スキップしてメイン コンテンツに移動

投稿

2020の投稿を表示しています
  【聞き書き 死神 美束】 母親から聞いたことだが、死にたい死にたいという人が死んだときのことだが、死んだ人のそばにはロープが四方に貼られていて、死神さんがそこにおったと。 死にたい、死にたいということは絶対に言ったらあかんのや。 死にたいと言う人には、わしは言う。「死にたいと言っても助けられが、寝ること、朝起きること、食べること、やったらどうや」と言ったらな。その人は、ごはんは美味しい」と、「そんなら生きられるんじゃない」と言った。死神さんとか、作り話で済む話じゃないんや。 採集 2020・11・29 【日本民族誌体系 第4巻 近畿】 死に神の話 大正6年57歳で没した田辺の広島岩吉氏に聞く。首つりとか投身とか、自殺者を見付けた時は単独で救助するのではなく、必ず二人以上で助けねばならぬ。それは自殺者には死に神が憑いているが、死に神は救助者が一人であったらその妨げられたを怒り、かえって救助した者に憑くからだ。かつて泥棒があって、ある家の二階へ忍び込んだ。するとその家の妻女が首をつりかけている、それは非常におもしろそうで誰も相手がいないのに、誰か相手があって戯れるようで、やがて梁に帯を掛けたが何者かあるごとく、するすると帯が伸びゆき容易にかかった。泥棒は己が身を忘れて妻女の自殺をと止めたところ、妻女は初めて夢覚めた如くであった。家族を呼び起こしてかくと告げたので家族も喜んだ末、泥棒にはお礼の意味で少なからぬ金を与えたが、泥棒はその金を懐中に入れたまま翌朝同家を去らず門前で首をつりて自殺していた。これは妻女に憑いた死に神が妻女を離れて泥棒に憑いたからだ。しかし二人で助ければ、死に神はどちらへも憑くわけにいかぬので事無きを得ると。  
  【おかむかえ】 揖斐川町春日美束にはおかむかえという行事がある。今年も盛大に行われたようだ。良きかな。 おかむかえとは、神様の集まり(確か出雲で)に行っていた神様が村の社に戻ってくるのを迎える日。「神様が戻ってくるのを見た」「馬に乗っていた」「橋の上で見た」といった話を随所で聞く。その由来について、美束の駒月氏に語ってもらったことがある。 橋を越した高い処にお宮さんがある。そこに、どえらい信仰家の人が住んでみえて、その人が菰を敷いて、神様を迎えておった。そしたら、「いま、戻ったぞ」という音がした。それから、馬の鈴の音がじゃらじゃらと聞こえてきた。 この話を女の人に話したところ、その女の人は「神さんが戻ってくることなんかあるもんか」と。その人はかえもと言うんだけど、「かえもどけー、かえもどけー」と神さんが戻ってきたと。それで、かえもは不治の病になってね。それから、神迎えを重視しだしたということだ。 禰宜になって、毎月、神社に通うなかで、神様に「1日に帰ってみれるのか、それとも30日に帰ってみえるのか、教えてください」と1週間ほど神様の前でお祈りしてね。籤をつくってお尋ねした。神様は1日やって。そりゃそうだわね。30日まで神無月。11月の12時に済んでから5時、月明けと言わした。夜明けぐらいには帰ってくる。だから、朝5時にはおまいりする。 げんばの橋というのはね、下馬の橋。社のすぐ下に2メートル50ばかりの木の橋が架かっていた。あそこを下馬の橋という。太鼓踊りに歌詞があるだろう。  げんばの橋へと早着いた  げんばが橋をうちこえて  流れる川で垢離を取り  下をはるかにながむれば  かすかに眺めるオヤガミ様を おかむかえは今年も行われたようで。良きかな。 写真はかなり前のもの。上がおはぎづくり。下が熊の神社に運ぶ禰宜さん。
 【 ロクヂとは何か】 その土地はロクヂと言われていると教えてもらいました。春日村史下を読むと禁忌の土地です。隣の集落である中山にはシャクジと呼ばれるものがあるそう。 禁じられた土地には、ミシャグジ、サグジ等々。様々な呼び名があります。 急にゾわぞわしたのですが。 なぜ、禁じられるかを考えると、恐れることはないのかもしれないとも考えます。 恐れよというのは、誰かにとって都合の悪いことだから。誰が恐れよというのかを考えることは重要なことですね。違う理由があるかもしれないので、慎重に。 他の地方では、シャクジに縄文時代の石棒、あるいは、検知につかった物差しなどが埋められているというのは興味深いです。 このブログの読者様は、この写真の場所をご存じだと思います。何かを感じる土地ではありますね。

中山観音寺 十一面観音 

 中山観音寺の十一面千手観音、大日如来、釈迦如来は長国寺にあったとの伝説がある。この長国寺は長者平にあったというが、その実態はほとんどわからない。  しかし、美束の小さいお堂に置いてあったて、その観音堂はいまでも残っている。観音寺に移されたのだが、小豆と交換したということだ。 小豆八斗、1・8リットルが一升。八斗は120キロである。  美束の太鼓踊りには、種本観音様としてこんな歌詞がある。    種本観音様  鎌倉の御所のお庭に、日本で一の長者殿、米や小倉が 千五百、お宝倉が九つ、其の九つのお宝蔵に、七つの金を納め置く、それを譲りし子がなくて、御観音様へ御起誓を、御観音様の授けによりて、発明器用な一子をもうけて、七つの宝を譲り置く  現在、大日如来、釈迦如来は普段は厨子のなかにあり、見ることができない。大日如来は、禅定印を結び、ほっそりとした美しい仏様である。釈迦如来はふくよか。  自分には二体の仏像は別のものに思われるが、まったく門外漢である。しかし、それでも、一木づくりで平安後期、平泉中尊寺と同じ作風というのはある程度のヒントをくれるものだ。  三体の仏像が中山観音寺に移ったのは1600年の関原の戦いの後であるが、観音様だけ、言い伝えがある。江戸初期、目をわずらった大垣藩主のお姫様おさいさんが「中山の観音寺に参れば、眼が治る」と夢に見てた。おさいさんが、観音寺に籠ると果たして、目が治った。姫は、中山への道は険しいということで、栄春院を下に建て、観音寺をこの山寺からもっていってしまった。  観音様は下にいきたくないと四位家の欅にだきついた。観音だきつきという昔話が残っている。大正時代に、栄春院が燃え、観音様も燃えてしまったのだ。観音様は燃えることがわかっていたのではないか、と村の人から聞いた。その日に、観音様の魂が中山観音寺のいまの観音様に入ったとも。ちなみに、中山観音寺も火事にあったが、村人が仏像をなんとか救い出した。仏像に、肥やしをかけて消し止めたという。  ところで、戸田藩ゆかりのものの病を治したという伝承は寺だけではなく、中山近辺の神社にもあった。かつて、中山と川合の間には開戸神社があり、その神社にお参りしても病が治ったというのだ。こちらも神社は竹中氏がもっていってしまったが、大正か明治の終わりごろ古屋の人が返してもらった。現在、その神社は古屋の