スキップしてメイン コンテンツに移動

 蛇がとおると松の皮がむけている

        上ケ流で採集 

          (2021年10月採集)

 たかやという山があって、たかやを越した向こう側にぬめりという場所があって、うっとうしいような場所だ。そこに昔、太い大きな蛇がいたそうだ。

 たかやに仕事に行っていた人がいう事には、蛇が通っていくとき、どく間がないと、足を広げるしかない。すると、またの間を蛇が行く。

 ぬめりには、松の木があるのだけど、蛇が通ったあとは、皮がむけているのを村の人が見た。

  じゃのぶらは蛇の住処。じゃのぶらでしいたけを栽培した。

 

 上ケ流に来ると、必ず西谷で水を汲むという佐名さんの友人が西谷の龍の話をしてくれたのだった。「西谷は龍が出ていくとき、すごい水量で、柄杓で水が汲めた。」

 「柄杓で水が汲めた」ほどの水をもたらしてくれる龍。茶畑で有名な上ケ流は龍や蛇の伝説に事欠かない。

 蛇の住んでいるのはじゃのぼら。上ケ流地区の蛇の話は「春日のむかし話」に古が池の大蛇という話がある。おじゃれ、なる洞も蛇にちなんだ地名という。

 

 道中、佐名さんに、たかやとぬめりの話を聞いた。




 春日村史の地図を見ると、北ぬべり、南ぬべりがある。

 ぬべりとぬめりは同じことに違いないが、「ぬ」とは、民俗地名語彙事典(ちくま学芸文庫」)によれば、水気の多い土地のことである。沼がその一つで、湿地が水田になるとヌタとなる。

 佐名さんの話によると、ぬべりとはうっとうしい土地である。湿地に蛇が住んでいたという昔話となっている。



 小島山のてっぺんに「古が池」がある。池には大蛇がすんでいる。大蛇は猟師の愛犬2匹を呑み込んでしまう。猟師はかたき討ちをしようとするが仕止められず大蛇は追いかけてくる。 

 大蛇がのぞいた谷をのぞき谷、鳴き声がひびきわたったなる洞、大蛇の尾のあった地名を尾蛇垂と、大蛇の胴体が上の平一面にわたっていたので、満洞という。 (春日のむかし話)        

  おじゃれ、なる洞も春日村史に見えている。

 

 

 


 

このブログの人気の投稿

木地屋のはなし

 折口信夫『被差別の民俗学』(河出書房新社)の「木地屋のはなし」には、春日村の米神が登場する。米神とは春日村の小宮神のことである。十数年前に、小宮神の木地屋さんから系図を鑑定してくれと頼まれていた折口が、十数年後にやっと小宮神を訪れるという話だ。「都合がついたら 惟喬親王の御陵を見に来てくれ」と頼まれている。 「切り立った崖の狭間に出来ている村落で、そこに猟師村のように家がごちゃごちゃ並んでおり、その中に本家というのが三軒程あるので、惟喬親王の御陵といっているのは、実は、その本家の先祖らしいのです。とにかく、私どもの知識では、何の根拠もないということがはっきり呑みこめましたので、これは「小野宮御陵伝説地」というくらいならよいかもしれないが、それ以上のことをいうのはよくないだろうと申しておきました。尚、ここの木地屋は、この第二図、即ち、金龍寺から出している方を掛けているので、採色をした極新しいものでした。」  折口は小宮神の木地屋から、系図の鑑定を頼まれ、系図を返すついでに、小宮神を訪れたのである。親王の御陵は本家の先祖らしい、 惟喬親王 伝説の地くらいならよいかもしれないと言っておいた、とある。   木地師は木から器をつくる職業だ。山の木を伐ってつくるため、山から山を渡って歩く定住しない生活が漂白民のようにも考えられ、ノスタルジックに語られることも多い。しかし、折口が「詩的に考えると、大昔から山に居った一種の漂泊民が、まだ、生活を改めないでいたように考えられるのであるが、そこまで考えるのはどうかと思います。とにかく、昔は、幾度も氏子狩り(氏子をつきとめて戸籍に登録)ということを致しております。ちょうど、山に棲む動物を探すように、氏子をつきとめて、戸籍に登録するので、こんな点から考えると、昔の民生もそうだらしのないものではなかったことがわかります。」と述べているように、民生は幾度も氏子狩りをし、山に棲む動物をさがすように戸籍を登録。木地師も氏子であることを利用して、関所を超えた。全国の木地師は二つの神社の氏子となっており、折口の言葉を借りれば、民生が行き届いた証拠であるが、祭神の一つが、小宮神の 惟喬親王である。器をつくるのに必要な轆轤を発明されたということで神となった(もう一つの祭神は筒井八幡である)。 惟喬親王は 清和天皇の兄弟。父は

