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中山集落で聞いた炭焼きの話

 中山で蚕を飼い、お茶をつくり、炭を焼いていた。昭和14年に戦争に行って、帰ってきて嫁さんもらって昭和23年、京都へ炭焼きに。それまでは池田山の頂上にいたが、木が無くなったので友達の話を聞いて行った。王子製紙の山で、焼子を探していた。
 山の口から親方について小屋に入る。町から10キロ。山の口から2キロ。境から堺まで1俵いくらでもらう。500俵じゃ話にならない。1400、1500俵あるなら親方と話をする。
 炭は下の木から焼いていくので上、炭を出すにも遠いところしか残らないが、京都の山ではいくらでもあった。40年木がないとだめで、京都にはまだ、たくさんあった。京都に行ったから中山には戦争から帰って、少ししかいなかった。
 
親方と自分の取り分は4分6分。親方4分自分6分。炭1杯1万3000円。1月に2つで2万5、6000円。食料費をぬいて残りで1年7万円もらった。京都では窯を5つつくった。境から境まで1町余りで。小屋と炭焼き小屋は下に使う。水の出るところに小屋と窯を作る。
 窯が燃えてくると、小屋をちゃんとする。子供がいたのでちゃんとする。小屋は柱を立てておいて棒をおいて、垂木をおいておく。片側が山になっているから木を落とせばよい。嫁さんに向って木を落としてく。屋根ができたら、垣根は嫁さんにやらせる。
 小屋は2日かかるが、簡単に屋根ができるし、1日でできることもある。
 小屋に蓆をひいておくが、雨が降ると床を上げる。穴を掘って石で固定する。子供がはねても何ともないものをつくる。板をしいてきちんとして次に、苦土をつくる。泥で固めて、鍋釜を置けるようにする。レールに木の枝をひいて、泥を運ぶ。泥は悪いと捨てる。土が悪いと火がでる。
 窯は1メートル4、50メートルの広さに縁をまいて、真ん中は長い1メートル60から70のものを立てて入り口に石を置く。前を高くして、コモがなければススキや笹をかぶせる。裏に穴を置く。キセルのように、煙が回りながら出るようにする。上から燃えて下かに降り、裏をくぐって上がってくる。
 京都を5時に出ると若狭に9時ごろに着く。お正月には買い物に行き、魚を買った。子供がいたので金魚をかってきたが、ネズミがとってしまった。水場の近くに竹筒をあてておく。風呂はドラム缶。
 お産は自分が取り上げた。池田に習いに行った。臍の尾もうまく切ることができたので、うちの子は出べそにならなかった。山でお産をしたので後産は猿が食べないように深く埋めた。
 窯の泥は鍬で叩く。乾いていないと火を炊くと落ちてくる。嫁さんが1週間叩く。池田山にいるとき、炭を出して入れていると、「父さん」と嫁さんが叫ぶ。見ると、天井がカサカサ動いておった。木の上を命がけで入り口まで。足が中にあったった時に落ちてきた。10キロもの土だ。
 天井が厚すぎたのかもしれないが、母さんは、叩き方が悪かったとしょげていた。それから、窯が冷えてきて、泥がおさまってきたので、鉄の棒をしばって、焼いた。しかし、叩いた方が力があるな。
 火を入れると初めは煙で外が真っ白になるほどだ。次に煙に色が出てくるんだ。匂いも赤い匂いになる。すると、入り口を狭くして燃えていかないようにする。6日目ぐらいに、穴を小さくする。上からのぞくと、けぶりがたち、木が赤く燃えていくのがわかる。それを見て、入り口を狭めていく。
 煙が、はじめは白い湯気になる。手をかざす。煙の上で2秒置いてチカっとくる。チカっとくるとのが合図。すると1日で青い煙となる。煙が全然、出なくなって、3時間すると今度は、入り口を大きくする。下のいぶっているのが燃えていく。そのけむりが無くなると、また、2、3時間。何も出てこないようになったら出口に蓋をしてしまう。
 
