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美束 品又 大平 地名

11月の第一週の週末。美束では1年で最後の太鼓踊りがある。地名について美束の翁、山口保さんに聞いた。今回は、品又、大平地区。

この品又、大平周辺は明治になって美束寺本のものとなった。それまでは、滋賀県のものだったが、裁判で勝ち取った。勝てた理由は境の考え方だった。県境は水の流れに沿って分けるが、大平周辺は境から水が下に流れていくので滋賀県のものではないと主張して、美束のものとなった。それに尽力してくれたのが日坂の高橋氏で、六社神社に高位神社として祀っている。烏帽子をつけた神様として祀ってあるが、実際の人物であるとのことだ。寺本の80戸で一戸あたり、2町4反だった。
美束 山口保さん

谷にはこのような風景が 竹屋谷



まずは、品又、大平から。


品又

淀廻 水源池のあるところ。向乗畑 むかいじょうばた。鈴谷(すずたに)右に入った谷。
それから、ばんじゃぐら谷。谷に杓子小屋。
それから品又平 鈴谷のかみ。向品又、これは品又平の向い。勇次郎新田

それから、毛わらび谷。(左の谷)にとよわたぜ。毛ワラビ谷の上 狭い樋になったところを渡瀬
繁むつし。しげるにむつし。

右の谷が鷹巣谷。貝月山に 鷹巣谷の50メートル上まで林道がある。
貝月山周辺の尾根から見た景色 いくつもの谷が伸びる





左の谷によへん谷。その上にかべ矢谷。かべや谷辺りに東平 西平 寒や(さぶや平)。影なので寒いから。

民のじょう官林(たみのじょうかんりん)。それを知ってるものは少ない。

それから、とうげん谷(峠谷)。かべや谷にうり洞。火越峠 坂内の品又へ。

よへん谷に大平行ける。大平の竹屋谷の上に出てくる。山道がある。よへん谷の途中に有名なもちの木がある。これは有名だ。山にもちの木がある。1本だけ。それを目当てに大平に行く。
よへん谷は林道の終点から300メートルばかり行く。いまでももちの木はあると思う。



大平

淀廻から、左に一の谷。別荘より下の谷。一の谷のちょっといった別荘のあたりの田のあるところが平鍋。平鍋超えると、かんばあ谷。その上に話。尾小屋橋。
大平林道の沢

貝月山付近の尾根から見た景色 この一つが谷である。



橋より奥の谷が、下打棚(しもうちだな)、もう一つ左に上打棚(かみうちだな)。かのうち谷。これは地図にものっている。かのうち谷では石の小屋。石の小屋があって、じがや滝。滋賀県に行かんうちに、西谷、北谷(きんたんだに)、中谷(なかたに)、西谷の奥に滋賀県に行く道がある。上洞がある。

横掛(よこがけ)、それから熊坂谷、竹屋谷。大平。大平から分かれて、大岩谷。八滝のあるところ。坊主崩れは大岩谷の上。
戸棚岩


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