中山観音寺 3月第2日曜日の大般若さんの 聞き取り

 岐阜県揖斐郡揖斐川町春日中山観音寺は江戸時代は大垣藩が再興、関ケ原の戦いでは小西行長を匿った歴史ある曹洞宗の寺である。   観音寺は山間の中山集落の上方、山間の急な石段を上った場所にある。社叢は深く、「お宮さんからの風でいつも寒いんじゃ」と言われたことを思い出す。  創建は養和元年(1181)で、関ケ原の合戦時には荒廃していたものの、小西行長を菩提をともらうために、さらに山を越えた集落である美束種本より、十一面千手観音像と大日如来、釈迦如来像仏像三体を譲り受けたが、十一面千手観音像にご利益があった。  村自体も源平の落人伝説、さらには壬申の乱の落人伝説をもち、村の由来は1500年さかのぼる。いまは、岐阜県に位置するが、村の先祖は、山間部の中から、中山という集落をつくったのである。   しかし、その集落も17戸になり、80歳前後の村人が寺を守ろうと、花祭り、御汁講、施餓鬼と行事が行われている。  なかでも人を集めるのが大般若だ。村の人は「だいはんにゃさん」と呼ぶが、寺の守である宮内さんによれば「なんでも願いが叶うありがたいお経を読む日」である。  村人は2月から準備をする。2月末日は小西行長をともらう小西神社のお祭りがあり、さらにの中の神社かあ寺におり、村の人はりんとうを磨き、寺を飾り付け、経典を点検する。 この日は、掃除するりんとうが並べてあった。 小西神社のお祭りが終わると、お寺に行く   りんとう磨き 女性たちは、数週間をかけて、この日のための食事の用意をする。食事は山のものである、白和え、蕗みそ。大根。全てが山のものである。人数分つめる。今年は雪がひどかったが、それでも何とか蕗のとうを拾ってきた。 「先代のおっさんは、それはそれは厳しい人じゃった」という治子さん。礼儀作法を学校さながらに厳しく寺から教わった。   「昔は、食べ物がなかった。五穀豊穣とかね。祈ったんですよ」と宮内さんから、教わる。僧侶の読経が響く。    「昔はね、出店が出ておった」と言うのは、四井(83)さんだ。  「おっさんの声が大きいてね。外まで聞こえたと。俺ら、青年団でね。礼儀忘れると、怒られたもんだ

春日村美束 六社神社 昭和23年 水田をつくるために岩をあけようとした話 

まんじろうさんが岩に穴をあけようとした話 話者 山口さん夫妻  岩に穴をあけて、自分の畑に水を通そうとした人がいた。岩はみたらし渕と言う六社神社のところにある。昭和23年ごろの話。 水田が無かったまんじろうさんは岩に穴をあけることで、畑に水を通したかったのだ。 水田にして米をつくるのだという、まんじろうさんが岩に穴を開けている姿を見たのが子供のころの山口さん夫妻である。  「カンテラを照らしてな、水盛をしていた。」 手伝っている人が一人いたことはある。水路は完成しなかった。 それほど、米がなかった。食べ物がないときは、リョウブの葉を茹でて乾かしたものを食べた。りょうぶ飯である。りょうぶ飯は黒かった。 貧しい食べ物ことについては、駒月作弘さんが記録している「美束の民謡」でも歌われる。   「美束の民謡には生涯無い(しょうがいな)という民謡がある。胡麻柄、えがらが最も古くから唄われ先人達が焼畑を作り、稗・粟・胡麻・えを採り主食としていた頃の哀歌である。 其の一節  しょうがいないしょうがいないと言うたことないが  今年しゃしょうがいないのあたり年しょうがいな(世の中が豊作をよろこんだ歌) 其の二節  胡麻柄えがら三ばからげて四わ炊いた、  三ばからげて四わ炊いた  (年暮れ近く寒くなってからの焼き畑仕事の哀歌と思われる) その後、よそやま(村外の山)へ出稼ぎに行くようになり(大方は炭焼き)、根尾・方面からほっそれ民謡が入り、そして嗚呼盆はなあヨイショ盆は嬉しや別れた人も 晴れてこの世に会いに来る。この歌は、発心寺・善照師匠が京都東本願寺へご奉公お勤めに行かれた時お習いになり、お盆にみんなで盛んに踊ったようである。 それから、年月たち昭和初期教如上人洞窟の発掘教如堂の建立等当時尊重の駒月巌が主体となり美束の有識者が名を連ね広く教如上人を宣伝し小冊子を発刊、全村に配布されたので70年程度を経過して居れど、どこかにお持ちの方があるはずです。 もともと美束は国見峠を越して、江州との交流が盛んであり、その頃すべての文化等も京都・長浜・長岡・そして美束へと経路が考えられるなか、その教如上人を讃える歌や滋賀県小津原にあり美束寺本の民謡や踊りの好きな人達が教如上人の宣伝に加勢したというか、煽られたというか(駒月巌の出版の記