱山で働いていた人に、いつもお世話になっている山口夫妻が電話をしてくれた。 62年前、北伊吹鉱山で働いていた人で、4、5メートルの穴を掘り、鉱脈を探したり、飯場に食料を届けたりしていた。鉱山には作業員のほか、東北大学と鉱山師が調査に来ていたと言う。 放射性物質、射能山、ガドリン石といった名称から、おかしな妄想を抱いていたが、 「ウラン、そんなもの、壁砂の中にモジャモジャとある。微量ではあるがな」。 ウランなどと聞くと驚くのは素人で、花崗岩の中には「モジャモジャ」とあるらしい。 射能山と呼ばれたこともについても、「滋賀県ではそんなことも言われていたかもしれないが、こっちからは、出なかったな。62年前の時。18歳の時だ。長石っていう茶碗にかける白いところ、釉薬を採るんだ。この水晶に巻いてるだろう。これが長石。鉱脈が横に広がっている。1メートルぐらい広々あった。滝

中山観音寺 3月第2日曜日の大般若さんの 聞き取り

 岐阜県揖斐郡揖斐川町春日中山観音寺は江戸時代は大垣藩が再興、関ケ原の戦いでは小西行長を匿った歴史ある曹洞宗の寺である。   観音寺は山間の中山集落の上方、山間の急な石段を上った場所にある。社叢は深く、「お宮さんからの風でいつも寒いんじゃ」と言われたことを思い出す。  創建は養和元年(1181)で、関ケ原の合戦時には荒廃していたものの、小西行長を菩提をともらうために、さらに山を越えた集落である美束種本より、十一面千手観音像と大日如来、釈迦如来像仏像三体を譲り受けたが、十一面千手観音像にご利益があった。  村自体も源平の落人伝説、さらには壬申の乱の落人伝説をもち、村の由来は1500年さかのぼる。いまは、岐阜県に位置するが、村の先祖は、山間部の中から、中山という集落をつくったのである。   しかし、その集落も17戸になり、80歳前後の村人が寺を守ろうと、花祭り、御汁講、施餓鬼と行事が行われている。  なかでも人を集めるのが大般若だ。村の人は「だいはんにゃさん」と呼ぶが、寺の守である宮内さんによれば「なんでも願いが叶うありがたいお経を読む日」である。  村人は2月から準備をする。2月末日は小西行長をともらう小西神社のお祭りがあり、さらにの中の神社かあ寺におり、村の人はりんとうを磨き、寺を飾り付け、経典を点検する。 この日は、掃除するりんとうが並べてあった。 小西神社のお祭りが終わると、お寺に行く   りんとう磨き 女性たちは、数週間をかけて、この日のための食事の用意をする。食事は山のものである、白和え、蕗みそ。大根。全てが山のものである。人数分つめる。今年は雪がひどかったが、それでも何とか蕗のとうを拾ってきた。 「先代のおっさんは、それはそれは厳しい人じゃった」という治子さん。礼儀作法を学校さながらに厳しく寺から教わった。   「昔は、食べ物がなかった。五穀豊穣とかね。祈ったんですよ」と宮内さんから、教わる。僧侶の読経が響く。    「昔はね、出店が出ておった」と言うのは、四井(83)さんだ。  「おっさんの声が大きいてね。外まで聞こえたと。俺ら、青年団でね。礼儀忘れると、怒られたもんだ