 2つ目は朝からやると、3時に木を立て終わり、一晩中もやすと木が乾く。朝、天井まで燃やし、蓋をし、5日目にとめ、6日目に出す。窯は温かいうちに木を立てればすぐできる。
 1回目は2週間かかるが、1回つくれば、2回目は1回目ほどかからない。窯は、1500本ぐらいの木で1年つくる。焼きながらが速い。
中山にいた時から、朝4時に起き、暗がりから暗がりまで働いた。農地解放で田んぼを1反200円。小島に米を作っていたが、小作に出していた。炭焼きは中山の人ならお宮さんの所まで背負った。3時ごろ炭を背負って出てきた。2キロ、3キロ。もう一度戻って運ぶ。1俵が15キロで男なら5つ、女なら3つ背負った。1窯なら110俵。
 小学校5年から炭焼きの手伝いをした。桑の葉をとり、背負ってもってくる。お茶もやっていた。家に帰ると母さんが大根を食べろといったけ。大根は体にいいらしい。 蚕は学校から帰ると三べん、桑の葉を採りに行った。一籠30キロ背負ってくるんだ。蚕が収入が一番大きい。5年の時に道路ができるっていうんで、1日30銭で仕事に行った。正月は市場、小宮神までいった。
 柿餅がごちそうで、柿をとってきて皮をはいで、細かく刻んで米を入れて柿餅をつくる。すりこぎでつついていくと甘くなる。渋柿でしかつくれない。
 栗も拾いに行った。熊がおって、母さんが自分が見ておくからお前は逃げろといって自分が逃げたあと、母さんが来た。その途端、どさーって音がして熊が逃げて行った。
 家の木は兄のもので、兄が伐った。病気になると困るから残しとかん、と親父が言っていたのだが、兄が売ってしまった。下の製材所から昭和10年から14、15年ごろまで売らないかとしきりに言ってきて戦争の時でも売らなかったのに、親が亡くなったのが昭和37年ですぐに売った。大きな梨の木があった。杉の木を植えてしまったが、いまは伐れるぐらい大きくなっている。杉の木は木が3メートルに対して根が1メートル。横にいかない。
 小学校は1学級に50人。いまは2人。同級生で高等科へいったのは8人。それから農林に2人、師範にも行った。私は行っていない。各務原の飛行機工場に働きにいったが、それから軍隊に志願した。
 簡単なもの。役所に行き甲をもらう。足の裏にインクつけてペタンとハンをおした。中山に帰ってくると、そんなもん行かなくてもと母親も泣いた。
 戦争では最後は通信兵をやっていた。日本に帰ってから、その資格を取りたかったが行けなかった。南方に2年、じ州に1年2カ月。あらかた前線にいた。八路軍、蒋介石の前、満州に来てすぐ。一晩中歩いたら、背中から太陽が上がってきて、道が間違っていたことがわかった。太陽から西から出るものかと、また戻った。丸二日歩いたことになる。そんなばかなことがあるか。足が化膿すると穴をあけて、ヨウチンをとおすと、汁がでる。2日ばかりで皮がはげていく。帰りの船のなかで、上官には、歩いてもらったよ。舳まで。それから、さいなら。海にどぼんさ。夜のことだ。
 
 いまわさび田のある三ノ瀬には木地師がいた。この間、バスにのったら、市場のおばあさんがわたしに言う。「あんた中山の人か、わたしは中山におじいさんといたから、懐かしい」と言った。おじいさんは大正8年に72歳でなくなったと言うことになる。木地師は小椋姓だ。木地師に椀をつくってもらった。いまでもあると思うんだ。
 
 戦争から帰ってきて、すぐに石段をきれいにした。石は河原から背負ってきた。景気づけに酒を飲んだ。というより、景気づけに女たちが酒を飲ませるんだ。ひっくり返ってな。石を背負ったまま。
 

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