しかし、美束の小さいお堂に置いてあったて、その観音堂はいまでも残っている。観音寺に移されたのだが、小豆と交換したということだ。 小豆八斗、1・8リットルが一升。八斗は120キロである。
美束の太鼓踊りには、種本観音様としてこんな歌詞がある。
種本観音様
鎌倉の御所のお庭に、日本で一の長者殿、米や小倉が 千五百、お宝倉が九つ、其の九つのお宝蔵に、七つの金を納め置く、それを譲りし子がなくて、御観音様へ御起誓を、御観音様の授けによりて、発明器用な一子をもうけて、七つの宝を譲り置く
現在、大日如来、釈迦如来は普段は厨子のなかにあり、見ることができない。大日如来は、禅定印を結び、ほっそりとした美しい仏様である。釈迦如来はふくよか。
美束の太鼓踊りには、種本観音様としてこんな歌詞がある。
種本観音様
鎌倉の御所のお庭に、日本で一の長者殿、米や小倉が 千五百、お宝倉が九つ、其の九つのお宝蔵に、七つの金を納め置く、それを譲りし子がなくて、御観音様へ御起誓を、御観音様の授けによりて、発明器用な一子をもうけて、七つの宝を譲り置く
現在、大日如来、釈迦如来は普段は厨子のなかにあり、見ることができない。大日如来は、禅定印を結び、ほっそりとした美しい仏様である。釈迦如来はふくよか。
自分には二体の仏像は別のものに思われるが、まったく門外漢である。しかし、それでも、一木づくりで平安後期、平泉中尊寺と同じ作風というのはある程度のヒントをくれるものだ。
三体の仏像が中山観音寺に移ったのは1600年の関原の戦いの後であるが、観音様だけ、言い伝えがある。江戸初期、目をわずらった大垣藩主のお姫様おさいさんが「中山の観音寺に参れば、眼が治る」と夢に見てた。おさいさんが、観音寺に籠ると果たして、目が治った。姫は、中山への道は険しいということで、栄春院を下に建て、観音寺をこの山寺からもっていってしまった。
観音様は下にいきたくないと四位家の欅にだきついた。観音だきつきという昔話が残っている。大正時代に、栄春院が燃え、観音様も燃えてしまったのだ。観音様は燃えることがわかっていたのではないか、と村の人から聞いた。その日に、観音様の魂が中山観音寺のいまの観音様に入ったとも。ちなみに、中山観音寺も火事にあったが、村人が仏像をなんとか救い出した。仏像に、肥やしをかけて消し止めたという。
ところで、戸田藩ゆかりのものの病を治したという伝承は寺だけではなく、中山近辺の神社にもあった。かつて、中山と川合の間には開戸神社があり、その神社にお参りしても病が治ったというのだ。こちらも神社は竹中氏がもっていってしまったが、大正か明治の終わりごろ古屋の人が返してもらった。現在、その神社は古屋の海戸神社となっている。
癒しや治しの伝承から、いまどきの言葉ではパワースポーット圏となっていたのだろう。それもそほはず、伊吹山系の西側にある。やはり、修験道のことを知らねばなるまい。
伝説によると、十一面観音様は霊験あらたかなる観音様だったが、十一面観音信仰からすると、白山信仰であるが、白山修験にもとどまらず、伊吹修験のなかで考えてみる必要がある。
癒しや治しの伝承から、いまどきの言葉ではパワースポーット圏となっていたのだろう。それもそほはず、伊吹山系の西側にある。やはり、修験道のことを知らねばなるまい。
伝説によると、十一面観音様は霊験あらたかなる観音様だったが、十一面観音信仰からすると、白山信仰であるが、白山修験にもとどまらず、伊吹修験のなかで考えてみる必要がある。